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建長寺門前から見ると大きな銀杏がそびえている寺が目に入ります。 これが長寿寺(ちょうじゅじ)です。寺の脇を通る小道は「亀谷坂」として、古くから亀ガ谷をへて、扇ガ谷へ抜ける切通しになっています。 宝亀山長寿寺は、建長寺の末寺ですが、もとは足利尊氏の菩提を弔うため初代関東管領でもあった子、足利基氏によって建立されました。開山は古先印元。現在ではこじんまりとしたかわいい寺になってしまいましたが当時は七堂伽藍を備えた関東諸山第一の大寺だったといわれています。 しかし、天皇に弓をひいたとされる尊氏の寺ということで、この寺も辛い時代があったといいます。聞くところによれば逆賊の寺として寺を守る僧がおらず、それを見かね在家の篤志家の老婦人が守ってきたそうである。 今では正面の門は閉ざされているものの、まとまった人数で申し込めば精進料理を食べさせてくれる寺として知られています。食事の後は手入れのゆきとどいた庭を眺めゆったりとした時間を過ごすこともできます。 境内には尊氏の束帯像を祀るお堂があり、像の腹中には、京都・等持院から招来した尊氏の歯が納められているといいます。また、尊氏の墓とされる宝篋印塔(ほうきょういんとう)もあります。一説によりますと境内の南側一帯が尊氏の屋敷跡だといいます。しかし、屋敷跡は岩屋堂付近とか、浄明寺地区東南などという説もありさだかではありません。 室町幕府は、応仁の乱がきっかけで滅亡に向かうわけですが、鎌倉はそれ以前に壊滅的打撃を受けています。1455(享徳4)年、鎌倉の主となっていた足利成氏が公儀をないがしろにしたという理由により、幕府は駿河の今川範忠を大将とする大軍を鎌倉征伐に当たらせていました。 「鎌倉大草紙」(群書類従)によれば、御所を初めとしてことごとく焼き払い、尊氏から成氏に至る六代の相続の財宝もこの時みな焼亡し、田畠荒れ果てる。まことにあさましき次第也・・・との記録が残っています。 当然尊氏を祀る長寿寺も戦火に消えたのでしょう。 |
| 写 真 | 解 説 |
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鶴岡八幡宮へと続くバス通りに面している三門です。 実のところ小生は、この門が開いているのを見たことないのです。 境内は非公開とされていて、精進料理の予約をいれてあるお客様しか中に入ることができないのです。 予約のお客様は、亀谷坂切通しに面している小門から境内に入ることになっているようです。 次の写真をご覧下さい。 |
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切通し側の門です。 普段はこちらの門も閉ざされており、精進料理をめしあがるお客様の予約がないときは 中を覗くことすらできません。 おっ、今日は門が開いていますね! ラッキー。 たまたま、門が開いている時に出くわしました・・・喜んで中を覗いて見ることにしましょう。 |
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長寿寺境内を撮影した一枚です。 本来5名以上で精進料理を予約しなくては入れない場所ですが、ほんのちょっと失敬して撮影しました。 非公開の境内には奈良県の円成寺の多宝塔を改築した美しい観音堂があり、 中国から請来された観音像、衣冠束帯姿の足利尊氏像と室町時代の古先印元像が祀られています。 裏の足利尊氏の墓には尊氏の遺髪が埋葬されているといわれています。 |