「吉良上野介」
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 総体[そうたい]貴様の様な、内にばかり居る者を、井戸の鮒[ふな]じやといふ譬[たとえ]が有る。聞いておかしやれ。彼[かの]鮒めが僅[わずか]三尺か四尺の井の内を、天にも地にもないように思ふて。普段外を見る事がない。所に彼井戸がへに釣瓶[つるべ]に付いて上ります。それを川へ放[はな]しやると、何が内にばかり居る奴しやによつて、悦[よろこ]んで途[ど]を失ひ、橋杭[はしぐい]で鼻を打て即座にぴりぴりぴりぴりと死ます。貴様も丁度[ちょうど]鮒と同し事ハゝゝゝゝゝゝゝ。
(『仮名手本忠臣蔵』三段目「鎌倉御所の段」より)

 吉良上野介義央[きら-こうずけのすけ-よしなか(または“よしひさ”) 1641-1702]。高家筆頭四千二百石。万石未満の旗本ながらも、官位は従四位上(浅野内匠頭は従五位下)。『忠臣蔵』のおかげで「日本一悪いヤツ」にされてしまった人。

 絵は、向かって左:松之廊下で浅野内匠頭長矩[あさの-たくみのかみ-ながのり 1667-1701]に斬りつけられる上野介。右:吉良邸内の炭小屋(正しくは台所内の物置部屋だという説もある)で発見され、間十次郎に一番槍をつけられ武林唯七の大太刀を浴びて息絶えた上野介。中央:進物をもらって「しめしめ」な上野介(笑)。台詞を付けるなら、「さすが伊達殿(伊予国吉田藩主の伊達左京亮村豊[だて-さきょうのすけ-むらとよ]。浅野内匠頭の同僚)は行き届いておられる。それにひきかえ、あの浅野めは…」という感じ。ま、あくまでステロタイプ的なイメージということで。

★刃傷松之廊下★
 時は元禄十四ねーん!(♪ベベンベン)三月十四日、勅使接待役を務めていた播州赤穂藩五万石の藩主浅野内匠頭、江戸城内松之廊下で指導役の吉良上野介に刃傷、即日切腹――。

 そのとき浅野内匠頭を抱きとめた梶川与惣兵衛頼照[かじかわ-よそべえ-よりてる](旗本。江戸城留守居役)の記録によると、事件の日、所用で大廊下を通りかけた梶川は、茶坊主に吉良上野介を呼びに行かせたが彼は老中と用談中だったため、その場にいた浅野内匠頭と立ち話で用件を伝えた。その後しばらくして上野介が白書院から出てくるのが見えたので茶坊主に呼びに行かせて自分も歩いていき、打ち合わせをしていると、何者かわからぬが「この間の遺恨、覚えたるか!」と叫んで上野介の背後から斬りつけてきた。驚いてその者を見ると、なんと浅野内匠頭。「これは」と吉良が振り向いたところにもう一太刀(眉間に)。上野介がうつぶせに倒れたところに、内匠頭がさらに斬りかかったので、梶川与惣兵衛は浅野内匠頭に飛びついて押さえつけた……。
 梶川は55歳と当時としては初老の域に入っていたが、武芸に通じた大力の士であり、35歳の浅野を力まかせにねじ伏せてしまった。与惣兵衛は内匠頭の小サ刀(脇差)を鍔[つば]ごと押さえつけ、坊主の関久和がその手から刀をもぎ取った。

 目付らによって別室へ連れて行かれた浅野内匠頭は、「お上に対してはいささかの恨みごともないが、私の(私的な)遺恨があったので、前後を忘れて刃傷におよんでしまった」と供述した。
 一方、吉良上野介は、傷は浅かったものの、年齢(61歳)と御典医が止血できなかったこともあって軽いショック症状を起こしていた。しかし、急遽呼び出された外科医の栗崎道有がまず気付け薬を飲ませてから止血・傷口の縫合を施し、さらに軽い湯漬けの食事をとらせると正気を取り戻した。上野介は事情聴取に対し、「意趣を含まれる覚えはない。おおかた浅野は乱心したのであろう」と答えた。

 柳沢吉保を通して報告を受けた将軍綱吉は激怒。即刻、内匠頭は田村右京大夫にお預けののち切腹、手向かいしなかった上野介にはお咎め無し、と決定された。目付の多門伝八郎重共[おかど-でんはちろう-しげとも]らは、即刻切腹の沙汰は軽率すぎると異議を申し立てたが、柳沢が再び将軍に取り次ぐことは無かった。
 結局、内匠頭はその日のうちに田村邸の庭先で切腹して果てた。

★何が彼をそうさせたか★
 浅野内匠頭がなぜ刃傷に及んだか、の理由は実のところよくわかっていない。詳しい供述書があるというが、それが伝わっていないからである(意図的に隠された可能性高し)。↑上にあるように「井の中の鮒、鮒侍」と罵られたからというのは、もちろん『仮名手本忠臣蔵』の創作。吉良が梶川に「田舎者(=浅野)にものを尋ねてもわかりませんよ」と聞こえよがしに言ったから…というのは、『梶川筆記』に載せられていないので、また疑わしい。増上寺の畳替えやら長裃と大紋の話なども、ほとんどが作り話。知られているように、内匠頭はその十八年前にも勅使接待役を務めているのだから、儀礼の大筋を知らぬはずがない。

 最近の研究では事件の一刻(2時間)ほど前に、吉良が表玄関で浅野を面罵したという説がある。ただし、たとえ事実だったとしても、それは直接の引き金になったに過ぎず、「この間の遺恨」の中身は明らかにならない。それゆえ、これも古来より衆説おびただしい。
 まず最も一般的なのが賄賂説で、相役(院使接待役)の伊達左京亮が吉良に厚く賄[まいない]を贈ったのに対し、浅野内匠頭はそれを潔しとしなかったのでいぢめられて…というもの。これは早くから諸書に見え、“正史”の『徳川実記』もこれを載せている。
 上野介が内匠頭の奥方に言い寄ってふられたという横恋慕説(『仮名手本忠臣蔵』が元ネタ)や寵童説(浅野の男色相手である児小姓の一人の美少年を吉良が譲ってくれと言ったが、断られた)、書画や茶器に関する確執などという、いかにも小説的な説もあるが、戦後、三河吉良庄出身の尾崎士郎は、吉良家の領地である三河でも塩を作っていたが、上質の塩を産することで有名だった赤穂には及ばなかったので、浅野内匠頭に塩の製法を教えてくれと頼み断られたので…という塩田説を唱えた。しかし、赤穂塩と吉良の饗庭塩では最初から質量共に勝負にならない、という説が有力である。
 その他、傲慢な吉良と短気で人に屈することのできない浅野がぶつかったという性格説、内匠頭は痞[つかえ]の病(神経症的な気の病)というのを持病としていて事件当日の天候不順と前日からの疲れで感情を爆発させたという病気説などがある。

 江戸学の大家の三田村鳶魚[みたむら-えんぎょ]が支持し、最近の諸書で穏当なものとされているのが、浅野内匠頭が勅使接待の費用を節約しすぎて指導役である高家の吉良上野介と行き違いを生じたという予算説である。
 浅野内匠頭長矩は良く言えば節倹、悪く言えば吝嗇[りんしょく]であったという。当時、勅使接待の前後に大判一枚(またはそれに相当する小判十両)を指導役の高家(吉良上野介)に贈ることになっていた。この贈り物はその時代常識となっていた進物、付け届けの類であって、賄賂の範疇に入るものではなかった。しかし内匠頭はこれを終わってからだけで良いと言った。
 そして、老中から勅使饗応があまり華美にならぬようとの指導があったのを受け、元禄十年に伊藤出雲守が勅使接待を務めた際の予算1200両と十八年前に自ら務めた時の400両を参考として、予算を700両と決めてしまった。これは、貨幣改鋳によるインフレーションで十八年前とは貨幣価値が異なるのを考慮していない上に前年と比べてもダウンしている。
 これでは公家や朝廷と幕府との間を取り持つ高家の吉良上野介が承知するわけはなく、様々な行き違いを生じ、倨傲な吉良と短気な浅野という二人の性格的な問題も加わって、そして…というわけである。

 しかし、本を数冊読んだだけでも十指に余る説が紹介されていて、まさに「藪の中」を覗く思いがする。

★哀しき名君?★
 日本で『忠臣蔵』がウケないのは、三河吉良庄(現在の愛知県幡州郡吉良町)と米沢(上野介の長男が養子として入った上杉家のお膝元)だけだという。吉良町では当時から現在に至るまで吉良上野介義央は名君として慕われており、『忠臣蔵』に対して疑問が提出された戦後には、さらに再評価された。
 いわく、洪水に苦しむ領民たちのために一夜で「黄金堤」を築いた…、妻の富子の眼病回復祈願として「富好新田」を拓いた…、吉良庄に立ち寄ると赤毛の馬にまたがって領内を巡視し人々と親しげに語り合った…などである。吉良町には「赤馬」という郷土玩具があり、華蔵寺の墓の横の立て札には「義冬公 子 哀しき名君 高家 吉良上野介義央公」の文字が記されている。

 これに対して、吉良上野介に対する世間の評判は非常に厳しい。浅野内匠頭に対する直接の嫌がらせのエピソード以外でも、上野介から指導を受けたことのある大名が刃傷事件前の内匠頭に「吉良は傲慢だから辛抱するように」と忠告したという話がいくつかあるし(内匠頭自身が以前指導を受けたのだから吉良の性格は知っていた思うが…)、三年前にやはり勅使饗応役を務めた津和野藩主の亀井茲親[かめい-これちか]が怒って上野介を斬ろうと謀ったが家老が吉良に賄賂を贈って穏便に済ませたという話、そして吉良が親戚の津軽公の家で御馳走された際に「おかずは良いが、飯がまずい」と放言したという話…。

 どれも嘘臭いが、こんな話が作られるくらい、江戸城内の大名旗本連中にきらわれていた、少なくとも好かれてはいなかったことは確かではないだろうか。吉良家は足利家の庶流で、室町時代には「公方[くぼう]絶ゆれば吉良継ぐ、吉良絶ゆたれば今川継ぐ」と謳われたほどの名家であり、徳川家との縁も深い(系図を徳川家に貸したという話もある)。
 自然、今は小身の旗本なれども多くの大名よりも家柄は良い…との思いから頭も高くなるだろう。領内の温厚な顔とは対照的に、他の武士に対しては傲慢不遜の念を抱かせたことは想像に難くない。少なくとも謙譲の人というイメージは与えなかっただろう。

 また、池波正太郎は「自分の国は誰だってかわいがる。いまの政治家や実業家でも、悪いことをさんざんしている奴が、家に帰るといいパパであり夫である。自分の領地は可愛がらねば、自分の収入がなくなっちゃうんですから、当然のことです」と言う。「黄金堤」も吉良庄に都合の良いように作ったので、隣国に迷惑をかけたという話もある。どうやら、内にやさしく外に厳しいという人だったと言えるかもしれない。
 浅野側の赤穂では赤穂浅野家が断絶になったとき領民が餅をついて祝ったという話が伝えられていたり、現在でも大石内蔵助は神格化されているのに対して浅野内匠頭はほとんど忘れられているという事実、そして上野介の手当をした栗崎道有が傷の完治後にも往診を続け、赤穂浪士に斬られた上野介の首と胴体を縫い合わせ、さらには上野介と同じ寺に葬られたという事実を考え合わせると、さらに含蓄があるだろう。

★討ち入り、そして…★
 刃傷事件から一年九ヶ月後の元禄十五年十二月十四日深夜、大石内蔵助以下47人の赤穂浪士が江戸松坂町の吉良邸に乱入。戦闘の末、吉良上野介義央の首級を挙げ、泉岳寺の浅野内匠頭長矩の墓前に供えた。
 公儀(幕府)や吉良家・上杉家が討ち入りを予期していたかどうかは諸説分かれるが、たとえ予期していたとしても、上野介の胸中に浮かんだのは「まさか本当に来るとは…」という思いだったろう。

 実孫(上野介の長男である上杉綱憲の次男)であり養子として家督を継いでいた吉良左兵衛義周[きら-さひょうえ-よしちか(または“よしまさ”) 1686-1706]の運命は、さらに悲惨を極める。彼は討ち入りの際、自ら薙刀[なぎなた]をとって武林唯七らに立ち向かい、負傷して気絶するまで戦った。しかし、元禄十六年(1703)二月、赤穂浪士切腹の沙汰と同時に「当夜の振る舞いよろしからず(つまり父を守れず討ち死にもしなかったので!)」として領地没収の上、信州高島城の諏訪安芸守のもとにお預け、すなわち流罪となった。刃傷事件に対する公儀の片落ち裁定への世間の批判と赤穂義士賛美の声におもねったとしか思えない処分だった。
 配所ではカミソリを使うことを許されず、着替えも洗濯も当初は許可されず、火鉢こたつの類もない…という状況の中、実父上杉綱憲と養母(実の祖母)富子が相次いで没するという悲報が届き、元来病弱だった左兵衛義周は宝永三年(1706)年一月二十日、21歳で没した。

 かくして、足利以来の名門吉良の嫡流は絶えた。

★吉良の運命★
 赤穂四十七士の忠義が三世紀にわたって称揚されている一方で、吉良の名は黒い影に覆われてきた。日差しが強ければ強いほど影は濃くなるように、これは運命だろうか。(ちなみに、どちらかと言うと私も赤穂義士支持派。参考として明記)
 日本人の仰ぐ空に、これからも大石内蔵助を中心とした四十七星の星座が輝き続ける以上、吉良の魂は天に昇ることも許されないだろう。哀しいことである。


※参考書:
三田村鳶魚『横から見た赤穂義士』中公文庫/『歴史群像シリーズ57 元禄赤穂事件』学習研究社/池波正太郎 他『忠臣蔵と日本の仇討』中公文庫/神坂次郎『江戸を駆ける』中公文庫 ほか

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