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扇ガ谷方面から亀谷坂切通しに向かう角に、小さなお堂があります。 数年前までは、トタン屋根が錆びて赤くなった… 一見まるで倉庫(失礼m(_ _)m)のようなお堂でしたが、今は大変立派なものに建てかわりました。 戦国の世の常で鎌倉時代は数々の悲劇が起こりました。頼朝と政子の間に生まれた最初の子、大姫の短い生涯もそのひとつといえるでしょう。 大姫が政子とともに鎌倉の地を踏んだのは、まだ2〜3歳のときでした。同じ頃、頼朝の従兄弟である木曽義仲も木曽で旗揚げし、だんだんと勢力を増して同じ源氏の頼朝とは不仲になっていきます。そこで義仲は、嫡子清水冠者義高を、人質として頼朝に差し出します。 とりあえず身内同士の一触即発の危機を救ったが義仲長男・義高11歳と5歳の大姫の婚約でした。 義高は許婚とはいえ人質、それでも幼い二人は兄妹のように仲睦まじく暮らしていたそうです…が、頼朝は源氏嫡流の地位を不動にするため、1184(元暦元)年、義仲を攻撃。さらに義高も暗殺。 大姫は心身に大きな痛手を受け、頼朝や政子の必死の願いもかなわず病身になり、一生を鬱病で過ごしました。 年頃には、両親も公家の一条高能との縁組みをすすめましたが、自分はあくまでも義高の妻であると言い張り、死を賭して拒絶しました。その後、後鳥羽帝の後宮の話も拒否し、1197(建久8)年7月14日に20歳位で亡くなりました。 岩船地蔵堂(いわふねじぞうどう)は、その大姫の守り本尊と伝わる地蔵菩薩像が祀られています。 |
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住宅街の中に立つ地蔵堂の本尊は大姫の守本尊といわれ、木造の地蔵立像は1691(元禄3)年 に 造られています。「右大将頼朝御息女之守本尊」との伝えは当時からありました。 小ぢんまりとした堂は亀谷切通しの入口付近にあり、彼岸 の時には管理する海蔵寺が供養を行っています。 寺内は公開されていませんが、本堂には本尊の釈迦如来像(1567(永禄10):快円作)と開山の大休正念が祀られています。 2001(平成13)年に堂は再建され、立派なものになっています。 |
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1997(平成9)年頃の岩船地蔵堂の写真です。 この質素な御堂は、1690(元禄3)年に建立されたもので大変歴史ある御堂でした。 この御堂時代には、その床下に舟形光背の地蔵石像もあったのですが、2001(平成13)年の再建後の案内板にはお地蔵様の行方が記載されていないので、あの地蔵様はいったいどうなったのだろう? 小生としては質素だけど、地域に溶け込んでる傷んだお堂のほうが好きだった…なんて思っています。やっぱり今風の方が流行りなのかな? |