「鎌倉恋便り」



激しい源平合戦の末、鎌倉幕府を築いた源氏には、
日本各地に様々な故事が沢山残されています。
「番外編」 として静岡県の伊豆・韮山付近から
源氏にゆかりのある史跡をご紹介しましょう。


源頼朝旗揚げの地 「 蛭 ヶ 小 島 」(第87回)



この地は江戸時代の国学者秋山富南が源頼朝配流の地と推考した場所です。(現静岡県韮山町)
古代の狩野川の乱流によって作られた中州の名残りがいくつもあって古河・和田島・土手和田等の地名が残っており、往時は大小の田島(中州)が点在し、湿地の為、蛭がたくさんいたとか…その一つがこの蛭ヶ小島(ひるがこじま)であったと推測されています。

源頼朝は、平治の乱に敗れた源氏一族を絶やすため平清盛に殺されるところを、清盛の継母池禅尼に助けられ、1160(永暦元)年、14歳でこの地に流されました。配流20年間における住居等の詳細は明らかではありませんが、34歳までを韮山を中心に、伊東祐親の娘との恋愛、天城の巻狩、箱根、伊豆山、三島での信仰生活など、すこぶる自由な生活を送っていたようです。
これは比企一族をはじめとする源氏ゆかりの人や,素朴な伊豆の人たちによる温い後援があったからと思われます。

北条政子との結婚後、数年して1180(治承4)年以仁王の令旨をうけた源家の嫡流御曹子たる頼朝(34歳)は大きな賭にいどみ旗挙げ、同年8月17日山木館の郎党の多くが三嶋大社の祭に出払っているすきをねらい、平兼隆を討って平家討伐の火ぶたを切りました。
石橋山の敗戦からわずか1ヶ月あまりで関東をおさえ、やがて富士川合戦、壇ノ浦を経て、武家による政治、鎌倉幕府をひらきました。

ここにある石碑は、江川家家臣の飯田忠晶が1790(寛政2)年に建立したもので、町指定文化財となっています。
                 

 




写   真       解    説      
遺 跡 石 碑

源頼朝は清盛の継母池禅尼の命乞いによって1160(永暦元)年2月14歳でここへ流されました。
この地は江戸時代の国学者秋山富南が源頼朝配流の地と推考した場所です。

青春時代、当初頼朝は、伊東祐親の娘「八重姫」と恋愛仲になりましたが、平家にこの事実が知れるのを恐れた父祐親により悲恋となりました。その結果八重姫は、大仁の山中で侍女6人と真珠ヶ淵に身を投げて自らの命を絶ちました。その八重姫の慰霊碑が「女塚」です。

頼朝と八重姫の悲恋…詳細はこちら→ 第87回 Designer's note 
蛭ヶ小島の夫婦

「蛭ヶ小島の夫婦」とタイトルされ、
治承元年(1177年)頼朝(31才)政子(21才)二人はこの地で結ばれる。日本史上にその名を残す二人の若き日の姿である。
…ときざまれていました。

「吾妻鏡」治承四年の記事によると、山木攻め(頼朝旗挙げ)の頃は妻政子の父、北条時政の館に居住し、館内で挙兵準備を整えたとあります。
この事から頼朝は、北条政子と結ばれる1177(治承元)年頃までの約17年間をここ蛭ヶ小島で過ごしたとされます。
公園内に建つ古住宅

蛭ヶ小島の公園内には「韮山町歴史民族資料館」として旧上野家住宅が建っています。

18世紀中頃以前に建造されたものと推定されています。
架構も単純で、中央通りに建つ2本の太い柱は棟持柱となって上までのびています。庶民農家の住宅としては、県下でも例の少ない形式だそうです。
昭和52年、静岡県の有形文化財に指定されました。



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