「大石内蔵助」
君は内蔵助になれるか?俺ァなれねぇ!(笑) 640*480  86.3KB

 嘉肴[かこう]有りといへども食せざればその味[あじわい]を知らずとは。 国治[おさ]まつてよき武士の忠も武勇も隠るゝに。 たとへば星の昼見へず夜は乱れて顕[あら]はるゝ。 [ためし]をこゝに仮名書きの太平の代[よ]の政[まつりごと]
(『仮名手本忠臣蔵』冒頭)

  大石内蔵助良雄[おおいし-くらのすけ-よしたか(一般に“よしお”) 1659-1703] 赤穂浅野家筆頭家老一千五百石。 元禄十四年(1701)三月十四日、 殿中において吉良上野介義央[きら-こうずけのすけ-よしなか 1641-1702]を相手に刃傷事件を起こし、 即日切腹した主君・浅野内匠頭長矩[あさの-たくみのかみ-ながのり 1667-1701]の仇を報ずるため元禄十五年十二月十四日、四十六人の元赤穂藩士と共に吉良邸に討ち入り、 吉良上野介の首級を内匠頭の墓前に捧げ、翌年二月四日切腹。 享年45歳。

 絵はもちろん、 山鹿流の陣太鼓を「~\時は元禄十五年十二月十四日、江戸の夜空を震わす山鹿流儀の陣太鼓、 しかもひと打ち、二打ち、三流れ…」((C)三波春夫)と打ち鳴らし、 門を破って吉良邸に突入した内蔵助以下の四十七士。
 ただし、 実際には陣太鼓など使われなかったし、入山模様(白と黒のギザギザ模様)の服でもなかったし、 四十七士は表門と裏門の二手に分かれて突入した(表門はハシゴをかけて乗り越えた。 壊して入ったのは裏門)。 そして雪は降っていなかった。 この絵はウソだらけだが、こう描かなきゃあ、絵にはならない…と思う。

★大石その人★
 大石内蔵助良雄の出た大石家は、 平将門を討った鎮守府将軍藤原秀郷の子孫で、その一族が近江国栗太郡大石庄の下司職[げししき] になったので地名をとって大石氏を名乗るようになったのだという。 これが確かならば大名並み、 あるいは出自の定かではない者の多い普通の大名よりは余程良い家柄である。
 内蔵助良雄の曾祖父にあたる内蔵助良勝[よしかつ] は浅野采女正長重[あさの-うねめのかみ-ながしげ] (浅野長政の次男)に仕えて大坂冬の陣で武功を立て、のち家老となって千五百石を給せられた。 長重の子の長直の代に常陸笠間から播州赤穂へ転封となったのに従って大石家も赤穂に移り、 良勝の没後、子の内蔵助良欽[よしかね]が跡を継ぎ、浅野長直・長友・長矩の三代に仕えた。
 良欽の長子は権内良昭[ごんない-よしあき]であったが早逝したため、 孫の良雄が養子となって家督を継いだ。 良雄の大叔父(良欽の弟)の頼母助良重[たのものすけ-よししげ] が家老となり良雄の成人まで補佐したことはよく知られている。 良雄は19歳になると家老見習いとなり、 その二年前にわずか9歳で藩主となっていた浅野長矩に仕えることになった。 しばらくして21歳で正式な家老となった。

 浅野家と大石家とは、深い婚姻・養子の関係で繋がれている。 浅野長直の女[むすめ]鶴姫は頼母助の妻となり、 間に生まれた子のうち男子二人は浅野家に養子として入った。
 大石家は浅野家唯一の譜代家老(代々家老となる家柄)であり、 出自の良さも合わせて赤穂藩において特別な地位を占めていた。 大石内蔵助は藩主に次ぐ家格の者として、同時期の家老であった 大野九郎兵衛・安井彦右衛門・藤井又左衛門らの一代家老(個人として家老に取り立てられた者) とは異なる重みを持っていたのである。

  歴々の家の嫡男として浅野内匠頭長矩の家老となった内蔵助良雄は、いかなる人物だったのか。
  “昼行灯”[ひるあんどん]というあだ名が世に伝わっている。 史書に残っているわけではないけれども、非常に有名である。 すなわち巷説であるが、これは内蔵助の人柄をよく表していると言われている。 彼の若年時代に山鹿素行[やまが-そこう]が赤穂に滞在したことから、 山鹿流兵法に通じているとされ、そこから「山鹿流の陣太鼓」の俗説が生まれた。 しかし実際には大叔父の頼母助が素行の世話をしたものの、 内蔵助が山鹿素行の弟子になったというのは怪しいようだ。 若い頃、京都堀川塾で古学派と称される儒学の一派を立てていた伊藤仁斎[いとう-じんさい] の下で学んだと言われ、こちらは多少信憑性が高いらしい。 堀川塾で居眠りばかりするので、内蔵助の不在の時に門下生たちが陰口をたたいていたら、 それを聞いた仁斎が「あの人は文字の穿鑿よりも、直に道の神髄に触れようとしている。 大名衆や家老衆の学問はそれでいいのだ。 」と言ったという話があるが、伝説だろう。
  また、37歳の時(元禄七年)、備中松山藩の水野家がお家断絶となった際、 収城使として浅野内匠頭に先んじて松山城に赴いて尽力して無事に開城させたとも伝えられている。 しかし、内匠頭に従って松山城に行ったものの、実際には目立った活躍などは無かったという。

 その内蔵助がようやく世間の耳目を集めたのは、 赤穂藩取りつぶし後の藩札引き替え等の残務整理と城あけ渡しに見事な手際を見せた時であった。 城受け取りをおこなった幕府大目付の荒木十左衛門・榊原采女の両人は 「諸事仕形無類の儀ども感じ入り申し候」と感嘆したという。 要するに、普段は茫洋とした人物で才子ぶったところを見せることは全く無く、 危機に際して真価を発揮するタイプの人物だったと思われる。

 それと、女(遊び)好きだったというのも有名である。 ただし、これまで書いてきたところを見ると、なんだか軽い人間であったように思われるが、 やはり家老という立場にあった人だということを忘れてはならない。
 討ち入り後、 一行のうち大石以下17人が細川越中守綱利邸にお預けになり、二間続きの部屋におおよそ年齢別で分けられた。 彼らの世話をした堀内伝右衛門に、内蔵助を補佐して討ち入り計画を立てた吉田忠左衛門兼亮[よしだ-ちゅうざえもん-かねすけ] 「大石殿は我々が若い者の部屋に入りびたるのをあまりいい顔をしませんが、こちらに来るとホッとします」と語り、 それを聞いた伝右衛門は大石の「位高きことを知れり」と書き残しているから、 譜代家老としての威厳をそなえていたことを知るべきだろう。 決して軽忽な人物ではなかったのである。

★告げよ花★
  浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に斬りつけた刃傷事件は前作の 「吉良上野介」に付した文章に記してあるので、ここではくり返さない。 また、討ち入りまでの経緯も略す。

 討ち入り後、一行は泉岳寺で主君の墓前に吉良の首級を供え、しばし休息した。 その後一旦、仙石伯耆守邸に移されたあと、四十六士(足軽の寺坂吉右衛門だけは泉岳寺に入る前に逃がされた) は細川家・水野家・松平家・毛利家の四家に預けられ、幕府による処分を待った。 刃傷事件の際には即刻処断した将軍綱吉は意外にも彼らを賞賛し、 四大名家も細川家を筆頭に浪士たちを厚遇して助命嘆願までおこなった。
 幕閣の意見は、 老中たちの評議は赤穂浪士たちは夜盗の輩と同類であり打ち首にすべきだというもので、 対して評定所の意見は吉良方と上杉家に対して厳しく、 赤穂浪士たちは衆を集めて討ち入ったといえども「武家諸法度」の「文武忠孝を励み、礼儀を正しくすべし」という趣旨に合致しているので、 とりあえず預けたまま差し置いて後年処置を決めるべし、というものだった。
 幕府の大学頭[だいがくのかみ]であった儒者の林信篤[はやし-のぶあつ](号は鳳岡[ほうこう])は、 四十七名もの忠臣が出たのは儒教が盛んな証拠で喜ばしいことであり、 このような忠義の者を処罰するのは 忠孝を奨励する趣旨を否定することになって政道の根本を崩すことになるから、 後日時期を見て赦免したらどうか、という意見を提出した。
 処分の定まらないまま元禄十五年は暮れ、元禄十六年を迎えた。

 このような同情論が優勢な状況で、 綱吉と事実上の執政となっていた柳沢吉保[やなぎさわ-よしやす]は苦慮した。 赤穂浪士たちは、まさに忠義の心から事を起こしたのである。 しかしそれは刃傷事件に対する公儀の処分に異議を唱えたことであり、また法を以て裁くと、 徒党を組んで深夜幕府の高官の家に押し入ったということは、 どうあっても許すことのできない行為であった。
 柳沢吉保が、当時家臣であった学者の荻生徂徠[おぎゅう-そらい]に諮問すると、 彼は「彼らが身を捨てて事に当たったのは義だが、私の論に過ぎない。 浅野長矩は法に背いて誅せられたのに吉良氏を仇とし、 公儀の許し無く騒動に及んだのは許し難く、死刑が適当である。 しかし、士の礼を以て切腹に処すならば、彼も本懐を遂げたことになり、 (吉良の長子が養子として藩主になっている)上杉家の願いも空しくならないだろう」という意味の意見を述べた。
 学問に通じている将軍綱吉と柳沢吉保も納得できる理路整然とした論旨であり、 これに従って四十六士を切腹させることに決定した(徂徠の意見によって決したというのを疑う説もある)。

 しかしながら、綱吉はまだ決しかねていた。 法によって天下を治める将軍としては、彼らを許すわけにはいかない。 だが、彼らの忠義は賞すべきであり、刃傷事件の処分が軽率に過ぎたことへの反省もあった。
  二月一日に輪王寺門主の公弁法親王(後西天皇の第六皇子)が年始の挨拶で訪れると、 綱吉は雑談の中で「天下の政治というのは気苦労が多く煩わしい。 このたびの赤穂浪人の一件などは世に珍しい忠義の者であるから命だけは助けてやりたいが、 どうにも切腹を申しつけなければ政道が立たない。 実に嫌なことだ。 」と言って謎をかけた。 皇族であり出家でもある公弁法親王は二重の意味で方外の身(世の秩序から超越した立場)であり、その助言に従ったということにすれば“超法規措置”も可能になるからだった。
 しかし、公弁法親王はその謎を解かずに帰ってしまった。 聡明な宮様が謎に気づかないはずはないと思った将軍は、そばの者を寛永寺にやって再度親王の考えを訊かせた。 すると公弁法親王は取り次いだ僧に対して、 「彼らは長い間苦労して主君の仇を討とうとし、その志は達せられた。 今はもうこの世に思い残すことはないとて公儀の刑を受けるために自ら訴え出ている。 助命したところで二君に仕えるはずもない。 あたら忠義の士を飢え死にさせるよりも、 公儀より武士道を以て死を賜ったほうが彼らの志も空しくならず、天下の政道も立つだろう。 」と答えた。

  二月三日、ついに四大名家に対して翌日切腹の沙汰が下ることが伝えられた。 当初から浪士たちを厚遇し、助命嘆願が受け入れられたときのために十七士の衣服 ・佩刀まで準備していた細川越中守は直接伝えるに忍びず、彼らの部屋の床の間に花を生けさせた。 いかに義士であっても罪人の部屋に花を飾るのは異例であり、 また花は仏に捧げられるものだからである。
 すぐさま意味を察した彼らは、世話になった堀内伝右衛門を呼び、 十七士の中で若い者たちが「そろそろ埒[らち]があく(処分が決まる)でしょうから、 御暇乞いに芸づくしをお目にかけましょう」と言って、歌舞伎狂言の物真似をしたりした。

 元禄十六年(1703)二月四日、各藩邸において午後から夕刻にかけて四十六士は次々と切腹。 伝説の中で永遠に生きる存在となった。

 この処分において、仇討ちを正当とする忠義の次元と、 仇討ちを殺人として不当とする法理の次元とは、完全に区別されていた。 切腹は単なる自殺ではなく自らの意志の表現、 武士の最高の礼とする日本武士道においてのみ、忠義と法を併存させる処断が可能であった。 赤穂義士の忠義を賞賛しつつ、哀惜の念を抱きながらその死を認める、 という奇跡的に完璧な(?)結末が生まれた。

★義士非義士論★
 四十六士切腹の後、彼らに関して多くの議論が戦わされた。 (※議論の原文は下掲参考書『近世武家思想』で読める。 また特に『忠臣蔵と日本の仇討ち』所収の南條範夫「仇討ち是非論の推移」を参考にした。 以下「」内は原文あるいは書き下し文、《》内は要約した訳文)

 林鳳岡はいち早く「復讐論」を著し、大学頭の立場から切腹の決定を是認したものの、 「天下の士、膏沢に沐浴して(太平の恩恵を身に受け)怠惰の心生ず。 遊談聚議し習ひて軟熟となる。 彼の一挙に及びて奮発興起し、以て義に向ふの心起り、君は臣を信ずるを知り、臣は君に忠なるを知るなり」と評価し、 さらには末尾に詩を賦して「四十六人斉[ひと]しく刃に伏す 上天意なし忠貞を佐[たす]くるに」と哀悼の意まで表した。
  室鳩巣もまた早い時期に「赤穂義人録」を作って事件の経緯と四十七士の銘々伝を記し、義士として讃えた。

  これらの擁護論に対して、佐藤直方・三宅重固・荻生徂徠らは義士批判論を唱えた。
  その論旨はおおむね、刃傷事件は一方的に浅野が斬りつけただけで喧嘩ではないのだから、 吉良を恨んで吉良邸へ討ち入ったのは筋違いだとするものである。 そして、赤穂浪士が討ち入りの後すぐに自裁(自殺)せずに自訴して公儀の処分を待ったのは、 人の感賞を得て禄を得ようと(家臣に取り立てられようと)したのではないか、とするものであった。

  義士否定論に対して再反論したのが浅見絅斎[あさみ-けいさい]である。
 彼は「絅斎先生四十六士論」の中で、 《内匠頭が大礼がおこなわれる殿中であるのを はばからず私怨のために刃傷に及んだのは甚だしい落ち度である。 しかし、公儀に対して恨むところがあったわけではなく、以前から、 そして当日も吉良から恥辱を受けていたので前後を顧みず斬りつけたのである。 もし存分に斬り殺していたのならその場で自害しただろうし、 捕らえられたならば処罰を受けるのは当然だ》とし、続けて 「然らば大法を以(て)云へば、自分同士の喧嘩両成敗の法なり。 若又[もしまた]内匠頭大礼の場を乱りたるを科[とが]とせば、 只乱りたるにて非ず、皆上野介私意にてかやうになることなれば、 内匠頭成敗にあづかれば上野介も成敗にあづかるべき筈[はず]也。 」と述べた。
 義士が禄を求めて(再仕官口を求めて)討ち入ったとする意見に対しては、 「かりそめながら大身の大屋敷に、家来大分にてひかへ、其一門も歴々ある方へ、 四十六人にて忍込[しのびこみ]打んとす。 一人も命生てかへらんと云[いう]のぞみあるべきや。 其れを知行の望あると云は甚[はなはだ]不明の議論なり。 [かつ]大石等大分の金銀あり。 又是非飢渇に及ぶが哀しくば、かやうの命をすてたる知行の求やうせずともあるべし。 さてさてさすが士たるものを評判するに似合ぬ誣言なり。 」と反駁した。
 そして末尾で「吾[わが]君父人を撃[うち]損じ、 其ために命を害せられ、相手はぬけぬけと生て居るを、臣子たるもの、此方の君父の不調法ゆへとて、 わきよりながめて居るを忠臣義士とて、禄をあたへ召し仕ふこと、何の用に立つべきやらん。 平生君臣之吟味に存じよらざること也。 」とした。

 浅見絅斎の論旨は義士びいきの世論の傾向とも合致し、 赤穂浪士=義士説が通説となったかのように思われた。 しかし、赤穂義士切腹から三十年近く経ってから、 荻生徂徠の高弟の一人である太宰春台[だざい-しゅんだい]は「赤穂四十六士論」において、 先行する義士否定論よりもさらに酷烈な批判を義士に対して浴びせた。
 彼はまず、《吉良が内匠頭を殺したのではない。 大石らはなぜ上野介を殺したのか。 恨む相手が違う。 》と言った。
 そして、 《恨むべき相手が幕府だったとすれば、赤穂の士は城を枕に死ぬべきだった。 赤穂城を背にして公儀の使者と一戦し、しかるのちに城に登って火を放って自殺し、 屍となって城と共に焼ければ、赤穂の人のやるべき事はやり尽くしたことになる。 手を拱[こまね]いて使者に城を明け渡したのは失策だ。 赤穂城で死ねなかったのなら、すぐさま江戸へ行って吉良邸へ討ち入るべきだった。 成功・失敗に関わらず死ぬことになるが、それでも責は果たされたことになる。 彼らが時を待ち陰謀秘計を用いて吉良を殺そうとしたのは、 うまく成功して名利を得ようとしたもので卑しいことだ。 この時、吉良が討ち入り以前に死ななかったのは赤穂浪士たちが幸運だったに過ぎない。 》と述べ、さらには、
  「匹夫、朝子(将軍の直臣)を攻殺すれば、その罪、死に当たる。 ここにおいてか四十六士以て自裁すべし。 なほ何ぞ官命を待つことあらんや。 [すなわ]ち自裁すること能はずして、みづから官に帰する者は、 彼その心にみづから以[おも]へらく、至難の事を済[な]す。 功これより大なるはなし。 幸に死せざるべくんば、即ち死せず、禄位を得ること、 [ふ]して地芥を拾ふが如し(ゴミを拾うくらい簡単だ)、不幸にして死せんか、法に死するのみ。 死するも未だ晩[おそ]からざるなり。 何ぞ必ずしも自裁せんと。 これあにわがいはゆる名利を要[もと]むる者に非ざるか。 [ひ]なるかな(卑しいことだ)。 」と言い、
 《もし将軍が誤って大石らの罪を赦[ゆる]し、 仕官を許すようなことになったら、彼らは幕府の禄米ですら喰[は]んだことだろう。 恨むべき真の相手が幕府だということを知らないからである》と決めつけた。

 この太宰の説に対しては猛然と批判の声が起こった。
 松井観山は 《浅野内匠頭は殿中で、しかも非常の大礼をおこなう際に刃傷沙汰を起こしたのであって、 その罪が通常の判例に従わなかったのも仕方がない。 浪士たちは幕府を恨むべきだとするのは、 あまりにも杓子定規な論で情を忘れたものだ。 また、大石らが討ち入りを急がなかったのは、 浅野大学によって浅野家を復興させようとしていたからであり、 また事を急いで討ち漏らせば亡君と同じ失敗をくり返したことになり、 天下の笑い者となってしまうことを恐れたからだ。 事を終えて自裁せず、身を官にゆだねたのは、 この挙がやむを得ぬ義に出たことを明らかにし、公儀に謀反しようとしたのではないことを示すためだ。 「忠義を装って名利を求めた」などというのは、あまりにも酷薄ではないか。 》(「読四十六士論」)と論駁した。
  五井蘭州は《内匠頭は法を破って死を賜ったのであり、国家を恨む筋合いはない。 幕府を恨んだりしたら、それは私心と言うものだ。 事が起こったのは吉良が邪悪なためであり、 内匠頭が吉良を仇とした以上、大石らが吉良上野介を恨むのは当然だ。 赤穂城に籠城して死ねと言うが、そんなことをしても旧主の恨みは解けず、浅野一族に禍が及ぶだけである。 また、籠城しないのならすぐさま吉良邸に討ち入れと言う。 先は幕府を恨めと言い、今は吉良を恨めと言うのは定説がないというべきだ。 大石は吉良を必ず殺してからやっと責任が果たされると考えていたので みだりに攻めなかったのである。 彼らは身の死するを顧みなかったのであり、名利を求めたなどというのは、 小人の腹を以て君子の心を推し量ったものだ。 小人が議論を好み、他人が良いことを成功させるのを楽しまない、とはこういうことだ》と論じた。
  俳人として有名な横井也有[よこい-やゆう 1702-1783]は、「前には吉良殿はたつて敵でない、 うつ理はないといふて置て、又[また][ここ]では吉良子を攻て死ねとは、一向寝言の様に思はれます。 」と揶揄した。
  太宰の文章の中でも、赤穂義士が名利を求めて討ち入りをおこなったという論は最も非難の的となったところであり、横井也有は

すべて上等の人は人の善を称し、 下品の人卑劣な人は必ず人の美名をねたみそねみたがるもの。 是は博識学才によらず、根性の上下善悪によるもので、あゝさもしい恥しいもので御座ります。
と切り捨てた。 「根性」とまで言われては、太宰も沈黙するしかなかっただろう (横井の方が少し後の人なので、太宰がこれを読んだとは思われないが)。


 ここでいささか私見を述べると、赤穂義士が禄を求めて、 すなわち再就職運動で討ち入りをおこなった、というのはあり得ないように思う。 臣下が主君の仇を討つというのは前例が無く、 それは一旦公儀の裁定が下った事件に異議を唱えることでもあり、打ち首獄門の刑にも値することは承知していただろう。
 寛文八年(1668)の「浄瑠璃坂の仇討ち」が頭にあったという説がある。 これは討ち入った者たちは遠島になったものの死罪に処せられることはなく、赦免された後は仕官先を得ている。 この仇討ちは討ち入る側の一党が揃いの羽織を着、討ち入る際に「火事だ火事だ」 と言って騒ぎ立てるなど、吉良邸討ち入りの際、参考となったと言われている。
 しかしながら、 これは親族の仇を討つ討ち入りであり、一応仇討ちの届けも出してあったものであり (徒党を集めたのと、江戸府内で騒動を起こしたのが罪とされた)、全く性質が異なる。
 それに、 禄を求めるだけならば、討ち入らずとも浪士たちに対する再仕官の口は、割りとあったと思われる。 大石内蔵助からして数家の大名から高禄で誘われていたというし、 脱盟者の中でも縁故で再仕官することになった…婿養子の口があった…云々などという者がいる。
 そして、 名利を求めての討ち入りだったとすると、かくも多くの脱盟者が出たことを説明できない。 元禄十五年七月、内匠頭の弟の浅野大学が広島の浅野本家にお預けとなって 赤穂浅野家の再興がならなかった際に多くの脱落者が出たのだが、 もし仕官口を求めるために討ち入りをするのだったら、 この時にこそ盟約に加わる者が増えるべきだろう。 そして討ち入り直前の元禄十五年十一月には五十五人いたのが、 十二月には四十七人になってしまった。 自ら吉良邸に潜入して様子を探りまでした毛利小平太までが書き置きを残して去っている。 もし大石以下に、討ち入りの後赦免になって、高禄を以て召し抱えられる… などという期待あるいは希望的観測のある雰囲気だったならば、 直前に脱盟者が出るようなことは無いと思われる。

★士魂不朽★
 元禄十五年以来約三世紀、 忠臣と言えば大石内蔵助、義士と言えば赤穂四十七士である。 曾我兄弟、大楠公(楠木正成)、荒木又右衛門、国定忠治、清水の次郎長等々…といった、 かつてのフォーク・ヒーローたちがほとんど忘れ去られている現在でも、 大石内蔵助と『忠臣蔵』という名を知らぬ者はいない。
 戦後、 『忠臣蔵』に対する批判がおこなわれ、今でも時折これを否定的に扱う文学作品や評論が現れる。 しかし、それらの中には自分で得た知識ではなく、 人の言ったことの受け売りで「『忠臣蔵』は軍国主義教育に利用された」などと評するものもある。
  実際には、海音寺潮五郎は、戦争中には武士道は封建道徳であり殿様に対するだけの小義だとして排斥され、 赤穂義士も顧みられることは無かったと言い、 事実、『サンデー毎日』に連載していた「赤穂浪士伝」も中断を余儀なくされた、と述べている。 これは彼の『赤穂義士』の冒頭にあり、文庫本になっていてどこでも手に入る(↓下掲)。
  ある物事について語ろうとするならば、それについて最低限の知識は無くてはならない。 「嘉肴有りといへども食せざればその味を知らず」とは真実であろう。 そして自らが当事者の立場になったとき、何をするか、 何ができるか、を考えることも必要だろう。

 私は彼らの志を賞する。 彼ら四十七星は今までの三百年間、またこれからも長い間天にあって輝き続けることと信ずる。 しかしまた一方、ほとんど被害者と言っていい吉良上野介 討ち死にした吉良の家臣、一番の犠牲者である吉良左兵衛義周に対する哀悼の念も抱きながらではあるが。

 四十六士に対する切腹の沙汰も、 時代背景を考えれば、やむを得ざることだったと思う。 もし許されたら若い者たちが晩節を汚したかもしれない…という説には全面的には賛成できないが、 彼らが赦免されたら悪しき前例となり、後世、名利を求めてみだりに仇討ちをしたり公憤を装って私怨を晴らそうとする馬鹿が多く出ただろう。 忠義を賞しつつ法を以て誅するという切腹以上の沙汰は無かったと思う (死刑廃止論者や自殺を否定するキリスト教徒は目をむくかもしれないけど)。 しかし、 白髪首一つと引き替えに四十何人もの立派な男たちが腹を切ってしまったのは、 なんとしても惜しい、残念だ…という思いは残る。 このラスト以外には無いとわかってはいるのだが…。 『忠臣蔵』の物語は『仮名手本忠臣蔵』からしてハッピーエンドのものが多いが、やはり結局のところ悲劇なのであろう。


※参考書:
三田村鳶魚『横から見た赤穂義士』中公文庫/海音寺潮五郎『赤穂義士』文春文庫/『歴史群像シリーズ57 元禄赤穂事件』学習研究社 /池波正太郎 他『忠臣蔵と日本の仇討』中公文庫/石井紫郎 校注『日本思想大系27 近世武家思想』岩波書店/田原嗣郎『赤穂四十六士論―幕藩制の精神構造―』吉川弘文館 ほか

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