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浄妙寺(じょうみょうじ)は1188(文治4)年に、源頼朝の臣下だった足利義兼が創建した寺です。 開山は退耕行勇で、当時は極楽寺と称し当初密教系の寺院でしたが、 13世紀半ばに建長寺開山の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)の弟子月峯了然(げっぽうりょうぜん)が禅宗に改め浄妙寺となりました。改宗時期は正嘉年間(1257〜1259)と推測されています。 浄妙寺は南北にある丘陵の谷間に広がる平地にあります。その谷間の中央には滑川(なめりがわ)が流れ、ほぼそれに沿って六浦(むつうら)道と呼ばれる往還路が走っています。多くの名僧を輩出したこの寺は、室町時代に入って足利氏の保護のもとに相当な規模の伽藍を呈していたと思われます。鎌倉時代の伽藍・寺勢の様子はあまり伝わっていません。 寺が所蔵する古絵図により室町時代の伽藍の様子はわかり、塔頭も23院を数えたといいます。室町時代1353(文和2)年以後、浄妙寺は五山に加えられ1358(延文3)年の五山位次で、京都の東福寺、万寿寺、鎌倉の浄智寺と共に第五位に列せられ、1386(至徳3)年、足利義満が最終的に確定した五山制度では、鎌倉五山第五位に列せられました。 鎌倉三十三観音霊場第九番札所でもあります。 浄妙寺の悲運は東隣に鎌倉御所が置かれていたことで、御所が火災を起こすと、浄妙寺も何度か類焼を受けました。鎌倉御所は1357(延文2)年の火災の後、1424(応永31),1429(永享元),1430(永享2)と火災が続き、さらに、 1438(永享10)年の永享の乱で戦火をうけて焼失しています。 浄妙寺はこうした罹災によってしだいに衰退していく運命となりました。 1923(大正12)年の関東大震災で、残されていたほとんどの建物は倒壊して、現在は三門・本堂・新築の客殿・庫裏からなる伽藍となってしまいました。 |
| 写 真 | 解 説 |
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度重なる火災と1923(大正12)年の関東大震災により、 室町時代、盛時の大伽藍の面影はなくなってしまいましたが、 三門から本堂へ広がる静寂な境内(国重文)は鎌倉五山第五位の 風格を現在も保っています。 本堂には釈迦如来像が祀られ、裏の開山堂には栄西の弟子・退耕行勇像(国重文) があります。 その他「足利直義御教書」をはじめ、貴重な古文書も数多く保存されていますが 残念ながら未公開となっています。 |
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三門から続く桜並木をはじめ梅、椿、ボタン、サルスベリ、フヨウなど 花木の多い境内を進むと、左手奥に庭園が見えてきます。 この庭園は、天正年間(1573〜1591)に僧一同が茶席を設けた喜泉庵(きせんあん) を復興したものです。 杉苔を主とした美しい枯山水の庭園で、こちらでは抹茶を楽しむこともできます。 喜泉庵(きせんあん)の入り口には江戸幕府の参賀のおりに使用した 古めかしい駕籠がつり下げてあります。 |