「鎌倉恋便り」



高僧の人生と由縁 「 夷 堂 橋 」(第67回)



小町大路を南に下ると滑川にぶつかります。このあたりが小町と大町の境界になっていて、鎌倉時代には材木座方面から小町に通じる要衝でした。
ちょうどこの地に「東身延」、「日朝さま」と呼ばれる本覚寺があります。門前を流れる滑川は夷堂川と名を変え、川にかかる橋が夷堂橋(えびすどうばし)です。かつては橋のたもとに夷堂というお堂があり、その名がついたそうです。

橋の名の由来となった夷堂には3人の高僧の人生が伝えられています。

法華経の布教に励み、瀧の口で斬首をあやうく免れ佐渡に流された日蓮上人は、3年後の文永11年に許されて再び鎌倉へ戻ったものの、松葉ガ谷の草庵は壊されていて住居に困りました。その時見知らぬ老人が日蓮を夷堂まで案内して姿を消したといいます。
この夷堂は、この地が幕府の裏鬼門にあたるため頼朝が夷神を祀った幕府の守神とされるお堂でした。その後、居を得た日蓮上人は幕府の圧力にも負けず布教を続け山梨県の身延山へ行きます。
この夷堂のあったところに建つのが今の本覚寺です。

本覚寺の開基は一乗院日出上人。静岡の三島で修行した日出上人は夷堂に移り布教活動を開始しましたが、他宗派の反対などで執権北条持氏に捕らえられ、大町の六地蔵にあった刑場で処刑となるはずでしたが、夷神が持氏の夢枕に立ち「日出を許すように」と告げたことによって再度夷神に救われます。
持氏は夷堂のあった場所に、約200m四方の土地と十二貫二百文の費用を与え本覚寺が完成しました。

二代目の住職で「日朝さま」とよばれていた身延山の法王、日朝上人は身延山から遠い信者の交通の便を考え本覚寺に日蓮上人の遺骨を分骨し、「東身延」とし身延山も立派な寺に建て直しました。
夷堂は当時本覚寺境内にありましたが、明治初年の神仏分離令で小町に移されました。現在、蛭子(ひるこ)神社とされ同じく境内にあった山王大権現が大国主神と祀られています。

 




写   真       解    説      
現在の夷堂橋と石碑

鎌倉十橋の中では大きくて風格のある夷堂橋。
夷堂橋に関し「新編相模国風土記稿」には次のように述べられています。

昔鎌倉時代の繁栄した頃は、大町の付近は商店街であった、商業地と住宅地とは夷堂橋を境として分けられ、橋の以北を小町、以南を大町と称した。
上記から夷堂橋が鎌倉時代より存在したと考えた場合、頼朝と政子は二人して夷堂橋を渡り乳母の比企尼のもとを訪れたと、想像してみるのも鎌倉探訪の楽しみでしょう。



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