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建長寺(けんちょうじ)は、鎌倉五山第一位「巨福山建長興国禅寺」というのが正式名称で、今からおよそ750年前(2002年現在)、鎌倉が最も栄えていたころ鎌倉幕府五代執権北条時頼によってわが国最初の禅寺として建てられました。 この地はもともと地獄谷と呼ばれた罪人処刑場のあとで、お地蔵様を祀る伽羅陀山心平寺(きゃらださんしんぺいじ)という寺があったそうですが、当時は廃寺となって地蔵堂だけが残っていたといいます。 建長寺仏殿の本尊は禅寺の大寺院としては珍しい地蔵菩薩像です。 かつて地蔵堂に祀られていたという伝承がある地蔵菩薩像は、現在の仏殿に納められています。 開山は、円覚寺に先立つこと29年の1253(建長5)年のちに大覚禅師の称号をおくられた中国宋の高僧蘭溪道隆(らんけいどうりゅう)で、宋の激しい禅風を導入し、盛時には千人を越す修行僧を指導し、七堂伽藍のほか、四十九の塔頭(本寺内にある子寺)をもつ巨大寺院でありました。 現在も総門・三門・仏殿・法堂などが直線上に配置された中国の禅寺様式をそのまま伝えていますが、残念ながら当時の建物は度重なる火災や地震などでほとんど残っておらず、現在の建物の多くは江戸時代の再建、または移築されたものとなっています。 境内は全域が国の史跡指定です。鎌倉三十三観音霊場第二十八番札所にもなっています。 さて、なぜ時頼が新しい宗教である禅宗をとり入れたのか? 当時の鎌倉は大飢饉や天災に見舞われ末世末法の思想がはびこっていました。仏教者も権力に媚び、俗っぽい争いをし、惰眠をむさぼる堕落した僧たちが多く存在していたといいます。そこで京都の仏教に対する独自性があり、尚かつ武士の精神的な支柱となる新しい思想の導入を求めたと考えられています。 同時にそれは、国力や文化の高い宋との絆づくりでもありました。 禅宗は自らの力で目覚めなければならない典型的な宗教であり、建長寺創建の頃は今日のように臨済宗、曹洞宗などと分かれてはおらず、中国禅であったことは間違いありません。 現在の伽藍は、別名「巨福門」とよばれる総門、後深草天皇の宸筆の額を掲げた三門、鎌倉時代の名鐘として名高い梵鐘、仏殿前には樹齢750年のビャクシンの老樹、夢窓国師作の心字池などがあります。 建長寺の境内を歩いて受ける印象は、円覚寺などの場合と若干異なります。 円覚寺では堅苦しい雰囲気がありますが、建長寺では気楽に訪れやすい感じがあります。それは本尊のお地蔵様や建物などの伝説めいた話のせいかもしれません・・・。 建長寺を訪れたとき皆さんはどのように感じるでしょうか。是非境内をゆっくりと探索してみて下さい。 参考: 建長寺・山内の塔頭一覧 妙高院 28世の住持・肯山聞悟の塔所。本尊は観音菩薩坐像。 鎌倉三十三観音霊場第二十七番札所。 西来庵 開山・大覚禅師の塔所。 同契院 1335(文和4)年に没した象外禅鑑(妙覚禅師)の塔所。 宝珠院 1360(延文5)年に没した35世住持・了堂素安(本覚禅師)の塔所。 その木像の頂相を祀る。 龍峰院 1276(建治2)年北条時宗創建と伝わる。 1307(徳治2)年北条貞時が15世住持・約翁徳倹を招き開祖としその塔所。 本尊は運朝作という聖観音菩薩坐像で開山像や伽藍神像なども安置。 鎌倉三十三観音霊場第二十九番札所。 天源院 1308(徳治3)年に没した13世住持・南浦紹明(円通大応国師)の塔所。 正統院 1316(正和5)年に没した14世住持・高峰顕日(仏国禅師、応供広済国師)の塔所。 浄智寺から移された"正和4(1315)年"銘の院恵作・高峰顕日の寿像を祀る。 回春院 1334(建武元)年に没した21世住持・玉山徳せん(仏覚禅師)の塔所。 文珠菩薩坐像や仏覚禅師坐像、韋駄天立像などを祀る。大覚池がある。 禅居院 1329(元徳元)年、小笠原貞宗を開基。 1339(暦応2)年に没した22世住持・清拙正澄(大鑑禅師)塔所。 本尊は聖観音菩薩坐像。 観音菩薩が人々を救うために姿を変えた応化身の一つ"摩利支尊天"も祀る。 是非→ 第54回 Designer's note どうぞ |
| 写 真 | 解 説 |
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まず参拝者が必ずくぐるのは総門(西外門)です。 別名巨福門ともよばれています。 1943(昭和18)年、方丈と共に京都の槃船三昧院(はんしゅうざんまいいん)から移築されたものですが、門にかかっている「巨福山」の額は建長寺10世住職一山一寧(いっさんいちねい)の筆といわれています。 実際の額の字は巨の字の下方に一つ余分なヽが打ち込まれており、これによって全体が引き締まり百貫の値を添えたということから「百貫点」とよばれています。 |
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境内に入ると桜並木の奥に立っているのが高さ30mの巨大な三門です。 三門は山門とも書きますが「三解脱門」の略号で、ここを通ることで心が清浄になるといいます。 1775(安永4)年の再建。「建長興国禅寺」の額は後深草天皇の宸筆。 力強い重層門で、上層には五百羅漢が安置されているといいますが残念ながら未公開です。 これを建てるにあたって、裏山の狸たちが托鉢を手伝ったという言い伝えがあって、別名「狸の三門」とよばれています。万民の力によって再建されたことを強調するためこんな話が生まれたようです。 事実工事に参加すると粥がもらえたとあって、飢えた人々が大勢参加して土台を踏み固めたようで、大正時代の関東大震災にもびくともしなかったそうです。 |
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三門の右手に立つ茅葺きの鐘楼には、建長寺で唯一創建当時からのものである梵鐘(国宝)がかかっています。 1255(建長7)年に開基・北条時頼を大檀那とし、開山・蘭溪道隆が銘文を撰び、物部重光が鋳造しました。 鎌倉に現存する鎌倉時代の洪鐘は、建長寺のほかに円覚寺、常楽寺、長谷寺にありますが、建長寺の古鐘は、大きさでは円覚寺のそれに及ばないものの関東一との評判が高い。高さ約2.1m、口径約1.2mの細長い鐘で頂部に2頭の龍がデザインされており、姿のよい鐘でも知られています。 鎌倉の除夜の鐘の音は無数の谷戸にこだまするのか、"味わい深い響きをもつ"といわれますが、建長寺の洪鐘の音は人の泣き声に似て、「夜泣き鐘」とよばれています。 |
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1647(正保4)年に、江戸の増上寺にあった徳川秀忠夫人・嵩源院の霊廟の拝殿を移築したものです。 堂内に鎮座する地蔵菩薩像は、座高2.4m台座を含めると5mにもなる巨大な像で、禅宗では珍しい本尊です。日頃小さなお地蔵様を見慣れている我々はその大きさにギョッとします。 建長寺造立以前からこの地にあった地蔵信仰に基づくものとみられます。1414(応永21)年の炎上後に再興された像と推測されています。大きくてもふっくらとして頬に大きな目の優しい顔立ちのお地蔵様です。 脇壇の千体地蔵は室町期から江戸期の像で282体が存在し、頭部のみが46個あり、中心の地蔵菩薩像は旧心平寺地蔵堂本尊といわれ、鎌倉後期の作品です。 また、三門から仏殿の間には開山の蘭溪道隆が宋から持ってきたといわれている樹齢推定750年のビャクシンがあります。 写真では、仏殿のうしろに隠れて法堂が写っています。 |