「鎌倉恋便り」



日蓮の分骨堂がある 「 本 覚 寺 」(第39回)



鎌倉駅東口から若宮大路をわたり、鎌倉郵便局のわきの路地を通って右側にある門を入ると本覚寺(ほんがくじ)があります。小町大路に面し堂々と2層に構えた三門、石碑に記されている「東身延」(ひがしみのぶ)の文字が、日蓮宗の寺として隆盛を誇った格式の高さを感じさせています。

当地は幕府の裏鬼門にあたるため、源頼朝が守護神の恵比寿神を祀った天台宗の夷堂(えびすどう)がありました。1274(文永11)年流罪地の佐渡より鎌倉へ戻された日蓮が、身延山に庵を結ぶまでの数10日間ここに逗留したと伝えられており、日蓮が去って160年後、日出によって1436(永享8)年日蓮宗に改め創建されました。2世の日朝の時、身延山から日蓮の骨を分骨し納めたことから「東身延」と称して栄え、中興の日朝の徳をたたえて本覚寺を「日朝さま」と親しみを込めて呼ぶようになりました。

当時の夷堂は1333(元弘3・正慶2)年新田義貞の鎌倉責めのさい焼失しました。

七里ガ浜の砂丘を小動岬へ向かって歩くと何となく砂が黒い。これは砂鉄を含んでいるからで、鎌倉市の市販の地図には稲村ガ崎の西側に「旧砂鉄採取場(正宗の名刀)」と書き入れてあります。鎌倉時代は戦いに明け暮れ、弓矢刀剣類の大量鉄製武器の消耗合戦でした。本覚寺には「五郎入道正宗碑」が立ち「名工正宗」の墓があります。正宗は鎌倉時代末期の刀工で古今随一といわれました。実際は卵形の墓が2つ並んでいて、刻まれた文字も見えず正宗とその子貞宗の墓の区別がつけられないのだそうです。

正宗は伝説の人となって確かなことは不明なことが多いのですが、正宗の子孫は鎌倉に残っており山村家といい、今小路を逆に東へ入った線路の近くにある「正宗工芸」です。「正宗二十四代綱廣」の看板が掲げられています。

                 

 




写   真       解    説      
本覚寺三門

本覚寺は重層に構えた堂々たる三門(仁王門)、三門の石碑に記されている「東身延」 がとにかく目に付きます。

大町のあたりは日蓮上人ゆかりの地であり、聖地ともいってもよい場所です。 それだけに、このあたりでは日蓮宗の寺院が密集しているようです。
大功寺、本覚寺、妙本寺常楽寺妙法寺安国論寺長勝寺・・・みな日蓮宗です。
仁王門の前は小町大路で、その南に鎌倉十橋の一つに数えられている 夷堂橋滑川にかかっています。
本覚寺本堂

中央には本堂があり、南北朝期の釈迦三尊像や日蓮像・日朝像が安置されています。

鳩が群れ遊ぶ境内は広々と視界が開け、町中とは思えないようなたたずまいです。
仁王門左の百日紅(さるすべり)の大樹や栴檀(せんだん)、ろう梅、牡丹が楽しめる寺で 買い物帰りに気楽に立ち寄っている人の姿も見えるようです。

鐘楼手前の梵鐘は、日出が上総木更津の八幡宮での法論で勝ち、持ち帰ったというもので 「応永十七年」(1410)の銘が記されています。
本堂の左奥には、日蓮分骨堂があります。
二世住持となった日朝(にっちょう)が日蓮の遺骨を身延山より分骨しました。 本覚寺が「東身延」と称された由来でもあります。
本覚寺夷堂

最初の夷堂は1333年の新田義貞鎌倉攻めで焼失しています。
日蓮は佐渡の逗留から戻された時、夷堂に滞在して鎌倉で最後の布教を行ったといわれています。 刀鍛冶の五郎正宗との出会いや、第三回目の幕府への忠告(第三国諫)も この滞在中のことで約40日の夷堂滞在の後、身延の山へ出発しました。

現在の夷堂は1981(昭和56)年の再建で、八角堂の中に鎌倉・江ノ島七福神の夷神を祀っています。 この像は、鯛も釣り竿も持たない商業の守り神になる以前の姿をしているのが特徴です。



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