「鎌倉恋便り」



護良親王幽閉の土牢? 「 鎌 倉 宮 」(第33回-1)



荏柄天神社に入るバス通りを東北に少し行くと、白い大鳥居の中に鎌倉宮があります。地元では大塔宮(だいとうのみや)として親しまれています。

1986(明治2)年、明治天皇が、後醍醐天皇の皇子護良(もりなが)親王の霊を祀るために東光寺跡に創建した、古都鎌倉では比較的新しい神社です。

護良親王は、僧となってその門室を大塔といったので大塔宮と呼ばれました。 親王は、天台座主ともなりましたが、まもなく辞めて、後醍醐天皇の計画に加わり還俗して護良と改め、千早城の楠木正成と呼応して吉野城に北条氏の軍勢を悩ませ鎌倉幕府打倒に貢献しました。
建武の新政では征夷大将軍となりましたが、しだいに尊氏と対立を深め、尊氏を討とうとしたために、1334(建武元)年、捕らえられて鎌倉に流されました。鎌倉では、現在鎌倉宮のあたりにあった東光寺に幽閉されていましたが、1335(建武2)年北条時行が鎌倉に乱入した中先代の乱のさいに、鎌倉にいた足利直義(尊氏の弟)が、家臣の淵辺義博に命じ護良親王を暗殺してしまいました。享年26歳でした。

敵と味方がめまぐるしく変わったこの時代の悲劇的ヒーローでありました。


               

 




写   真       解    説      
鎌倉宮は大塔宮とも呼ばれる

石の鳥居をくぐった先には拝殿と本殿があり、本殿の裏に 護良親王が幽閉されていたという土牢があります。
徳川幕府を倒し、大政を奉還させた明治天皇にしてみれば、時代こそ異なってはいても 倒幕のため命を捧げた護良親王を祀ろうとなさったのは当然のことだったのでしょう。

鎌倉宮のお守りは朱塗りの獅子頭です。
古来から厄除けのお守りとして信じられ、護良親王も建武中興の時、兜に付けていた?とか。 鎌倉宮のものは木製で朱塗り。厄除け、幸運招来、交通安全など災いを避けて幸運を呼ぶ お守りです。
村上社と南方社

本殿の脇には護良親王とともに鎌倉にきて、親王の幽閉中世話をし、 その遺骸を理智光寺に葬ったという南御方(みなみのみかた)を祀る南方社(向かって右) や、吉野で親王の身代わりになって戦死したという村上義光を祀る村上社(向かって左) の摂社があります。

幽閉中の護良親王に付き添い生活を世話した南御方という女性は持明院藤原保藤の女 といわれ、親王が殺された時には親王の子供を身ごもっていました。
その後生まれた子供は男の子で、楞厳丸(りょうごんまる)と名付けられ、後に 大町妙法寺を中興した日叡となります。
護良親王幽閉伝説の土牢

社殿の後方に回ると護良親王が幽閉されていたという土牢がありますが、 幽閉されたのは三方を塗り込めた東光寺の座敷牢とみる説が強いようです。

社殿背後の土牢は、山腹に掘られた4m四方ほどの土牢です。皇子ともあろう人を こんな酷なところへ・・・と尊氏らは国賊として大変憎まれたようですが、実際 護良親王が幽閉されたのはここではなかったようです。

現在では土牢幽閉の話は、後世の作り話とみられています。



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