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嘉肴[かこう]有りといへども食せざればその味[あじわい]を知らずとは。 国治[おさ]まつてよき武士の忠も武勇も隠るゝに。 たとへば星の昼見へず夜は乱れて顕[あら]はるゝ。 例[ためし]をこゝに仮名書きの太平の代[よ]の政[まつりごと]。(『仮名手本忠臣蔵』冒頭)
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大石内蔵助良雄[おおいし-くらのすけ-よしたか(一般に“よしお”) 1659-1703]。 赤穂浅野家筆頭家老一千五百石。 元禄十四年(1701)三月十四日、 殿中において吉良上野介義央[きら-こうずけのすけ-よしなか 1641-1702]を相手に刃傷事件を起こし、 即日切腹した主君・浅野内匠頭長矩[あさの-たくみのかみ-ながのり 1667-1701]の仇を報ずるため元禄十五年十二月十四日、四十六人の元赤穂藩士と共に吉良邸に討ち入り、 吉良上野介の首級を内匠頭の墓前に捧げ、翌年二月四日切腹。 享年45歳。
絵はもちろん、 山鹿流の陣太鼓を「~\時は元禄十五年十二月十四日、江戸の夜空を震わす山鹿流儀の陣太鼓、 しかもひと打ち、二打ち、三流れ…」((C)三波春夫)と打ち鳴らし、 門を破って吉良邸に突入した内蔵助以下の四十七士。 |
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大石内蔵助良雄の出た大石家は、 平将門を討った鎮守府将軍藤原秀郷の子孫で、その一族が近江国栗太郡大石庄の下司職[げししき] になったので地名をとって大石氏を名乗るようになったのだという。 これが確かならば大名並み、 あるいは出自の定かではない者の多い普通の大名よりは余程良い家柄である。 内蔵助良雄の曾祖父にあたる内蔵助良勝[よしかつ] は浅野采女正長重[あさの-うねめのかみ-ながしげ] (浅野長政の次男)に仕えて大坂冬の陣で武功を立て、のち家老となって千五百石を給せられた。 長重の子の長直の代に常陸笠間から播州赤穂へ転封となったのに従って大石家も赤穂に移り、 良勝の没後、子の内蔵助良欽[よしかね]が跡を継ぎ、浅野長直・長友・長矩の三代に仕えた。 良欽の長子は権内良昭[ごんない-よしあき]であったが早逝したため、 孫の良雄が養子となって家督を継いだ。 良雄の大叔父(良欽の弟)の頼母助良重[たのものすけ-よししげ] が家老となり良雄の成人まで補佐したことはよく知られている。 良雄は19歳になると家老見習いとなり、 その二年前にわずか9歳で藩主となっていた浅野長矩に仕えることになった。 しばらくして21歳で正式な家老となった。
浅野家と大石家とは、深い婚姻・養子の関係で繋がれている。 浅野長直の女[むすめ]鶴姫は頼母助の妻となり、 間に生まれた子のうち男子二人は浅野家に養子として入った。
歴々の家の嫡男として浅野内匠頭長矩の家老となった内蔵助良雄は、いかなる人物だったのか。 その内蔵助がようやく世間の耳目を集めたのは、 赤穂藩取りつぶし後の藩札引き替え等の残務整理と城あけ渡しに見事な手際を見せた時であった。 城受け取りをおこなった幕府大目付の荒木十左衛門・榊原采女の両人は 「諸事仕形無類の儀ども感じ入り申し候」と感嘆したという。 要するに、普段は茫洋とした人物で才子ぶったところを見せることは全く無く、 危機に際して真価を発揮するタイプの人物だったと思われる。
それと、女(遊び)好きだったというのも有名である。 ただし、これまで書いてきたところを見ると、なんだか軽い人間であったように思われるが、 やはり家老という立場にあった人だということを忘れてはならない。 |
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浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に斬りつけた刃傷事件は前作の 「吉良上野介」に付した文章に記してあるので、ここではくり返さない。 また、討ち入りまでの経緯も略す。
討ち入り後、一行は泉岳寺で主君の墓前に吉良の首級を供え、しばし休息した。 その後一旦、仙石伯耆守邸に移されたあと、四十六士(足軽の寺坂吉右衛門だけは泉岳寺に入る前に逃がされた) は細川家・水野家・松平家・毛利家の四家に預けられ、幕府による処分を待った。 刃傷事件の際には即刻処断した将軍綱吉は意外にも彼らを賞賛し、 四大名家も細川家を筆頭に浪士たちを厚遇して助命嘆願までおこなった。
このような同情論が優勢な状況で、 綱吉と事実上の執政となっていた柳沢吉保[やなぎさわ-よしやす]は苦慮した。 赤穂浪士たちは、まさに忠義の心から事を起こしたのである。 しかしそれは刃傷事件に対する公儀の処分に異議を唱えたことであり、また法を以て裁くと、 徒党を組んで深夜幕府の高官の家に押し入ったということは、 どうあっても許すことのできない行為であった。
しかしながら、綱吉はまだ決しかねていた。 法によって天下を治める将軍としては、彼らを許すわけにはいかない。 だが、彼らの忠義は賞すべきであり、刃傷事件の処分が軽率に過ぎたことへの反省もあった。
二月三日、ついに四大名家に対して翌日切腹の沙汰が下ることが伝えられた。 当初から浪士たちを厚遇し、助命嘆願が受け入れられたときのために十七士の衣服 ・佩刀まで準備していた細川越中守は直接伝えるに忍びず、彼らの部屋の床の間に花を生けさせた。 いかに義士であっても罪人の部屋に花を飾るのは異例であり、 また花は仏に捧げられるものだからである。
元禄十六年(1703)二月四日、各藩邸において午後から夕刻にかけて四十六士は次々と切腹。 伝説の中で永遠に生きる存在となった。
この処分において、仇討ちを正当とする忠義の次元と、 仇討ちを殺人として不当とする法理の次元とは、完全に区別されていた。 切腹は単なる自殺ではなく自らの意志の表現、 武士の最高の礼とする日本武士道においてのみ、忠義と法を併存させる処断が可能であった。 赤穂義士の忠義を賞賛しつつ、哀惜の念を抱きながらその死を認める、 という奇跡的に完璧な(?)結末が生まれた。 |
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四十六士切腹の後、彼らに関して多くの議論が戦わされた。 (※議論の原文は下掲参考書『近世武家思想』で読める。 また特に『忠臣蔵と日本の仇討ち』所収の南條範夫「仇討ち是非論の推移」を参考にした。 以下「」内は原文あるいは書き下し文、《》内は要約した訳文)
林鳳岡はいち早く「復讐論」を著し、大学頭の立場から切腹の決定を是認したものの、 「天下の士、膏沢に沐浴して(太平の恩恵を身に受け)怠惰の心生ず。 遊談聚議し習ひて軟熟となる。 彼の一挙に及びて奮発興起し、以て義に向ふの心起り、君は臣を信ずるを知り、臣は君に忠なるを知るなり」と評価し、 さらには末尾に詩を賦して「四十六人斉[ひと]しく刃に伏す 上天意なし忠貞を佐[たす]くるに」と哀悼の意まで表した。
これらの擁護論に対して、佐藤直方・三宅重固・荻生徂徠らは義士批判論を唱えた。
義士否定論に対して再反論したのが浅見絅斎[あさみ-けいさい]である。
浅見絅斎の論旨は義士びいきの世論の傾向とも合致し、 赤穂浪士=義士説が通説となったかのように思われた。 しかし、赤穂義士切腹から三十年近く経ってから、 荻生徂徠の高弟の一人である太宰春台[だざい-しゅんだい]は「赤穂四十六士論」において、 先行する義士否定論よりもさらに酷烈な批判を義士に対して浴びせた。
この太宰の説に対しては猛然と批判の声が起こった。 すべて上等の人は人の善を称し、 下品の人卑劣な人は必ず人の美名をねたみそねみたがるもの。 是は博識学才によらず、根性の上下善悪によるもので、あゝさもしい恥しいもので御座ります。と切り捨てた。 「根性」とまで言われては、太宰も沈黙するしかなかっただろう (横井の方が少し後の人なので、太宰がこれを読んだとは思われないが)。
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元禄十五年以来約三世紀、 忠臣と言えば大石内蔵助、義士と言えば赤穂四十七士である。 曾我兄弟、大楠公(楠木正成)、荒木又右衛門、国定忠治、清水の次郎長等々…といった、 かつてのフォーク・ヒーローたちがほとんど忘れ去られている現在でも、 大石内蔵助と『忠臣蔵』という名を知らぬ者はいない。 戦後、 『忠臣蔵』に対する批判がおこなわれ、今でも時折これを否定的に扱う文学作品や評論が現れる。 しかし、それらの中には自分で得た知識ではなく、 人の言ったことの受け売りで「『忠臣蔵』は軍国主義教育に利用された」などと評するものもある。 実際には、海音寺潮五郎は、戦争中には武士道は封建道徳であり殿様に対するだけの小義だとして排斥され、 赤穂義士も顧みられることは無かったと言い、 事実、『サンデー毎日』に連載していた「赤穂浪士伝」も中断を余儀なくされた、と述べている。 これは彼の『赤穂義士』の冒頭にあり、文庫本になっていてどこでも手に入る(↓下掲)。 ある物事について語ろうとするならば、それについて最低限の知識は無くてはならない。 「嘉肴有りといへども食せざればその味を知らず」とは真実であろう。 そして自らが当事者の立場になったとき、何をするか、 何ができるか、を考えることも必要だろう。 私は彼らの志を賞する。 彼ら四十七星は今までの三百年間、またこれからも長い間天にあって輝き続けることと信ずる。 しかしまた一方、ほとんど被害者と言っていい吉良上野介、 討ち死にした吉良の家臣、一番の犠牲者である吉良左兵衛義周に対する哀悼の念も抱きながらではあるが。 四十六士に対する切腹の沙汰も、 時代背景を考えれば、やむを得ざることだったと思う。 もし許されたら若い者たちが晩節を汚したかもしれない…という説には全面的には賛成できないが、 彼らが赦免されたら悪しき前例となり、後世、名利を求めてみだりに仇討ちをしたり公憤を装って私怨を晴らそうとする馬鹿が多く出ただろう。 忠義を賞しつつ法を以て誅するという切腹以上の沙汰は無かったと思う (死刑廃止論者や自殺を否定するキリスト教徒は目をむくかもしれないけど)。 しかし、 白髪首一つと引き替えに四十何人もの立派な男たちが腹を切ってしまったのは、 なんとしても惜しい、残念だ…という思いは残る。 このラスト以外には無いとわかってはいるのだが…。 『忠臣蔵』の物語は『仮名手本忠臣蔵』からしてハッピーエンドのものが多いが、やはり結局のところ悲劇なのであろう。 |
※参考書:
三田村鳶魚『横から見た赤穂義士』中公文庫/海音寺潮五郎『赤穂義士』文春文庫/『歴史群像シリーズ57 元禄赤穂事件』学習研究社 /池波正太郎 他『忠臣蔵と日本の仇討』中公文庫/石井紫郎 校注『日本思想大系27 近世武家思想』岩波書店/田原嗣郎『赤穂四十六士論―幕藩制の精神構造―』吉川弘文館 ほか