「鎌倉恋便り」



鎌倉公方の祈願所として栄えた 「 浄 光 明 寺 」(第45回)



泉谷山という美しい山号をもつ浄光明寺(じょうこうみょうじ)は、1251(建長3)年 6代執権・北条長時が真阿上人を迎えて開山した寺です。
伝えでは文覚上人が源頼朝の願いで建てた堂宇を寺としたといいます。

1333(元弘3)年には後醍醐天皇の勅願所となり、華厳・天台・三論・法相の 四箇の勧学院を建てて学問の道場としての基礎を築きました。

また、後の室町幕府征夷大将軍となる足利尊氏とも深いつながりのある寺です。
知略家として知られている足利尊氏は、鎌倉公方として代々北条家に忠実に仕えた 名門の出身でした。父貞氏の喪中ながら鎌倉幕府の命で後醍醐天皇が籠もる 笠置城を陥落させたのは1331(元弘元)年。 ついで、病床に伏していた尊氏のもとに、配流先の隠岐を脱出した 後醍醐天皇追討の出陣要請が下されました。
しかし、尊氏は密かに後醍醐天皇と通じており逆に、六波羅探題を後略。
鎌倉幕府滅亡の立て役者となりますが、後醍醐天皇は尊氏の才気を恐れ、新田義貞に 尊氏追討の命を下しました。
この間、尊氏は浄光明寺に蟄居。後醍醐天皇を倒し、室町幕府設立の決断を下したのが この寺であるといわれています。
そのような経緯から、室町時代には鎌倉公方の祈願所として栄えました。
現在は鎌倉三十三観音霊場第二十五番札所ともなっています。

三門をくぐると客殿や不動堂、庫裡が並び、苔むした石段を上りつめた所に 阿弥陀堂があります。 収蔵庫には阿弥陀如来座像があり、衣一面に粘土で型押しした花模様を張り付けた 「土紋」がはっきりと残っていて珍しいものです。他にも脇侍の観音菩薩、勢至菩薩座像、 矢拾地蔵も安置されています。
阿弥陀堂の裏手のやぐらには、1313(正和2)年、由比ガ浜で 漁師の網にひっかかり引き揚げられたと伝わる石造りの 網引地蔵が安置され、裏山には藤原時代の歌人でこの地に住んだ冷泉為相(れいぜいためすけ) の墓もあります。

拝観は曜日が決められており、さらに雨天中止となるので参拝の際は注意しましょう。

 




写   真       解    説      
浄光明寺三門

英勝寺総門前の踏切を渡って室町時代後期に南関東に勢力をもち、 太田道灌(おおたどうかん)も執事として仕えた扇ガ・上杉氏邸跡を経て右折し、 約100mもゆけば静寂な住宅街の中に浄光明寺があります。

このあたりは、鎌倉観光のメインからやや外れているせいか、 一歩踏込んだ探索の観光客がほとんどです。
平日などは人に出会うことも少なく、のんびりとした鎌倉を満喫することができます。
客  殿

三門を入ると建物の中は公開されていませんが、左側の客殿には元寇の敵国降伏を祈った という愛染明王像(あいぜんみょうおう)が祀られています。

右側の不動堂には京都の八坂の五重塔が傾いたとき、祈ってもどしたという 八坂不動と呼ばれている不動明王像が安置されています。
阿弥陀堂

苔むした石段を上ると、そこに阿弥陀堂(本堂)があります。
この阿弥陀堂は、二階堂にあった源頼朝建立の永福寺から移建されたという 伝えをもっています。

その裏手にある収蔵庫に「阿弥陀三尊像」(国重文)を安置しています。
中尊は宝冠の弥陀ともいわれて、江戸時代の宝冠をかぶり像高144cmの巨像で、 両手を胸にとる上品中生説法印を結んでいます。
胎内の文書から「正安元年(1299)」の造立と考えられており、中国宋文化の 影響をうけています。



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