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扇ガ谷の北、閑静な一角にたたずむ海蔵寺(かいぞうじ)は、1253(建長5)年にもと真言宗のあった地に大伽藍を備えた寺が建立されましたが、鎌倉幕府滅亡の際に炎上。その後1394(応永元)年、足利氏満の命により上杉氏定が再建したといわれています。いわゆる五山や十刹には属することなく1577(天正5)年以降は塔頭のような存在として建長寺に属し現在に至っています。鎌倉三十三観音霊場第二十六番札所でもあります。 境内には江戸時代に浄智寺から移されたという仏殿と、大正時代に建立された本堂が立ち、秋の萩を筆頭に四季折々の樹木で彩られる景色は大変美しい。 ある年のこと、寺の裏山から毎日なんとも悲しげな赤ん坊の泣き声が聞こえてくるので開山が行ってみると、泣き声は古ぼけた墓石の下から聞こえ金色の光がもれ輝いていたといいます。そこで開山が経を読み袈裟で墓石を覆ったところ泣き声はやみ、翌日そこを掘ってみると立派な薬師の面が出てきたので、新たに薬師如来像を建立し、そのお面を胎内に納め祀ったのが現在の本尊といわれています。この伝説から本尊は別名「啼薬師」(なきやくし)「児護薬師」(こもりやくし)と呼ばれ、子育てにご利益があるそうです。 不思議といわれている話はもうひとつあって、薬師堂の脇を通って洞門をくぐると、格子のはまった真っ暗な岩屋の中に、何のために造られたものなのかわからないという謎に満ちた井戸(?)があります。これが十六の井です。 かたわらに置いてある懐中電灯を使って中を覗くと、四角い岩屋の中にそれぞれ直径約70cm、深さ約40〜50cmの16個の穴が清冽な水をたたえて並んでいます。目を凝らすと正面の壁に観音菩薩像と弘法大師像が祀られているのもわかります。伝承では、霊験ある金剛巧徳水の井戸といわれていますが、一説ではやぐら状の墓所で穴は骨を埋めるためのもの?だともいわれていて真相は謎に包まれたままです。ここから出土した「嘉元4(1306)年」銘の美しい板碑は、鶴岡八幡宮の一角にある「鎌倉国宝館」に出陳されています。 この寺には、門前の道ばたに鎌倉十井の一つである「底抜の井」があります。 |
| 写 真 | 解 説 |
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詳しい寺歴史はわかっていないようですが、1791(寛政3)年に作成された 海蔵寺境内図を見る限りでは、今の建物の配置はほぼ同じです。 山門前のゆるい石段のような参道も今と同じですが、底抜の井戸の位置が 現在と反対側になっています。つまり山に向かって左側に描かれているのは どうしたわけなのでしょう? 今は住宅地になっている参道の両側には、龍雲院・龍渓院・真光院・崇徳院 などの塔頭の跡とみられる記載があります。この頃はまだ鐘楼はなかったようです。 しかし、古図が描かれた寛政時期の海蔵寺でも多くの塔頭が 跡だけとなっていることから、決して伽藍がそろっていた時代ではなかったことがわかります。 |
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別名「啼薬師」(なきやくし)「児護薬師」(こもりやくし)と呼ばれ、子育てにご利益があるといわれている薬師如来座像。 本文内でその伝説を記載したように、像の胸から腹部にかけての扉のような部分を開くと 胎内に大きな薬師の面が納められています。 |
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海蔵寺の謎のひとつである「十六の井」。 仏殿の裏手、三門を出た右側の小さなトンネルをくぐると 山際に格子がはまった岩屋があります。 その中が「十六の井」です。 昔は質素な木の扉があり、庫裏で鍵を借りて中を見たのですが、観光客が増えたせいか 今では懐中電灯も用意されており、入口から自由に中をのぞけるようになりました。 古図によると、この付近の民家のあるあたりは、伽藍が整っていた時代の 塔頭・龍渓院の跡と思われます。 |