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北鎌倉駅からバス通りを左折すると円覚寺(えんがくじ)の門前に出ます。「瑞鹿山大圓覚興聖禅寺」(ずいろくざんだいえんかくこうしょうぜんじ)というのが正式名称で、鎌倉時代に建立、江戸中期に再興されています。 円覚寺では明治22年横須賀線が開通する際、境内に路線を敷設することを許可しています。この横須賀線は軍港・横須賀への完全なる軍事路線でした。 当初は「北鎌倉駅」はなく、大正15年住民の「夏期簡易停車場設置願」によって仮設の駅ができ、昭和5年に正式な国鉄の駅となりました。 門が道に面してつくられていないのは、直接内部を見透せないようにする宋の建築様式にならったもので、これは宋の禅寺形式を踏襲している建長寺の門前にも見られるものです。 円覚寺は蒙古来襲の際に戦死した敵味方の武士の霊を慰めるために、八代執権 北条時宗によって建てられました。落慶は1282(弘安5)年12月、開山は建長寺の住職であった宋の高僧仏光国師無学祖元でした。 工事を始めると地中から石櫃が現れてその中に「円覚経」が納められていたため、予定の寺名をとりやめ「円覚寺」としたといわれています。 北条氏の祈願所として当家から代々の厚い保護を受けてきた円覚寺は、最盛期には、七堂伽藍、塔頭四十二院をそろえていたと聞きます。 その配置は、建長寺と同様中国径山の万寿寺諸堂の配置を模した、伽藍を一直線に並べる左右対称の様式です。現在も総門、三門、仏殿、勅使門、方丈が直線上に配置されていますが、中国風伽藍配置の特色である回廊は、どうしたわけか見あたりません。塔頭は現在十七院。 境内奥に夢窓国師作といわれる妙香池(みょうこうち)がありますが、すぐ上が佛日庵。当初は時宗の廟所として建てられましたが、のちに北条家の菩提所となり、室町期に塔頭となりました。 昭和53年に鎌倉市教育委員会の行った発掘調査では、佛日庵のすぐ隣の塔頭続燈庵本堂裏側で、北条高時の廟所跡らしい地下式壙が発見されました。 続燈庵境内も、当時は佛日庵の敷地だったのでしょう。「新編相模国風土記稿」にも南北朝時代に高時の廟が佛日庵に改葬された記述があり、裏付けとなっています。 佛日庵は、庵内の茶室・烟足軒(えんそくけん)が川端康成の小説「千羽鶴」の舞台にもなった落ち着いた雰囲気のある場所です。藁葺きの小さな廟の前で楽しむ抹茶もなかなかの趣があり、禅林道場独特な空気はここでは感じられません。 のんびりとした時間を求める時、この円覚寺、約6万坪の境内をぶらぶらと歩いてみてはいかがでしょうか。ここに一つの世界を感じるはずですよ。 |
| 写 真 | 解 説 |
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1783(天明3)年に誠拙(せいせつ)和尚が再建した楼門。 誠拙和尚(大国大師)は江戸中期に円覚寺を再興した人物です。 木造2層の造りで高さは約20m門には伏見上皇勅筆の「圓覚興聖禅寺」 という扁額が掛かっています。 |
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(せんぶつじょう) 仏殿の西側にあって、「座禅堂」ともいわれ、 僧達が座禅を行う場所です。 堂内には仏師運慶派が南北朝時代に手がけた 薬師如来像が安置像が安置されています。(写真) |
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国宝である舎利殿は、境内にある妙香池(みょうこうち)の側に建ちます。 鎌倉時代に三代将軍 源実朝が宋の能仁寺から請来した仏舎利(釈迦の遺骨)を奉安しています。 木造の建物の上には、こけら葺きの2層屋根が載っており、 舎利殿の後方には開山堂が建っています。 |