インパク参加 (タイトル)写楽・十返舎一九説の根拠 インパク参加
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 「問題解析の手法」
 一般的に複数の謎が絡んだ犯罪捜査などの場合にも、一つの謎に回答が与えられることで同時に他の疑問にも結論が得られることは多く、またこれら科学的捜査とは物的証拠の存在とともに心理的要素も含め、数多く存在する謎に対し一元的に回答を見つけ、これらの条件に対し多くの一致する回答が得られる考え方の結果を、真実とする手法であります。

 このような物証主義が第一の犯罪捜査における現場でも、近年はあまりにも物的証拠の少ない事件の場合には、社会正義を実現する上から状況証拠による考え方も取り入れられており、これら捜査の舞台裏では幾つもの大胆な仮説が机上に載せられ、慎重な議論の上一つの結論を得る作業が続けられています。

 本論から外れますがテレビのワイドショウなどによると、FBIなどによる犯罪捜査の手法としてプロファイリングが犯罪捜査の手法として最も優れた方法のように宣伝され、日本国内における犯罪にまで、元 FBI・捜査官と称する人物にコメントを求める傾向にあります。  しかし人間の心理的行動はその人物の生育環境や文化的背景によりそれぞれの違いがあり、 ましてや文化的環境の違う外国人のコメントがどの程度役に立つかは甚だ疑問であり、日本における問題の解決は、日本人の心理や文化を最もよく知り得る日本人の手によるのが最善と考えます。

 これらの問題分析の重要な要素として、何故、何のためにという動機があげられますが、同時にその背景も重要な要素の一つとなり、交友関係・家庭環境・生育環境などその人物の個人的な背景や、その犯罪内容によっては、社会的背景なども一つの原因として考えられる場合も存在します。 このような分析手法による観点から、写楽の描いた歌舞伎の世界は当時どのような状況にあったのでしょうか? 

 「歌舞伎界を取り巻く社会背景」
 写楽の描いた歌舞伎役者が活躍した寛政六年「1794」頃には、「武江年表」「歌舞伎年表」などによると、 これら芝居の興行元は続く大火で幾度も類焼に遭い、ずさんな経営の体質なども加え、各々の興行元が五十万両近くにもおよぶ莫大な負債を抱え、存続が危ぶまれるような状況下におかれていました。 (以下に、安永元年から寛政五年までの、火災による芝居櫓の被災状況を示しています。)

二十二年間の芝居小屋,類焼被災「武江年表より」
年号西暦焼失場所
安永元年二月二十九日「1772」 葺屋町両芝居並びに操り芝居四座焼失
天明元年正月八日「1781」新材木町より出火両芝居類焼
天明四年十二月二十七日「1784」木挽町芝居焼失
天明六年正月二十二日「1786」葺屋町両座芝居焼失
寛政五年十月二十五日「1793」葺屋町芝居焼失

 これらの興行元は櫓と呼ばれ、堺町・葺屋町に各一座・木挽町に一座と、三座の櫓が存在していましたが、何れの櫓も負債のため、現代の表現を取れば経営管理の状態にあり、経営権を他に委嘱した控え櫓と呼ばれる形態で興行が行なわれていました。

 年間を通じて興行収入が六千両程度しかない櫓には、 このような危機にあっても好況の時代に高騰した役者達の給金を切下げもできず、千両役者の言葉が示す通り、 最高が年間九百両の瀬川菊之丞や岩井半四郎を筆頭に、八百両、七百両の役者達が肩を並べている有様でした。

 それではこれらの五十万両、および六千両とは現在の金額に換算するとおよそどのくらいの金額になるのでしょうか?  よくテレビの番組などで江戸時代における物価の比較として換算される基準は、日本人が生活をするために、 古今とも変わらない必需品は食料の米であります。

 当時の米一俵の価格を二両として、 現在一俵三万円程度なので一両が一万五千円となります。  ここで五十万両と六千両について、それぞれを現代の金額に換算して見ますと、七十五億円および九千万円となりその金額の差はおよそご理解戴けるものと思います。

「寛天見聞記」や 「歌舞伎年表」などによると、 これら、芝居の興行が行なわれている地域は、芝居小屋や様々な見せ物小屋などを中心として土産物屋や茶屋などが立ち並び、歓楽街が構成されて芝居や見せ物などが、相互の集客力に依存しながら多くの人々が生計を営んでいました。

 これらの人々は三町内の家族も併せると相当数に及んでいたと考えられ、このような状態の中で芝居櫓の興行が存続できるか否かは地域全体を巻き込んだ社会問題であり、これら櫓の負債を巡って訴訟沙汰が絶え間なく、時には流血の事態も発生し、行政や司法、治安を司る「江戸町奉行」の悩みの種でもありました。


 以下に、歌舞伎年表より天明二年から寛政五年までの芝居櫓を巡る紛争事件を示しています。 これらの紛争事件は歌舞伎年表に記載された一部であり、ほとんどが金銭の貸借から派生した問題であり、もし奉行所の記録が残存し調査が可能であれば、実際の事件はこれ以上存在していると思われます。

芝居櫓を巡る訴訟事件「歌舞伎年表より」
年号西暦訴人訴訟内容
天明二年 「1782」 奈良屋源七地代取り立て
四年
「1784」
八年
「1788」福地善兵衛市村座再興願
寛政五年「1793」狂言座勘三郎借財延期願
左兵衛他三人地代取り立て
八幡座傳次郎都傳内再興願

 写楽が作画中の寛政六年五月には、このような芝居櫓の経営に奉行所が介入して、役者達の給金半減を含めた各種の再建案を提示し、これに基づき十月には、歌舞伎三座並びに狂言各座より名主連判の上、誓約書とでもいうべき「取締方議定証文」を提出させています。

 寛政六年五月とは写楽が作画をはじめた時期とぴったり一致しており、この時期における歌舞伎年表による芝居の出し物とも合致し、これを単なる偶然として片付けてもよいのでしょうか? この寛政六年とは、寛政の大改革ただ中でもあり、田沼権政における失政や、天明の大打ち壊しなどによって失墜した幕府の権威を回復するため、躍起となっていた時代でもあります。

 このような時期の寛政4年、前任者の江戸北町奉行(初鹿野河内守信興)の急死により、後任として抜擢を受けたのは駿河町奉行を経て、9年間大阪東町奉行を務めていた小田切土佐守直利でした。

 「小田切土佐守直年 概歴」
 この小田切土佐守の家・小田切家は、「寛政重修諸家譜」(以下)「諸家譜」巻第三百九十五によると「清和源氏」の流れをくむ旗本の旧家であって、初代は光信と称し、信濃国小田切村に居住し武田信玄に仕え、天文十一年、信濃国大門峠の役で戦死しています。 五代目の小 alt="New"田切土佐守直利は貞享三年大阪町奉行を経て、元禄五年より同七年までの間江戸城において大目付けを務めたという家柄でありました。

 土佐守直年は寶歴九年十七歳の折、御小姓組番士であった父直棊の死によって遺跡を継ぎ、叙任前の名前を喜兵衛直年と称し、明和二年十二月、西城御書院の番士に任じられています。 その後、安永六年正月には御使番に昇進、十二月布衣着用を許され安永八年には小普請支配を務め、 天明元年から同三年まで、短期間ではあるが駿河の町奉行を務め、のち、天明三年の四月には大阪東町奉行に任命され六月には土佐守として叙任を受けています。

 これより寛政四年に江戸詰めとなるまでの九年間を大阪東町奉行として務めることになり、この間、「諸家譜」によると寛政二年正月二十日、「長崎において私に交易するところの品を糺せしにより、時服三領をたまふ。」とあり、この件については「一九と香道の関係」の項で再度詳しく触れることにします。

 文化年間の「袖玉武鑑」によると、寛政四年正月より文化八年四月まで江戸北町奉行として在任し「三千石」北御番所呉服橋之内とあり、「名人忌辰録」では「従五位下寛政四年正月十八日北町奉行文化七午年十二月二十六日加増五百石元高三千石勤役廿ケ年文化八未年四月廿二日卒す年六十九」と記載されています。

 このように土佐守は、天明の大飢饉や、大阪が発端となった打ち壊しなど、世情騒然とした時代、駿河、大阪の町奉行を務め、初鹿野河内守の没後、後任として江戸北町奉行に抜擢されており、「諸家譜」によると寛政九年四月には「両国橋普請の事にあづかりて時服、黄金等をたまふ」とあります。


寛政重修諸家譜より抜粋"
(小田切土佐守の経歴年表)

年 号西 暦
備 考
職 責年 齢
明和二年
「1765」
御書院番士
二十三歳
安永六年
「1777」
布衣着用許下
御使番
三十五歳
安永八年
「1779」
喜兵衛直年
御小普請支配三十七歳
天明元年
「1781」
土佐守叙任
駿河町奉行
三十九歳
天明三年
「1783」
大阪東町奉行
四十一歳
寛政二年
「1790」
密交易検挙褒賞
四十八歳
寛政四年
「1792」
江戸詰め
江戸北町奉行五十  歳
寛政六年
「1794」
歌舞伎界 改革
五十二歳
寛政七年
「1795」
五十三歳
寛政八年
初登山刊行
両国橋普請褒賞
五十四歳
寛政九年
「1797」
五十五歳
文化七年
「1810」
加増五百石
六十八歳
文化八年
「1811」
四月没す
六十九歳

 この北町奉行の二十年間と、駿河、大阪の奉行時代を加えると通算三十一年の間を町奉行として務めており、長命であれば将来は寺社奉行を歴任後大目付が約束されていた人物でありました。 当然その責任も重く、「江戸作者部類」や「戯作六家撰」の記述にも見られるように、彼を補佐する家臣の一人に十返舎一九である重田貞一がいたと考えられます。

 またこれらの記述以外に、両者の年齢や職責などの時間的相関を比較することで、それぞれの関係をより明確にすることができます。


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