「鎌倉恋便り」



名将の側室が名の由来 「 勝 の 橋 」(第118回)



江戸時代、交通の要所であった扇ヶの付近にあったのが勝の橋(かつのはし)です。
鎌倉五山に数えられる寿福寺門前を起点に、南に今小路、東に八幡宮の横大路に通じる巌窟小路がありました。
現在、寺の門前には「川上藤沢宿」と刻まれた道しるべの庚申塔など五基の庚申塔が竹垣の中に並んでおり、その裏に「勝ノ橋」と刻まれた石柱が、一枚の大きな石柱と共に立っています。
寿福寺の門前に流れる小さい川に架かる橋でしたが、現在は道路を拡張したため暗渠化されてしまいました。

勝の橋は、他の鎌倉十橋とは生い立ちが些か異なっていて、鎌倉十橋の主なものは、鎌倉時代の物語とか合戦に関係していますが、勝の橋は他の橋と比べると時代が比較的新しく、江戸時代初期に架橋したそうです。
江戸期の鎌倉交通路では重要な役割を果たしていて、明治末期は立派な橋だったようですが、自動車の通行の激化で平らな橋に改修され、さらに横須賀線の敷設工事で死橋となり、今では橋の姿も捉えがたくなってしまいました。

さて、話は橋の名の由来に飛びましょう。
この小橋の誕生には鎌倉唯一の尼寺の開基となった才女が関わっています。
寿福寺の北隣にある英勝寺は、江戸時代にできた鎌倉唯一の尼寺。またこの土地は江戸城を築いた太田道灌の屋敷跡でもありました。英勝寺は徳川家康の側室・お勝の局が開基となり、のちの水戸徳川家の姫が代々住持となる格式をもった由緒ある寺院です。
太田道灌を先祖にもつ、お勝の局は血筋の良さ、才気煥発で機転がきく才女として際だっていたそうです。
この賢女を晩年の家康は寵愛し、戦陣の際には必ず連れていき、また彼女がいると必ず“勝つ”ということから「お勝」と名付けられ、勝の局は家康の子息頼房(後の水戸藩の開祖)の義母となって英勝寺は水戸家の尼寺と言われました。
この勝の局が寿福寺前の小川に橋を架けた事から、この橋を勝の橋と称するようになったそうです。

今は石標のみで見過ごすかのような勝の橋ですが、橋の誕生には名将の側室として時代を生きぬいた才女の存在がありました。

話を鎌倉時代に移します。
この付近は、頼朝が鎌倉に入る前より源氏に関係が深く、寿福寺の裏の源氏山は、昔しより旗立山又は御旗山と称しました。八幡太郎義家が奥州征伐の際に、この山に旗を立てたとの話もあります。
さらに、義家の曾孫に当たる源義朝(頼朝の父親)の屋敷が寿福寺付近にあったと言われています。頼朝が大軍を引き連れて鎌倉に到着した翌日には、亀ヶ谷の義朝の館跡を訪れ、この地に源氏の屋敷を構えようと計画をしましたが土地が狭く、また岡崎義実が義朝を供養すべく祠を建てていたので計画を急きょ変更し、筋違橋の北東の大倉の地に屋敷を建てたということです。

 




写   真       解    説      
勝の橋・石柱周辺

道しるべの庚申塔など竹垣の中に五基の庚申塔が並び、その横に少し見えているのが「勝ノ橋」の石柱です。

新編鎌倉志に、今小路は寿福寺の前に石橋あり。勝橋と云。鎌倉十橋の一なり。
新編相模国風土記稿に、勝橋は寿福寺の前に架す、鎌倉十橋の一にして石橋(長八尺七寸、幅六尺)なり。
とあるように規模は橋長2.6m、幅員1.8mの橋でした。
明治の末頃迄は立派な石橋であったと言われています。是非見たかったものです。
勝の橋・石柱

石柱の橋標は寿福寺の前の道路際に建てられていて、表面及び裏面は他の道標と同様に書かれています。

北側の面には「北西約七町化粧坂日野俊基之墓」、南側の面「西方寿福寺、源義朝の邸跡、政子実朝之墓」と付近の遺跡案内が書かれています。



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