当時の各資料によると奉行所組織の中には、隠密回り同心の役職も存在していましたが、彼らは幕府の官僚として奉行所に、直接雇用された人間であり、その土地で生まれ育った地付きの人間である身分を隠すために、同僚の人間達との交際も作らず、浪人の身分で暮らし、公用人を通じて奉行と接触をし、業務を遂行したと思えます。
それでは調査対象である歌舞伎櫓の内情を、どのようにすれば相手に気づかれず調査ができるでしょうか? どう考えてもこのような特殊な芝居の世界はその関係者、つまり、役者や芝居小屋の中で働く人々に達に接触し親しくなって、日常生活における世間話のような状態で話を聞き、情報を集めるより仕方がないように思えます。
この頃歌舞伎の世界では芝居小屋の経営権を他に委嘱し、控え櫓といわれる形態で運営されていましたが、それでもこれらの運営に関することには役者達が深くかかわっていました。 中でも市川鰕蔵は、年間の給金こそ七百両と、瀬川菊之丞や岩井半四郎達の九百両、沢村宗十郎の八百両に比べると少ないが人気度は役者番付の最上位に評価され、歌舞伎界に大きな影響を与える重鎮でありました。
このような状況の中で、仮に下働きなどの人間として潜入をすることができても、その仕事の立場上接触が出来る相手は非常に限られた範囲の人間となり、奉行所が必要としている高度な内容の情報を得ることができる、市川鰕蔵など、歌舞伎世界の上層部関係者に接触をすることはとても不可能なことです。
以上のような中、一九は土佐守から隠密として調査を行うため大幅な権限を与えられ、それぞれの場面に応じて自由な裁量で行動することを許されていたはずで、このような身分を隠した活動の中では必要なことであり、潜入の方法についても、彼の提案に一任されていたと考えられます。
すでに述べたように江戸に居住の時代から、一九は学問のほかに浮世絵を描く技も習得もしていたと考えられ、戯作六家撰によると、墨川亭雪麿の言葉を借りて、(一説に小田切君江都尹にておはせし時その館にて注簿たりしといふ)とあります。
以上の記述から推定されることは、土佐守が駿河町の奉行として赴任をする以前の時期であり、彼が小普請支配の時代から部下の一九は才能を見こまれ、すでに注簿の役として人相書きなども描いていたのではないかと推測もでき、これらの点から考えて、浮世絵師として潜入するアイデアを提案したのは、十辺舎一九 本人であったと推理します。
この時代、江戸には歌麿をはじめ多くの浮世絵師が存在していたが、その浮世絵の精緻さや品質などの点から考え、一番人気の絵師はなんといっても歌麿であったことは想像に難くないと思えます。 すでに彼は歌舞伎役者達の間にも面識があり、彼らを描いたことがあっても不思議ではありません。
このような状況の中で、浮世絵師として何の実績もない一九が役者達の姿を描くには、それなりに彼らと親しい人間の紹介が必要であるのは当然のことで、その役割を担ったのが耕書堂の当主、蔦屋重三郎でありました。
「江戸町奉行所の組織」
江戸の場合、南北の各町奉行には、町奉行所付の与力二十五騎、同心百二十人がそれぞれ配属され、与力並びに同心や隠密同心は、その奉行所に所属し、上司の奉行のみが入れ替わる仕組みになっており、これらの奉行は、その職を拝命すると、譜代家臣の中から公用人六名、目安方四名の計十人に幕府より役料を支給され、内与力として用いることが許されていました。
この措置は、奉行としてその任にある時期のみであり、奉行を退任した節には、以前の譜代家臣の立場に戻るという、極めて合理的な方法が取られていて、公用人および目安方の部下に、用部屋手付同心十人が配され、奉行の秘書的な役割の実務を行なっていたとされています。
一九は、この中の公用人として土佐守に仕えていたのではないかと思われ、戯作六家撰の中で墨川亭雪麿のいう「その館にて注簿の役たりしという」とは、彼の手付同心時代の姿と思え、恐らく「大阪なる材木問屋某甲の女婿になりしが其処を離縁し」・・・・云々は、それまで勤めていた内勤の役から外勤の隠密としての発足を想像させます。
彼はこの隠密としての活動上から必要があり、香道の世界へ関わったものと思われ、この後土佐守は寛政二年長崎における密貿易を検挙した手柄により時服を賜っています。
また、奉行所付の与力や同心の業務は細分化され分担が決まっていますが、この中隠密回りの同心だけは奉行の直属であり、その時々に応じ直命を受け、行動していたと見うけられます。
「隠密の活動とは」
この時代隠密は、またの名を密貞とも呼ばれ、隠密を必要とするのは町奉行所だけの話しではなく、大名同士や各藩などの政治的謀略のためにも情報収集は重要な手段であり、このような政治における権力闘争の場合は奉行所などの隠密と違い、忍者やお庭番とも呼ばれており、生命の危険に晒されることも多く、このためには身を守る武術の心得も重要な能力の一つであったようです。
いずれの場合でも、彼らを支える精神的な支柱は、上層部の人間しか知ることのない、政治の機密事項に関与することができる誇りと、自分の能力を必要とし信頼してくれる上司への期待に答える喜びが、困難な仕事に立ち向かう勇気を与えてくれる原動力となっていたと思えます。
隠密は一般の同心より一段と優れた特殊な能力を要する上、その仕事の性質上重大な機密性を要求され、目立つこともなく報われることの少ない仕事であります。 特にこの時代は、為政者である幕府にとって都合がよく創られた官許の武士道の思想背景があり、これが下級武士達の心の支えになっている時代でした。
このような時代背景の中では、隠密のような仕事に対する人々の目は冷たく、他人の裏を探り策を弄し、相手を裏切り罠を仕掛けるなどの行為は、武士道に照らせば最も唾棄されるべき行為であると見られた時代であり、そのことは一九もよく承知しており、初登山手習帖の中で奴凧に(おいらがタコなら貴様もタコ)と自分のことをタコと自嘲的にいわせています。
隠密としてのこのような生活環境は、長い間にその人物の心に歪を与え、人格形成上に大きな影響を残します。 十辺舎一九の奇矯な行動は有名ですが、彼のこのような性癖も、長い隠密生活の間で鬱積した自己顕示性の結果と推定することができます。
余談ではありますが外国では、このようなスパイに対しては全く別の見方があり、特に欧州では、本来政治とはその本質として、汚い(ダーティ)なものであり、この国際政治における中のスパイに選ばれる人間ほど、(誠実で愛国心に燃えた高潔な精神を持つ、紳士としての条件を満たす人物でなければならない。)といわれています。
「版元蔦屋と費用の支弁方法」
寛政三年、蔦屋重三郎は幕府禁制の洒落本三冊を刊行した罪により、作者の山東京伝は五十日の手鎖、出版元の蔦屋は財産半減の重罪に処せられた後であり、土佐守は重三郎が奉行所に頭の上がらない状態を巧みに利用し、上方より出て来たばかりの一九を、馬琴と入れ替わりに蔦屋に住みこませ、浮世絵師として役者達に引き合わすことを要求したと思えます。
しかし版元として長い経験を持つ重三郎が、何の実績もない一九の浮世絵を、自己責任で見こみ刊行を了承するとはとても考えられません。 土佐守は蔦屋に、一切の内偵が終了するまでの間、代償として一九の描いた役者達の浮世絵を版元として販売することを許可し、重三郎もこの条件で納得し協力を約束したものと考えられます。
一九は以前から、将来は文筆によって身を立てたいとの希望を持っており、この件を機会に蔦屋から自分の作品を世にだすべく、関係を深めておきたいと考えるのは当然の成り行きで、恐らく、このような含みもあり、この時の浮世絵を制作するための費用は、土佐守の了解の下で奉行所の調査経費として支払われているはずです。
これらの案は、幼い頃から親元を離れ、大阪では町人達との交流も多く、人情の機微を心得た一九の発案によるものと見て間違いなく、このことは後に一九をして、約束を守らなかった重三郎に対し、初登山手習帖(凧絵謎文)の中で、「めった無性に長松を嬉がらするばかりの思いつき也」と悔やませています。
写楽浮世絵の芸術性は、今日でこそ外国人の評価によって定まっていますが、彼が描いた江戸時代において彼の絵は、歌麿のいう「悪癖を似せた絵」であり、浮世絵類考での「あらぬさまにかきなせし故」との評価が一般的な見方であったことは確実です。
多くの研究者は写楽画を、身代半減を受けた蔦屋重三郎が、再起のため冒険を承知で写楽を起用したという説が一般的ですが、果たして重三郎はそのような冒険をおかしたでしょうか? 常識的に見て、身代半減を受け再起を危ぶまれるような人間が、たちまち奉行所から目を付けられる危険のある禁令の雲母摺り浮世絵を、自発的な意志で刊行したとはとても考えられません。
また商品としての観点からも、第一期の作品のような大首絵が浮世絵となったときに、当然、役者達から苦情が出ることを予測できたはずあり、これは役者のような職業の人間は、自分達の姿や顔立ちで生活をしている立場であります。 それらの人間達が、いわゆる「悪癖を似せたる絵」や「あらぬさまにかきなせし故」のように描かれ、黙っているはずもなく、当然重三郎は苦情がくることを予測していたと思えます。
特に歌麿はすでに役者達の間で名声も確立しており、何の実績もない一九の絵が彼らの好みに合うはずがないのは歴然としているなど疑問が多く、また奉行からの指示があったなどは知る由もない歌麿は、突然蔦屋の間に割り込み、浮世絵を刊行することになった一九を、快く思ってはいなかったことは明らかです。
このようないきさつから歌麿は、市川鰕蔵の怒りに火をつける火付け役となった可能性があり、鰕蔵は重三郎に対し強硬に苦情を申し入れたと思えます。
すでに述べたごとく、若い頃から商売人として蔦屋をこれまで発展させた重三郎が、これらの状況を読めないはずもなく、身代半減の罰を受け、辛うじて商売を続けている状況の中、自分の店の資金つぎ込み、このような見こみ刊行を行うとはとても考えられません。
「歌舞伎界・調査の経過」
寛政六年端午の節句、市中見物のかたわら重三郎は、一九を役者達に引き合わせるため、かねてから役者達に親交の深い歌麿を伴い、木挽町の河原崎座に出向いたと推測され、歌舞伎年表によるとこの日の演目は、市川鰕蔵が演じる「恋女房染分手綱」が上演されていました。
この推理を裏付けているのは、寛政六年、端午の節句における重三郎と一九達の行動と見られる、初登山手習帖の記述による写楽凧の場面であり、「役者皆子ども持ち、耶蘇日にて暫くのタコが、ぶうぶうと唸りだせば 受けハ内裏様 達磨様は、髭が似たとて鯰坊主の役」とありますが、この表現により語られている意味は、重三郎達が楽屋に訪ねた相手は、はまり役が暫であった市川鰕蔵と考えられます。
鰕蔵はこの時、舞台前の短い時間、恋女房染分手綱の竹村定之進の装束で三人と逢い、世間話の末、端午の節句に子供の相手もしてやれない自分達の役者稼業を嘆いたのが、この表現になったものと推察することができます。
同じくこの文中で、「いったいこの世界は どうしたものやらさっぱり判らず、こんな芝居の当たろう筈はなけれども、そこが天神様の神通にて」と続いています。 前文の市川鰕蔵の話しなどから、芝居の世界における彼らの、一般常識とかけ離れた考えを知り、そのような彼らの演じる芝居が当たるはずはない。 と評しながら、天神様の神通にてと、言外に自分の力で変えて見せようと語っています。