
「まえがき」
浮世絵に限らず芸術一般において、その芸術家の生きた時代や社会の特異性、ひいては時代の精神風土にまで探求の目を向けることは、極めて有意義なことであることは間違いありません。 この意味で写楽の研究者である先人・ユリウス・クルトが彼の著書「SHARAKU」の中で『個々の事実を歴史的骨格の中に入れてみなければ確かなことは何もわからない。』と述べているのは、まさに当を得た至言といえます。
東州斎写楽が描いた歌舞伎役者の世界は、永年にわたり累積された櫓の膨大な負債が、幕府による寛政の改革を引き金として、地域社会を巻き込んだ経済的危機を派生させ、寛政六年には遂に町奉行所は強権による行政指導へと着手することになります。 この寛政六年とは写楽が役者達の浮世絵を描いた年であり、これらの間に何らかの関係はなかったのでしょうか?
私には当然何らかの関係があったと考えるほうが、より自然なような気がします。 本研究は、このような歌舞伎櫓を取り巻く様々な背景に着目し、奉行の特命により櫓の調査に関わった人物を十返舎一九と推定し、彼こそが東州斎写楽と目する結論に至った根拠を論じ、立証を試みたものです。
この当時、櫓各座を中心とする町並み一帯は、吉原と並ぶ一大歓楽街を形成しており、これらの中でも集客力の中核をなす歌舞伎櫓は累積された負債により、興行を継続するための回転資金にも事欠く始末でした。
これらの状況を改善するための行政指導を行うには、表面には現れることの少ない櫓内部の実態を詳細に把握する必要があり、時の江戸北町奉行小田切土佐守が櫓内部の実情を極秘裏に調査する、いわば隠密として送り込んだのが腹心の部下、十返舎一九その人でありました。
土佐守と一九が主従の関係にあったことは「江戸作者部類」を始めとする様々な資料によって明らかであり、自由に芝居小屋に出入りし役者達から噂話として重要な情報を入手することが尤も可能な立場、それが浮世絵師であろうことは論を待ちません。 更に当時、山東京伝の筆禍に連座し、身代半減の憂き目に遭った版元蔦屋重三郎の弱みを利用して、一九を芝居小屋に潜入させる手蔓としたのも土佐守の策でした。
写楽にまつわる様々な謎、彼は何者であったのか? 何故わずか十ヶ月余りしか作画をしなかったのか? 一体誰がこれらの費用を負担したのか?等々 このような謎に対する回答は、十返舎一九という人物の数奇な生涯や江戸における行動を、写楽の作画時期や画風の変遷・落款の変化等と、時系列的に比較検証することで明確にすることができます。
「写楽研究の沿革」
写楽に対する最大の謎である実像に関する研究は、写楽別人説を中心として様々な説があり、
古くはユリウス・クルトが唱えた能役者・斎藤十郎兵衛が写楽として活躍の後、歌舞伎堂艶鏡と改名したという説と、近年では故池田満寿夫氏による中村此蔵と 十辺舎一九の合作説があります。 このような謎に興味を覚え、その謎をについて知りたくなることは、人間として極めて自然な、健康的好奇心のなせる技なのかもしれません。
これまでの研究によって写楽と目されている人物は、一般的に知られているものでもだけでも二十人を超える人物が数えられていますが、 それらの人物説を主張する人々の論拠となっているのは多くの場合、描かれた写楽の絵に見られる筆法や特徴であり、写楽と目されている人物の作画時期における作画活動や生活挙動を根拠としています。
また本説と同様の十辺舎一九説を唱える研究は他にもありますが、前述の池田満寿夫氏の説による、 中村此蔵の画風が他の大首絵といわれる半身像の表情と全く異なる点に着目したことは特筆すべき成果であり、そのことが直ちに此蔵の写楽説に結びつくかは別問題としても、私にも此蔵を描いた大首絵には、他の絵には見られない作者の特別な視線を感じます。
各説の中でも、江戸時代の時代考証家・斎藤月岑の著作になる増補浮世絵類考による「斎藤十郎兵衛という阿波の能役者である」、という記録はクルトの時代より知られていましたが、能役者として彼の存在を示す「猿楽分限帖」という古文書も発見されてより、この人物が写楽と目される最も有力な人物として支持する人も多いようです。
最近ではその墓までが発見されたというようなニュースもあり、一部の人々は写楽は斎藤重十郎兵衛として決定したような意見もありますが、この増補浮世絵類考が書かれた時期は、写楽が消えて五十年も経った頃に書かれており、その記録の裏付けとなっているのは、写楽と同時代に活躍をした老絵師の「栄松斎長喜」の言葉だけです。
果たしてこの記録をそのまま信じて良いのでしょうか? この斎藤十郎兵衛・写楽説には疑問を呈する人も多く、今後の研究を見守る必要があり、同時に斎藤十郎兵衛なる人物が実在の能役者であろうが、現実には写楽に関する数多くの謎が関連して解けた訳ではなく、写楽が誰であったのか? いう一つの謎に回答を与えたということだけのように思います。
「写楽を巡る疑問の数々」
謎の第一に挙げられる疑問は、写楽の実像でありその人物像でありますが、 本説ではタイトルの通り十辺舎一九を写楽と考えていますが、その他にも疑問とされている謎は基本的に以下のようなものがあります。
(1)写楽は誰であったのか? (本論では十辺舎一九説を提唱)
(2)なぜ描いたのが歌舞伎役者であったのか?
(3)その後写楽はどうなったのか? (隠密業務の傍ら、戯作者としての活動を開始、その後東海道中膝栗毛の作品で戯作者としての地位を不動のものにした。)
(4)何故写楽の絵は蔦屋が版元だったのか?
(5)初登山手習方帖・凧絵謎文の意味は何なのか?
(6)写楽画・画風変遷と落款の謎の理由は何故か
(7)写楽の絵には色変わりの異版があるがこの理由は何故か?
(8)なぜ写楽の実名を記録に残すことがなかったのか?
(9)写楽画・刊行費用の支弁方法
現在までこれらの疑問に対し、すべてに完全な回答を与えた研究はなく、また得られた結論に対し明確な根拠を示したものはありません。
