「鎌倉恋便り」



500年も風雨にさらされてきた大仏
「 高 徳 院 」 (第52回)Part 1



今日鎌倉の大仏ほど大衆に親しまれ、知られている仏像は他にないでしょう。
しかし、世界的にも有名なこの仏像の生い立ちに関しては、今もって謎が多いのです。これだけの仏像でありながら「吾妻鏡」にもほんのわずかな記述しかないのです。

1243(寛元元)年6月16日の「吾妻鏡」の記述によると八丈余の阿弥陀仏の大仏殿の供養が行われたと具体的に示しています。しかしながら9年後の1252(建長4)年8月17日にある大仏に関する最後の記述では深沢の里に金銅八丈の釈迦如来の像を鋳て始めたてまつると出てきます。
前者の大仏は木像なのか塑像なのか記述されていませんが、後者では金銅仏と記されています。しかし、前の仏像がどうなったのか、何のためにつくられるのかわかりません。
現在ある大仏が、建長4年につくり始めた大仏か?
と考えてみますと、八丈(立った場合の高さ、座った場合は約半分・現存大仏は三尺八寸)の金銅仏という点は一致しますが、今の大仏は釈迦如来でなく、阿弥陀仏なのでおかしい

この謎には様々な学説がだされています。
疑わしい部分が多々あるといわれていますが、「東関紀行」というこの時代の紀行文によると、1242(仁治3)年10月の時点で十二楼のかまえという仏殿は2/3できあがっており、阿弥陀仏は木像とされています。当然これは初代大仏のことです。
大仏二世は「吾妻鏡」では釈迦如来とありますが、これは誤って書かれたものと見られています。したがって現在我々が見る大仏そのものが、それなのでしょう。では、当初の木像仏から9年後に再び金堂の大仏つくろうとした意図は? これは大仏完成後、わずか4年目の1247(宝治元)年9月1日に台風が吹き荒れ、多くの仏閣人家とともに破損し失われてしまったため、新たに金堂大仏をつくることになったというのが通説です。

しかし、もし本当に釈迦如来の大仏が存在していたとしたら、現大仏は三代目ということになってしまうのでしょう。

その後、大仏殿が朽ち果て、何度もの補修が行われ、台風や地震など数々の受難をくぐりぬけながら 現在も造立当初の姿で大仏が座っているということは驚きです。その年齢は700歳をはるかに超えます。
いくたびかの時代が変わっていった中で、同じように目の前で手を合わせ、あるいは物見遊山訪れた人間たちを眼下にして、露座の大仏は何を思っているのでしょうか。

*「鎌倉大仏のよもやま話第52回 Designer's note も是非ご一読下さい*



Part 1, Part 2 と続けてご覧下さい。
                 

 




写   真       解    説      
高徳院三門

同じ極楽寺方面にある長谷観音もそうですが、大仏の門前の賑わいぶりはほかの鎌倉寺院の門前では見られない光景で親しみ深い雰囲気があります。

大仏に遠足あずけて教師たばこ

高浜虚子の句だそうです。楽しそうにとび回る子供たちや修学旅行生たちを優しく見下ろしている大仏の姿が目に浮かんできます。
今日、鎌倉の大仏ほど大衆に親しまれ、知られている仏像は他にはないでしょう。
高徳院境内風景・露座の大仏

鎌倉大仏は露座です。本尊が露座というのは珍しいことですが、もちろん鎌倉大仏も当初は大仏殿の中におさまっていました。大仏の周囲には大きな礎石が残っていて、今では参拝者がベンチ代わりに腰を下ろしています。

大仏殿が消滅した記録をたどってみると、新田義貞に滅ぼされた最後の執権・北条高時の遺子、北条時行が1335(建武2)年中先代の乱で鎌倉に攻め入った時、暴風雨に襲われ500余の兵が大仏殿に逃げ込んだが、棟梁が強風で倒され兵が圧死したと残されています。(「太平記」より)
1495(明応4)年8月、台風と思われますが ”洪水由比浜激揚して大仏の堂破る”とあります。明応7年8月25日にも大地震があって、鎌倉の浜に津波が押し寄せその水勢は大仏殿まで及んだそうです。(「鎌倉大日記」より)

以後、大仏殿に関する記録はありません。
幕府を失った鎌倉はその後草深い里となっていったはずなので、修復されることもなく天災のたびに傷みつづけ、やがて朽ち果てたのではないかと想像されています。
大  仏

鎌倉の大仏は、高徳院の本尊です。
高徳院は鎌倉三十三観音霊場第二十三番札所でもあります。

この本尊の大仏は大きさにおいては奈良・東大寺の大仏に次ぐものですが、修理もほとんど行われず、鎌倉時代の建造のままの姿で今日に至っている点でははるかに価値があります。
奈良の大仏の場合は、頭、手などは後世のもので、当初の部分は胴体と蓮華座だけです。

700年という年月の中で胎内は賭博場や男女の密会の場所、鳥たちが巣をつくりおびただしい糞で汚れていた時代もあったといいます。江戸末期には胎内に盗賊が住みつき住職が逃げてしまったという逸話もあります。(「梅花無尽蔵」などより)





 「 高 徳 院 Part 2 」