
〔『山椒大夫』の撮影で〕溝口監督は、ここで次から次へと註文を出し始めた。それも一遍に全てを説明するのでなく、眼前に演じられるシーンにかぶせて、新しいイメージを追うといった感じで。そのたびにディテールが変化する。初め厨子王が泣いたとき、「泣くのではない。涙をふくのだ」というし、次には「もっと身体を廻して」とダメを出す。終[つい]には「動きより、感情だ」という言葉さえ出た。その時、溝口監督が背中に組んだ手を叩き合されながら〔原文ママ〕、細かく興奮に震えさえしていた。が、不思議にそういった氏の指導で、情景が次第に凝結してゆくのは事実だ。
それから、安寿の前に進みよった厨子王が「逃げよう」という。脚本では、「安寿が息をつめて、厨子王の顔を見る」とあるが、溝口監督は、すぐに山椒大夫の屋敷というか三の木戸か、とにかく敵の方を反射的に見るんだ、という演出を行った。これは、立派な解釈にちがいない。が、それより驚いたのは、この説明に、「抵抗物の方向」とか、あるいは「抵抗物の反射」とかいった生硬な言葉が、氏の口から飛んで出たことだ。(外村完二「溝口健二監督の『山椒大夫』」『溝口健二集成』124頁)
〔『赤線地帯』の撮影で〕「成澤君〔成澤昌茂=『噂の女』『赤線地帯』などの脚本家〕、このシーンのテーマはどの台詞ですか」とまた追い討ちです。「“赤ん坊にミルクも飲ませることができないでなにが文化国家だ”」「次のテーマはどこです」「“あなた死んじゃダメよ。からだまで金にかえたおんなが、この先どうなるのか、この目で見つめてやる。確かめてやるのよ”」。師匠はキャメラマンを振り返ります。「わかりましたか。最初のテーマがアップになるように、次のセリフはバストになるように頼みます」。全てがテーマ主義というか、そんなふうでしたね。演技指導は何もしなかったと言いますけど、俳優さんがカッカしてるからそう思うだけで、実に懇切丁寧な人ですよ。台詞も俳優の気持ちにあうまで何度でも言わせます。「できるかい」「できるわ」「できるだろ」。「あなたはどの台詞が一番言いやすいですか?じゃ三つ目でいきましょう」(「成澤昌茂インタビュー」〔インタビュー・構成:桂千穂〕『前掲書』237頁)
溝口先生は厳しかったし、妥協を許されません。伊藤(大輔)先生ですら「今日は曇っとるけどやるか」というところがありますが、溝口先生はそれが全くございません。
徹夜もしょっちゅうで、溝口組は夜中に撮るものだとあたくしも覚悟をしていました。
ただ、この方が暖かい人間味のある方だと思ったのは、〔『浪華悲歌』の〕ラストシーン、心斎橋の上の撮影の時でした。夜中も過ぎて明け方で、あたくしは夏服で寒く、震え上がっていました。すると、助監督さんが走ってきて、あたくしにオーバーを着せてくれました。それが男もので「どなたの」と聞いたら、「溝口先生が『ベルに風邪を引かせてはいかんから、掛けてやれ』とおっしゃった」というのです。
「そんなところがある方なのか」と思いましたが、それから見方が少し変わってきました。(「山田五十鈴が語る『溝口健二』」『別冊太陽 映画監督溝口健二』8頁)
〔『残菊物語』主演の花柳章太郎の談話〕――こんな事もありました。〔『残菊』ヒロインの〕お徳だったか、演技が気に入らなくて、何遍も稽古させるんですね。退屈したのでちょっとはずして三十分程うとうとと眠った。助手が呼びに来たので、行くと、閻魔〔溝口〕がわたしの顔をジロジロ見て、ねてたね、と言うんです。いや寝やせんよと言ったが、寝てた証拠に顔がふやけてるじゃないか。そんな顔じゃ写真にならんから今日はやめる。撮影は明日だ、と言ったですよ。閻魔がね。しかし、わたしももっともだ、と思ったので、そうか、とおとなしく帰りました。実際、溝口は偉い。それ以来暇があっても寝ないことにしました。(清水千代太「双ヶ丘の菊―『残菊物語』前記―」『溝口健二集成』110頁)
〔『近松物語』で〕茂兵衛とおさんが駈落ちしますね。山のところから長谷川一夫の茂兵衛がおさん(香川京子)を置いて逃げていく。そうすると「茂兵衛」と言って、追いかける。ここまでがロケーション。そのあとの小屋のところに隠れている長谷川さんと抱きつくところはセットですね。その八尾の山の中を走るところで長谷川一夫を何と三〇回走らせたんですね。長谷川さんは豆粒みたいなものです。吹き替えでもいいようなものですよ。そういうところから役者を叩いていくというのも演出術の一つです。私のところに長谷川さんが「溝口さんて、いつもこうなん?」「いやいや、まだ簡単ですよ。〔田中〕絹代さんなんか四百何回アフレコをやりましたよ」と。(宮嶋八蔵「割らない、踊らないキャメラ」〔聞き手:西田宣善〕『ユリイカ』1992年10月号 141頁)
助監督として『山椒大夫』についたとき、初めて前宣伝用の特報を演出させてもらったんです。田中絹代さんと先生に振付けをして〈ヨーイスタート〉を初めて言いました。移動を引いて撮影したのですが、キャメラマンが失敗して七回テストを繰り返した。八回目でやっとOKを出したとき、まだ二月の寒い季節でしたが、バーッと汗が出ました。そして帰ろうとした時、足音がして後ろからわたしの肩をぎゅっと抱いて、「宮嶋くん、演出とはああいうふうにして撮るんですよ。忘れてはいけません」。わたしが振付けて、溝口先生が何度も黙って動いてくれて、その上でそう言われたので涙がバーッと出ました。
そういう先生の優しいところはひとつも語られていません。先生が狂っているのではなく、われわれの周囲が狂っているのですよ。(宮嶋八蔵「助監督が語る、溝口その人と演出法」『[映画読本]溝口健二』36頁)
観察しなさいとよく言われました。書生のとき溝口先生と買い物へ行って、電車の中でわたしは本を読んでいたんです。すると電車を降りて先生は「前に変な女の子が座っていたでしょう。スカートを着て下駄をはいてバランスがとれていないけど、あれはどんな商売をしているんでしょうか」。わたしが「本を読んでいて知りませんでした」というと、「君は立派だねえ。本を読んでいる余裕があるのかい」って言われましたね。電車の中でも、町を歩いていても、人間を見て観察したら、その人の生活、職業、家族まで考える。それがわかることによって演出は始まるのです。絶対盗みなさいとは言われません。教われとおっしゃいました。教わったものには感謝の気持ちが残りますが、盗みには感謝はありません。これは役者さんにもよく言われてました。(同上 40頁)
梅村蓉子が死んで撮影が休みになった時、溝口さんは廊下で雨を見ていたんです。僕は拭き掃除をしてました。と、先生がボソッと「女がすることをしなきゃ、女なんか描けやしねえんだ」(「成澤昌茂インタビュー」『溝口健二集成』231頁)