
それでは彼の心理的軌跡は、どのような要因で変遷をすることになったのでしょうか? これには彼の調査業務の進捗状況が著しく係わっており、下表画風の変遷と落款の関係でも明らかになっています。 第一期の大首絵は役者達にとって不愉快極まりない絵であることは、版元蔦屋と費用の支弁方法の項でも述べましたが、若しこの大首絵が役者達の目の前で描かれていたならば、その段階で苦情が入り浮世絵として刊行されることはなかったはずであります。
これらの前提で考えると、少なくとも大首絵については、役者達の眼前では描いていないことを間接的に証明しており、後ほど別の場所で描いたことを暗示しています。 恐らく一九の絵は、記憶術の変形的画法であると考えられ、彼の場合は大阪の奉行所で、用部屋手付同心として勤務の頃から、罪人の人相書きなどを聞き書きで手がけていた頃から修練を積んだ結果であると想像することができます。
以上のような観点から見ると、一九の用いたと思われるこのような画法は、描く人間にとって非常に集中力を要する方法であり、心理的影響を受けやすく、特に一期の作品は彼にとって、新しい仕事を命ぜられ意欲に燃えていた時期でもあり、調査対象である役者達の印象が浮世絵を通じ最も表現できた時期でありました。
第二期の口上図にみられるのは、彼の調査を通じて一つの結論が得られ、やがて櫓や役者達に対する申し渡しの結果をご覧あれと、奉行所を通じて芝居櫓に対する自分の影響度を誇示する、彼の心の中を垣間見せる作品であり、この絵を描いた時期における自己顕示性の結果と思われます。
このような経過をたどりながら、同年11月の芝居小屋家作等に関する申し渡しを最後に隠密としての役目も終わりますが、蔦屋は一九の登用で歌麿との関係も悪くなり、結果的に歌麿は蔦屋を去っています。 蔦屋はその穴を埋めるため一九にその後も浮世絵を描くことを求めますが、すでに隠密としての仕事も終わり浮世絵師にはあまり興味もなかった一九も、乞われるままに戯作刊行を条件にその後も、落款の東洲斎写楽を写楽と変えて描きつづけることになります。
| 年 | 月 | 奉行所との関連 | 画風変遷 | 落款 | 公私 |
|---|---|---|---|---|---|
| 寛政六年 | 五月 | 曾我祭における咎 | 第一期 | 東州斎写楽 | |
| 七月 |
| 都座口上図 | 東州斎写楽 | ||
| 八月 | 役桟敷に関する聴取 | 第二期 | 東州斎写楽 | ||
| 十月 | 三座取締方議定証文 | ||||
| 役者給金の取極証文 | |||||
| 永続仕法(参照 寛政纂要) | |||||
| 十一月 | 芝居小屋家作の他 | 第三期 | 東州斎写楽 | ||
| 閏十一月 | 第三期 | ||||
| 十二月 | 役者御制法判取り帖 | ||||
| 寛政七年 | 一月 | 第四期 |
「落款を変えた理由」
以上の関係図にも見られる通り、後期の絵について落款を替えた意味には、隠密の絵師として描いた作品と、蔦屋の依頼により描いた作品とに対し、役人としてあらぬ疑いを掛けられないよう、金銭面で公私のケジメをつけるための美学でもありました。
「色変わりの異版について」
写楽の絵には数多く色変わりの異版が存在し、これらの異版は一期の作品のみに集中しており、この理由も大きな謎の一つとされてきましたが、前項の「画風の変遷と落款の関係図」でも明らかなごとく、隠密の仕事と落款の違いは連動し、いい換えると浮世絵を制作するために作られた版木の所有権は、浮世絵が刊行された動機によってそれぞれに違いがあることになります。
つまり本説の論理的帰結から考えれば、東洲斎写楽と落款の入った版木は費用の出所から考えても奉行所の物であり、写楽と記された落款の版木については、当然依頼者である蔦屋が費用を支弁しているため、蔦屋の所有と帰するべき物であります。
このことから考え、企業である蔦屋の版木は当然ながら、店主である重三郎の意志により店の財産として、その管理にはそれなりの配慮が払われたと考えられますが、一方奉行所の費用で作られた版木は、初期の目的を果たした後一九の裁量で、調査の協力者であった芝居関係の人間に譲られ、色変わりの写楽画は、この版木により別の摺り師の手によって製作されたと推測します。
「なぜ実名の記録がないのか?」
ここまでを、ファイル順に読み進まれた方には、十辺舎一九が江戸北町奉行の命を受け、芝居櫓の内部探索を行っていたという推理には納得して頂けたと思います。 これまでの歴史書などを見ると江戸時代の庶民達は、寛政の改革などによる幕府の弾圧にも屈することなく、狂歌などにより幕府の政治を揶揄する、反骨精神を忘れることはなかったといわれています。
しかし、これは果たして本当のことなのでしょうか? 現実の社会は本当にそんな単純なものなのでしょうか? 現代の政治の世界にも、世論がどのように動くかを調べる方法として、観測気球を上げてみるなどの言葉がありますが、江戸時代でも権力者達は民意を知る方法として同様な手法が使われたと考えられます。
つまり、幕府の命を受けた大田蜀山人や滝沢馬琴などの隠密が、四方連などの狂歌同好会や戯作者達の懇親の会合を通じ、江戸の文化人達における思想動向の調査を行うため、観測気球として反幕府的な狂歌や言動を弄し、周囲の人間達がどのように動くかを試したと考えることは出来ないでしょうか?
江戸時代には現代社会のような個人の主体的な人権に対する思想はなく、これに対応するものとして上意下達による、お上の慈悲という考え方で政治が行われていました。
言論の自由を保障された現代の皆さんには想像の出来ないことなのかも知れませんが、江戸時代を振り返るまでもなく、近年では第二次世界大戦の最中、時の権力に対してどれほどの人間が抵抗し得たでしょうか? このように、何時の時代でも大衆は権力に対して弱く、小市民として自分達の生活を守ることが、精一杯の日々を送っていたものと推察することが出来ます。
人間には誰にでも共通にいえる大切なものとは、結局のところ自分や家族ではありませんか? 人は本能的に危険から自分を守ろうとする性質をもつており、特別な宗教的理念や道徳的な厳しい規範を持つ人々を除けば、庶民としてこのことは、洋の東西を問わず時代の新旧を選ばず共通であり、このことは別に恥ずべき行為ではないと思えます。
写楽が歌舞伎役者を描いた寛政六年は、寛政の大改革が行なわれている最中でもあり、田沼権政における失政や、天明の大打ち壊しなどによって失墜した幕府の権威を回復するため、躍起となっていた時代でもあって、このため幕府の意向に反した人間には、過剰ともいえる懲戒的刑罰が加えられることも多かったようです。
少し時期は下りますが、寛政八年の出来事として歌舞伎年表に記載されていた一例を紹介すると、「六月、阿波座戸屋の下人着物を鼠に食われしを怒り、鼠を捕らえハリつけの刑をまなび、捨て札の書付など可笑しとて近郷の者見物し、奉行所へ聞こえ、其の下人入牢の上打ち首になりし。」とあります。
つまり寛政八年六月に阿波座という芝居小屋で働いている下働きの人間が、鼠に着物を食われたの怒り、捕まえた鼠を板などに張り付け、磔の刑を真似した口上書きなどが可笑しいと見物人が集まり、このことが奉行所に聞こえ、入牢の上に打ち首の刑に処せられたとのことです。
まったくひどい話ですが、江戸っ子の洒落が奉行所には通ぜず、お上の裁きを笑いものにしたとして罪を問われ、打ち首になった例と思えます。 しかし、これらの裁きを行うにも決して奉行の個人的な裁量で行われていたわけでなく、現代の憲法のような基本となる「御定書(おさだめがき)」が存在し、奉行はこれに照らして裁きを行っていたといわれています。
この御定書は一般に公布されたものではなく、その運用についての解釈は、あくまでも為政者側の奉行が行い、幕府にとって都合のよいものであったことは確かなようです。 このような点から考え、写楽のことについても当時の人々が恐れ口をつぐんだのは、奉行所とその背後にある幕府の権力が怖かったのではないでしょうか?
写楽の人物像について語ることが、結果的に一九の隠密としての立場を暴き、このことで反幕府の印象を与えることになり、口止めをされるまでもなく、人々は噂になることが一九にとって迷惑なことをよく知っていた、と考えるのが自然ではありませんか? 人々は写楽に不利益を与えることは、話した人間にとっても不利益な結果となって帰ってくることを、よく知っていたからなのです。