「鎌倉恋便り」



「粟船山」の山号が「大船」の由来 「 常 楽 寺 」(第29回)



常楽寺(じょうらくじ)は北条泰時が母の供養のため、1237(嘉禎3)年に創建しました。
開山は退耕行勇(たいこうゆうぎょう)で、当初粟船御堂と呼ばれていましたが、泰時亡き後1246(寛元4)年、宋の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が日本に来て寿福寺にいたのを泰時の子時頼が常楽寺に招き住職とし、度々訪れて道を聞いたといいます。

1253(建長5)年建長寺ができるとその開山の為、蘭渓道隆は建長寺に移りました。そのため常楽寺は建長寺の根本といわれています。

仏殿は1691(元禄4)年に再建されています。本尊は阿弥陀三尊像です。
わきにある文殊堂は明治初年に扇ガ谷の英勝寺から移されたものです。
1月25日の文殊祭以外は開扉されませんが、蘭渓道隆が宋からもってきたという文殊菩薩像や不動明王、毘沙門天が祀られています。

また、墓地には北条時頼の墓、鎌倉時代の高僧・大応国師の墓、南浦紹明の墓があります。裏山にある姫宮塚は泰時の娘の墓といわれ、山頂には木曽義高塚があり、木曽(源)義仲の子で源頼朝に人質に送られ、殺害された義高の墓といわれていますが、元々は常楽寺から300mほど離れたところにあった木曽塚だそうです。

境内の奥には無熱池があり、小さな弁天社が祀られています。
これは江ノ島弁天の十六童子のひとり、乙護童子が安置されているといわれており、当時蘭渓道隆が江の島に参籠したとき、江の島弁財天から授けられたと伝えられているようです。

鎌倉にある多くの古寺が観光化されてしまった現在、常楽寺のように沢山の歴史を眠らせながら、静寂につつまれた自然の寺が残っていることは、小生非常に嬉しいことと感じております。


 




写   真       解    説      
三門に掲げる「粟船山」の額

バス通りから数十メートル路地を入ると、茅葺きの三門があります。
現在の常楽寺の回りは大船駅周辺の住宅地となっており、大船駅より 常楽寺経由、鎌倉湖畔行きバスに乗車して5分あまりの場所にあります。
鎌倉市内に点在する寺の中でも、常楽寺は少々ルートから離れた場所にある為 常に静かな古寺の面影を感じさせてくれます。

三門を入るとき上を見上げると「粟船山」と書いた額が掲げられています。
これは黄檗宗の木庵の筆といわれております。

かつてはこのあたりは海が内陸に食い込んでいて、粟を乗せた船が出入りしていた。 その”粟船”が大船になったのだ。とこの寺の記録には残っています。
山号はそれにちなんでいます。
本 堂 内 部

境内に入ると、石畳の参道の両側に木々が枝をびっしりと伸ばしていて 市街地とは思えない閑静な雰囲気に包まれます。
特に開山お手植えといわれる大銀杏の葉が舞う晩秋は風情ひとしお。
また、円覚寺、建長寺の鐘とともに鎌倉の三名鐘として名高い 常楽寺銅鐘(重要文化財)は、現在鎌倉国宝館に寄託、展示されています。

本尊は阿弥陀三尊像で、わきに蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)像が祀られ 天井には狩野雪信筆という龍の絵があり、「円鑑」の無学祖元筆という額も 掲げられています。
常楽寺の仏殿は、大きく戸が開放されていて内部が拝観できるようになっています。
北条泰時の墓

仏殿背後の墓地には、北条泰時の墓があります。

北条泰時(1118〜1224)は3代鎌倉幕府執権で、承久の乱後、六波羅探題として 西国を監視しました。41歳で鎌倉に戻り執権就任。評定衆による合議制を布いた他、 初の武家法典「御成敗式目」を制定するなど武家政治の基本を構築しました。

泰時は1242(仁治3)年に亡くなるとここに葬られたようで その後しばしば供養が行われています。
その頃は粟船御堂と呼ばれていたようです。



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