「鎌倉恋便り」



名に深い歴史を秘める 「 乱 橋 」(第72回)



乱橋(みだればし)を漠然と見つけるのは難しいかもしれません。
逆川橋より南下し左に本興寺を、右に辻の薬師堂を見て、更にJR三浦道踏切を渡ると右手に元八幡宮の道標が建っています。水道道との交差点を横断し、さらに進むと左手に妙長寺が見えます。妙長寺を通り越した少々先にあります。
乱橋の石碑は左に建っていますが、橋は1m程度の弓形の欄干状の石だけです。規模が小さく注意しながら歩いていないと見落とす可能性が大きいでしょう。

「吾妻鏡」には濫橋と書かれており、その他亂橋又は乱橋とも書かれるようです。
鎌倉時代から乱橋の名称は正式の公文書に使用されていました。鎌倉十橋のうちで、吾妻鏡に見られるのは「筋違橋」「濫橋(乱橋)」の二橋のみです。

乱橋の名は、かつて村の名称にも使用されていました。
元禄時代には材木座村を乱橋村材木座村の二村にわけ、村人は乱橋材木座と二つの名称を連ねて呼んだと言われています。その後、1888(明治21)年に再び両村が合併し乱橋材木座村と呼ばれていました。
1939(昭和14)年11月に市制執行により鎌倉市乱橋材木座となりましたが、戦後の住宅表示制度の実施に伴い、1964(昭和39)年乱橋の名は抹殺され、今はその名を石碑に残すのみとなってしまいました。

幕府が終焉を迎える1333(元弘3)年5月23日、新田義貞の軍勢が鎌倉に攻め入った時に、防衛していた北条軍がこの橋の付近より崩れ始めた事より敗北が決定したそうです。
このことにちなんで「乱橋」の名がついたと伝承されていますが、新田義貞軍の鎌倉攻めは1333(元弘3)年5月である一方、吾妻鏡に乱橋の名が見られたのは1248(宝治2)年6月と約85年溯らねばなりません。
そう考えると、字こそ違いますが当時橋はすでに「みだればし」と呼ばれていたことになります。
恐らく新田攻め以後「乱橋」の字が当てられた?とする見方が有力のようです。

 




写   真       解    説      
乱 橋 1

橋の石碑には、
橋の南方に連理木(れんりのき)がありて名高し
という件があります。

連理木とは別々の根からなる二本の木の枝が重なり繋がったもの。
しかし、現存はしておらず残念ながら珍しい木の姿を見ることはできません。
乱 橋 2

水道道との交差点方面から歩いてくると、左側道端にポツンと立つ石碑。

興味のない人には、何の石碑か意味がわからないかもしれません。
歩道の東側にある橋下を流れる溝で、ようやくこの「石」が橋?であることがわかります。

ほとんど暗渠化しつつある溝を「形だけ」橋にしたと言っても過言ではないような橋です。



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