「鎌倉恋便り」



悲劇の英雄義経伝説 「 満 福 寺 」(第76回)



江ノ電の線路が三門のすぐそばを横切る満福寺(まんぷくじ)は、744(天平16)年に行基が開いたといわれる古刹で、源義経が”腰越状”を書いた寺として名高いお寺です。
1185(文治元)年、壇ノ浦で平家を討ち取って凱旋してきた義経は鎌倉に入ろうとしますが、源頼朝に拒まれて腰越に留め置かれてしまいます。それは後白河法皇から源頼朝の許しを得ないうちに官位を授かってしまったことからでした。

当時の腰越は、鎌倉と京都を結ぶ街道の鎌倉に最も近い宿駅でした。
一般の宿もありましたが、高貴な人は満福寺を宿としていたので、義経一行もこの寺にとどまったようです。ここで義経が和田義盛などを通じて頼朝の怒りを解こうと、幕府公文所別当の大江広元に兄へのとりなしを頼み、謀反心の無いことを書きつづったのが腰越状です。
しかし、この訴えは聞き入られず、義経は以後、謀反人として頼朝から追討されることになります。
京都から各地を転々として奥州平泉に至り、衣川で最後を迎えた義経は31歳という若さであり、自害した義経の首が検分されたのも満福寺でした。役目を務めた和田義盛は涙をこぼしたといいます。弟とはいえ義経は頼朝にとってぜひとも排斥しなければならないライバルだったのです。

境内には「義経公慰霊碑」が今も残されています。
ちなみにこの腰越状は「吾妻鏡」に全文が残されており、名文としてしられています。寺には弁慶が書いたとされる腰越状の下書きが残っています。

境内には弁慶が水を汲んだといわれる硯の池、腰を下ろしたという腰掛け石手玉石などがあり、本堂にはこの故事にちなんで義経の生涯を描いた襖絵があります。襖絵は、鎌倉彫と漆絵の技術を組み合わせたもので32面の大作です。
また4月中旬に開催される鎌倉まつりでは、義経祭として”静の舞”や慰霊供養も行われます。

                 

 




写   真       解    説      
満福寺三門

三門のすぐ下を江ノ電が走っています。
この写真はちょうど江ノ電の線路をこえたあたりから三門を撮影したものです。
三門の後ろに慈悲観音像と本堂が見えます。

宗派:真言宗大覚寺派
山号寺号:龍護山医王院満福寺
開山:行基(中興開山・高範)
本尊:薬師三尊
満福寺本堂

聖武天皇に関東の流行病を治めるように命ぜられた行基が、この地で祈祷したところ、不思議と疫病が治まり、その功徳をたたえて寺を建立したと伝えられている……が定かではないようです。
中興開山は、1173(承安3)年に没した高範といわれています。
本尊の木像薬師如来像は施薬、医術の仏。
木像地蔵菩薩立像は約1200年前の作といわれています。
珍しいのは本来、穀物の神である宇賀神の木像で、ここでは仏教の神として信仰されています。
他にも弁慶の腰越状の下書き、弁慶の椀・錫杖の他、「義経と静(御前)」の別れの場などを描いた32面の襖絵があります。
弁慶の腰掛石

本堂前の境内には「弁慶の腰掛石」があります。

その横には「弁慶の手玉石」も置かれています。
手玉石は直径60cm大の団子のような石で、これを手玉に取るには、ずば抜けた怪力の持ち主でなければ不可能でしょう。
硯の池

義経の家来・弁慶が腰越状の下書きをするために水を汲んだといわれる硯の池。
硯の池にはこんな話が残っています。
頼朝の怒りが解けるよう願いながら静かに墨をすっていると池のほとりでコオロギがしきりに鳴いた。弁慶が「やめよ!」と叫ぶとコオロギは鳴き止みあたりは静まった。以来この境内のコオロギは決して鳴かないという。

今はコンクリートに埋められ、池もわずかな水面が覗けるだけとなってしまいました。小生も寺の方に「どこに池があるのですか?」と聞いてわかったほどです。



 「鎌倉恋便り」取材リスト   「鎌倉恋便り」探訪マップ 

「鎌倉恋便り」メニュー