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鎌倉駅の東側に、安房から来た日蓮上人が辻説法を行った遺跡があります。そのせいでしょうか、この大町一帯には日蓮宗のお寺が沢山建てられています。 日蓮の鎌倉における20年におよぶ布教活動は、山深い松葉ガ谷の小庵に端を発します。日蓮は毎日、小町大路に出かけて辻説法を行い、他の宗教や幕府を激しく避難しました。 当時、鎌倉には病気や災害、飢饉が蔓延している状態。日蓮は国難を説き、民衆を厄災から救えるのは真の教えである法華経しかないと、1260(文応元)年に「立正安国論」(りっしょうあんこくろん)を著し、前執権の北条時頼に建白しました。これを執筆したのが、安国論寺の御法窟(ごほうくつ)といわれています。 しかし、日蓮の考えは逆に反感を買い、夜討ちを受けます。これがいわゆる松葉ガ谷の法難で、以後三度の法難にあいました。その後、度重なる流罪や弾圧にも屈するとこなく布教を続け、やがて民衆の心をつかむことになります。 現在鎌倉に約30もの日蓮宗寺院があるのは、その証明ともいえるでしょう。 安国論寺(あんこくろんじ)には日蓮が松葉ガ谷の法難を逃れていたといわれる南面窟(なんめんくつ)や、富士山に向かい毎日法華経を誦したと伝わる素晴らしい眺めの富士見台。また、祖師堂にむかって下ると日蓮の弟子、日朗を荼毘に付したという日朗御荼毘所があります。安国論寺は、日朗が岩穴の近くに建てた安国論窟寺と、日現の建てた要法寺が一つになりできた寺といわれています。 日蓮は開宗(日蓮宗)した後、鎌倉に入ったのが、1253(建長5)年5月。 名越の松葉ガ谷(まつばがやつ)に草庵を結んだといますが、その付近には妙法寺・安国論寺・長勝寺の三つの寺があります。 現在いずれの寺も草庵の跡だと主張しています。 |
| 写 真 | 解 説 |
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拝観料を払って三門を入ると、左側に東京の増上寺の徳川将軍家から移設された石灯籠が並んでいます。 はじめこの場所に、日蓮の弟子、日朗が岩穴の近くに建てた「安国論窟寺」と日現が建てた「要法寺」がありました。 のちにこの2つの寺がひとつとなって「安国寺・安国論寺」と呼ばれるようになったといいます。 |
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「立正安国論」を建白された北条時頼は、日蓮の情熱に応えようとは思っても、 法然の「選択念仏集」を激しくののしっている。もし、念仏者の耳に入れば命を狙われる。 時頼は握りつぶしたが、やがて念仏者達の知るところとなり 暴徒と化した人達によって権力者をバックに日蓮暗殺は計画されました。 「立正安国論」上申後42日目の8月27日の夜、日蓮最初の法難といわれる "松葉ガ谷の焼討" が勃発。 日蓮は安国論寺奥にあるこの南面窟(なんめんくつ)にて法難を逃れました。 |
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三門を入り、本堂の右手前に小庵(しょうあん)と法窟(ほうくつ)があります。 この岩穴で日蓮が「立正安国論」を書き前執権の北条時頼に建白しました。 右下白枠内の写真は、小庵裏にある法窟へと続く廊下を撮したものです。法窟へは 小庵の裏から廊下を通って入窟する造りとなっています。残念ながら法窟への立入りはできません。 |