「元禄十五年十二月十四日」
鳥居理右衛門さんは頭を割ったような性格です。 640*480  77.9KB

 柔よく剛を制し弱よく強を制するとは。 張良[ちょうりょう]に石公[せきこう]が伝へし秘法なり。 塩冶判官高定[えんやはんがんたかさだ]の家臣。 大星由良助[おおぼし-ゆらのすけ]是を守って。 既に一味の同志四十余騎 猟船に取り乗って。 [とま]ふかぶかと稲村が崎の油断を頼みにて。 岸の岩根に漕寄せて。 まづ一番に打上るは。 大星由良助義金[よしかね]
(『仮名手本忠臣蔵』第十一段)

 元禄十五年(1702)十二月十四日深夜(現在の言い方だと十五日早朝)、 大石内蔵助良雄を頭とする元赤穂浅野家家臣四十七名が吉良上野介義央の屋敷に討ち入り、 吉良家の家臣と戦闘の末、上野介の首級を挙げた。


 絵はもちろん、討ち入りの風景。 実際には雪は降っていなかったのだが、芝居のイメージで降らせてしまった。
 中央で刀を振るって吉良方の侍の頭を真っ二つにしているのは、 剛勇無双の堀部安兵衛武庸[ほりべ-やすびょうえ(やすべえ)-たけつね] やられているのは鳥井理右衛門。 四十七士の若手を苦しめていた鳥居を堀部安兵衛が引き受け頭を二つに割った、という話から発想した。 ただし、実際に彼らが戦ったのは屋内だったらしい。 どんな名刀でも頭蓋骨がこのように斬れるはずは無いし、 こんな刀の振り方では何も斬れないと思うが、そこは演出というヤツで。 安兵衛の構えは、戦前の阪神にいた景浦将のフォームから発想した(←誰も知らないって)。

 向かって右奥、池に架かった橋の上で二刀を構えているのは、 吉良方の山吉新八[やまよし-しんぱち] 彼は、赤穂方の近松勘六に深手を負わせたり、 取り囲まれて斬りつけられ失神しながらも再び起って戦うなど大活躍して生き残り、 上野介の養子(実孫)の左兵衛義周[さひょうえ-よしちか]が信州に流された際には彼に従って、 義周が亡くなるまで付き添った。 彼の活躍は、フィクションの世界ではなぜか清水一学のものになってしまっている。 二刀流なのはかえってフィクションから採ったもので、 実際の山吉は長脇差だけで戦った。

 左奥、屋敷の縁側に弓なりになっているのは、雨戸を外すための竹。 これは実際に用いられたわけではなく、『仮名手本忠臣蔵』で「丸竹に。 [つる]をかけたを雨戸の鴨居[かもい] 敷居にはさんで一時に。 ひいふう三つの拍子にてかけたる弦をてうど切れば。 鴨居はあがり敷居はさがり雨戸はづれてばたばたばた」というふうに登場したものである。 1999年度NHK大河ドラマ『元禄繚乱』にも登場していたが、 吉良邸が以前の呉服橋の時ほどの豪邸ではないにしろ、 元旗本の邸宅を改築した屋敷が竹で鴨居・敷居が歪むほど安普請かどうかは疑問だったりする。

★討ち入りということ
  最近は吉良上野介を擁護する意見が多い。 当時は付け届けするのは当然だったとか、 浅野内匠頭が勅使接待費用をケチったのが悪いとか、浅野がこらえ性がなかったから、など。 確かに吉良は芝居で描かれているような人物では無かったようだし、同情すべき面もある。 だが、“吉良の言い分”があるのなら“浅野の言い分”や“大石の言い分”もあるだろう。

 第一に、四十七士討ち入りに関しては様々な意見があるが、 自分が元禄時代の赤穂浅野家の家臣として生まれたとして、 「四十八人目の義士」になれたかどうか?を考えてみると良いと思う。 自分より絶対的に優れた人間がいる(いた)という事実は実は認めづらいことではあるが、反省が無ければ進歩はない。

 浅野と吉良のトラブルに関しては、まず、 進物を送るのは当然だった、などと当時の時代状況を言うのなら、 元禄時代について通常知られているものとはまた違った側面も知らなければならない。
 元禄というと、 かつて「昭和元禄」という流行語に用いられたように華麗で文化的な時代、というイメージがあるが、 戦国の気風がかすかに残っていたことも忘れるべきではない。 例えば元禄時代には芸術・文化が大いに進歩して庶民の着る衣服までもが華美になっていったが、 食生活の方面はいまだ質素なものだった。 この少し前まで江戸には飲食店というものはあまり無く、 ようやくこの時代になってソバ屋が大流行し始めた。 その他でも、せいぜい煮物と茶飯のセットが評判になったくらいである。 地方では、いまだ玄米が主流であるほどであった。
 戦国時代から江戸初期にかけては、 武士が人に恥をかかされたら相手をぶち殺すのが当然で、 自分の失敗で恥をかいたのなら切腹するか、 それができなければ逐電[ちくてん](逃亡)するのが常識であり、 元禄時代は丁度その最後の時期だった。 同時代資料を見ると、『元禄御畳奉行の日記』(神坂次郎・中公文庫)では、平和な尾張名古屋でも何件も刃傷事件や自殺・武士の逐電といった事件が起こっている。 侍たちはまだクラシカルな“武士の一分[いちぶん]”を守ることを誇りとしていた(当時“武士道”という言葉は無かった)。
 このような伝統的な武士の意識を持つ浅野内匠頭が、 学問好きな将軍綱吉が進めようとした文治主義と、それを承けた吉良上野介と衝突したと考えることもできる。

 浅野内匠頭が刃傷におよんだことに対しては、 短慮であったとか本当に乱心していたのでは?という説さえある。 しかしこれも当時の武士の意識を考えてみるべきだろう。 現代人より昔の人が優れていたわけではないと思うが、古人の方が遙かに“恥”を知っていたのは事実だ。 現代人のように人に恥をかかされたり自分の失敗で恥をかいたりしても ニヤニヤ笑ってごまかすだけでは済まさなかったのであり、その点、最近の人間とは異なる。
  三月十四日の当日に上野介が内匠頭を面罵したことはあったらしいし(決して「鮒[ふな]侍!」と言ったわけではないが)、 既に隠居の身であったが元江戸留守居役として手伝ったと思われる堀部弥兵衛金丸[ほりべ-やひょうえ(やへえ)-あきざね](堀部安兵衛の義父)は、 それまでにもしばしば悪口雑言があった、という意味の証言を残している。

 吉良側からすると、 要領の悪い田舎大名に説教したに過ぎないというつもりだったかもしれないし、 勅使接待の費用をケチっているように見える浅野内匠頭に対して良い感情は持てなかっただろう。 彼としては自らの任務を遂行しようとしただけだとも言える。
 しかしながら、 吉良上野介は領民や家族・友人などの身内に対してはやさしかったらしいが、 津軽信政公に招かれた宴席で「飯がまずい」と高言したりするなど、 外に対してはきつくあたる人物だったようだ。 刃傷事件の際には江戸の武士たちからは同情論はほとんど出なかったし、 幕府の使者としてしばしば訪れていた京都でも、ある公家の日記に「浅野内匠頭存念を達せず不便々々(不憫)」と書かれるくらいであった。
 権力によって自己肥大し、 畏怖と憎悪が裏返しの感情であるのに気付かなかったことに彼の不幸があった。 決して吉良は極悪人ではなかったし、 同情できる面もあるが、自ら不幸を引き寄せたことは否定できないだろう。 とにかく、 運の悪い人であり哀悼の意を表するのに異存は無いけれども、無罪放免ともいかないと思う。

 吉良上野介に甘く浅野内匠頭に厳しかった将軍綱吉の処断も、 勅使接待の日に事件を起こされたから、 という感情的なものだけではなく、武士の殺伐さを抑え“文”を以て治めようとした思想によるものだろう。 しかしそれは当時の一般の意識から乖離しており、 またあまりにも性急過ぎ、四十七士の吉良邸討ち入りを引き起こして自らの権威を揺るがせてしまった。  浅野・吉良・将軍と、 それぞれ決して悪意で行動したのではないのだが、 互いに衝突し合って生まれた悲劇であった。

 綱吉は、 彼がおこなった生類憐れみの令・通貨改鋳、そして刃傷の処断など、 それらに対する後世の評価は芳しくない。
 だが、 生類憐れみの令にしても、気まぐれとか怪僧に惑わされたから、というのではなく、 彼が本気で名君たらんとして出した法律だと思われる。 綱吉は知られているように学問好きで、丸谷才一によると中国古代の聖王を気取って、 天変地異があるのは自分のせいではないか、などと発言していたという。 これを丸谷は“芝居がかり”(芝居っ気)と表現しているが、 おそらく後世の史書にどう記されるかを非常に気にしていたのだろう。
 司馬遼太郎は、 日本人は歴史意識が薄く後世における評価を気にして行動したのは最後の将軍・徳川慶喜くらいだ、 というような意味のことを言っていたが、 綱吉もまた後世において名君という評価を得たいと願って行動したフシがある。
 とはいうものの、 それは裏目に出て、あまりにも世情からかけ離れた生類憐れみの令は例えば『世界の珍法律』 などという本があったら筆頭にあげられるような悪法となり、 彼は日本が続く限り暗君・愚君として嘲笑され、 TV時代劇の『水戸黄門』では悪役として描かれるようになってしまった。
 一連の赤穂事件に対しても、 刃傷事件の処分はあまりにも草卒だったため多くの異議を生じさせた。 だが、四十六士に武士として名誉ある切腹をさせる、 という最後の処断を下すことによって、 綱吉の評判はギリギリの所で保たれたように思われる。 もし打ち首にでもしていたら、 末代まで暴君の汚名を着せられることは免れ得なかっただろう。 こう考えてみると、赤穂事件は将軍綱吉にとっても一つの救いであった。

 これに対して四十七士の側も、 後世において自分たちがどう評価されるか意識していた雰囲気がある。 特に大石内蔵助は 自らが歴史にどう記されるか知り抜いて行動したようにも思われる。 『忠臣蔵』を嫌う人々は、このある種の臭みに反発を覚えるのかもしれない。


 この絵は、2000年1月に発売される Painter6の先行アップグレードサービスとして送られてきたPainter6英語版を初めて用いた。
 最初インストールしたときは不具合があったが、 MetaCreationsのサイトから6.01へのアップグレードファイル(here)をダウンロードしてインストールすると、ひとまず動作するようになった。 それでもPainter5よりもブラシの動きは重くなったように感じるが、 そうでもないという人もいて、この辺はマシンの性能によるのかもしれない。
  Painter6では従来のフローターに代わってPhotoshopに似たレイヤが採用された。 これはPainter5の透明レイヤと異なり、 どのブラシでも描画でき、消しゴムで消すことができて、 しかも選択範囲の適用も可能になったので大変便利になった。
 新しいブラシも増えたが、この作品ではまだほとんど用いていない。 ただ一つ、エアブラシがタブレットのスタイラスペンの傾きに反応したり 粒子のあらいものもあるなど非常にリアルになったので、流血の描写に用いた。 これはPhotoshopの逆光や雲模様フィルタと同様、 Painter6を使ったということが見え見えだが、最初にやった者勝ちである(笑)。

 レイヤなどの新機能は大変便利になった。 これでブラシの動きがもっと軽ければ完璧だと思うが、 この辺はまだintuosタブレットとの組み合わせなどで不具合が残っている可能性もあるので、 6.02以降のバージョンアップや日本語版に期待したい。


※参考書:
三田村鳶魚『横から見た赤穂義士』中公文庫/海音寺潮五郎『赤穂義士』文春文庫/『歴史群像シリーズ57 元禄赤穂事件』学習研究社 /池波正太郎 他『忠臣蔵と日本の仇討』中公文庫/丸谷才一『忠臣蔵とは何か』講談社文芸文庫 ほか

Painter 5.03J+Painter 6.01E

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