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国道134号線をはさみ、小動神社(こゆるぎじんじゃ)の向かいに位置するのが浄泉寺(じょうせんじ)です。 山号寺号を小動山松岩院浄泉寺といい、昔、神仏を一緒に祀っていた時代は、小動神社と浄泉寺が一緒になっていたそうです。1955(昭和30)年、国道134号線が造られた時、小動神社と続いていたお寺の敷地内を本堂の位置と向きを変更し、三門も国道側へ移しました。 朱塗りの三門をくぐるとやや左側正面に本堂があり、本堂右に庫裏があります。 本堂前に大きな「蘇鉄(ソテツ)」が小山のように茂っており、境内はさほど広くありませんが、地蔵堂や関東大震災殃死者供養塔なども建っています。 関東大震災当時、腰越は鎌倉郡腰越津村とされており、『鎌倉震災誌』によると、 「腰越津村は全戸數の約三割七分に當る二百七十八戸を焼失し、全潰四百十五戸、半潰百六十二戸、死者五十八名を出し、全村殆ど壊滅した。同村七里ヶ濱の鈴木病院は全潰して、死者十一名を出したのは悲惨であった。」 とありますが、石碑には80名の犠牲者と刻まれており、『鎌倉震災誌』による死亡者は病院の倒壊で死亡した人を合わせても80名にはならず、今となっては不明確な部分もあります。 小動神社は江島神社と関係が深く、お寺の開山と伝えられる弘法大師が江ノ島で修行されたと伝えられているそうです。 浄泉寺のご本尊「不動明王像」は左手に剣、右手に索(さく)を持ち「左剣不動明王」と言われています。 左手に持った剣を手を交差して右にかざし、右手に持った索は左側にあるので通常の不動明王と同じ側に剣と索がみえるそうです。 また同地区の腰越小学校は、明治5年の学制発布により、発蒙学舎として浄泉寺に建てられました。 現在の場所には、明治37年に移り、平成14年には創立130周年を迎えた歴史の長い小学校となっています。 |
| 写 真 | 解 説 |
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国道134号線に向かって建つ朱塗りの三門のいわれは、 三門(三解脱門)からきており、結界の入り口で結界の中は汚れを嫌います。赤は魔よけの色なので、朱色にしてあるそうです。 浄泉寺は昔から赤い三門だったとのこと。 ちなみに四国八十八番札所の寺院には、いくつか赤い三門があるそうです。 |
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開山は空海と伝えられていますが、中興開山は1558(弘治4)年に没した元秀(げんしゅう)であるといわれています。 神仏分離令以後も1917(大正6)年まで浄泉寺の住職が小動神社の別当を務めていました。このような例は極めて珍しいそうです。 小動神社のある「小動岬(こゆるぎみさき)」は、七里ガ浜と片瀬・腰越の浜を分けており、地名の由来は、岬の山頂に三本の松があり、この松が風もないのに枝葉が揺れていた、というところからだといわれています。 |
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寺に鐘楼はなく、鐘は本堂の軒に吊されています。 余談ですが、国道134号を工事中の1954(昭和29)年、寺の墓地の南側と小動神社境内から約60Kgもの古銭が出土しました。 開元通宝、治平通宝のほか宋や明のものも見つかり、総数は千数百枚にもおよんだそうです。 |
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腰越の通りに面した、旧参道入口の石碑には「弘法大師廿一ケ所第十六番」と書かれています。 小動神社はかつて八王子社といわれ、1333(元弘3)年に新田義貞が鎌倉攻めの途中で八王子社に奉納した剣が、浄泉寺に一時保管されていたといわれています。 また、昔は小動神社の領地が今の江ノ電「七里ガ浜駅」周辺まで広がっていたと聞きます。 |