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「極楽寺坂切通し」(ごくらくじざかきりどおし)七切通しの一つ。 長谷から極楽寺門前を経て打越へ、さらに東海道へと通じる切通しです。 現在の極楽寺坂は明治時代に掘り下げられたもので、かつては極楽寺の山門と同じ高さにあったといわれ、両側に崖の迫る急勾配の険しい道でした。 ここを開削したのは極楽寺の開山忍性だといわれています。 1333(元弘3)年鎌倉を攻めた新田義貞軍とこれをはばむ幕府北条軍がこの切通しで激しい攻防戦をくり広げました。結局、新田軍はここを突破できず引き潮を利用して稲村ガ崎へ攻め込み鎌倉幕府を滅ぼすこととなりました。 |
| 写 真 | 解 説 |
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古代の道は、稲村ガ崎の波打ち際を通っていました。鎌倉に幕府が開かれてから この切通しが京鎌倉往還の要となる道となりました。 当時の路面は、現成就院門前とほぼ同じ高さで、江ノ電の極楽寺近くの桜橋に向かう 坂道だったそうです。 写真、向かって左側の坂道が旧極楽寺坂切通しのなごりです。 |
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写真、向かって左側に旧極楽寺坂切通しが写っています。 正面の道は明治時代に掘り下げられた現在の極楽寺坂です。 切通しができるまでのこの辺りは、照葉樹の森が鬱蒼と生い茂り、 稲村ガ崎を経由する海岸沿いの道は満潮の時に通行できず、危険をともなったそうです。 生涯に189の橋、71の道路、33の井戸の土木工事に携わったという 極楽寺の忍性の提言で開削されました。 |