元陸軍大将・伯爵乃木希典(1849〜1912)。今ではどのくらいの人々が彼の名を読めるだろうか(答)。江戸時代に生まれ、「明治に殉じた」彼は明治人の代表であった。
嘉永二年、長州藩士の家に生まれた乃木は幼名の無人〔なきと〕を「泣き人」と呼ばれてからかわれたように、体があまり丈夫でなく武道よりも学問を好む少年であった。
そんな彼も明治に入って軍人になると、明治四年十一月二十三日、二十二歳の若さでいきなり陸軍少佐になり、明治八年、熊本鎮台歩兵第十四連隊長心得に任用された。乃木は、吉田松陰の叔父であり師匠であった玉木文之進の内弟子だったこともあり、長州閥の中でも筋目が良かったことも作用したらしい。しかしこれは彼にとって本当に幸せだったかどうか。
明治十年(1877)、西南戦争が始まる。ここから乃木希典の人生は悲愴の色を帯びることになる。二月二十二日夜、優勢な薩軍に押された乃木は連隊旗手を斬殺され連隊旗を奪われる。しばらくして乃木も負傷。乃木の一生を通じた運の無さが始まる。
「待罪書」を提出して処分を待ったが、罰せられることはなく次々と昇進を重ねる。明治十八年(1885)に少将に昇進し、三十七歳になってまもなくドイツ留学を命ぜられる。明治二十一年に帰国した乃木は以前とは別人のように“変身”していた。うってかわって堅物となり、おしゃれだった彼が、普段でも軍服を着用せよと主張した(もっとも、彼は軍服も特別仕立てのものを作らせた)。ドイツではプロシャ将校の威厳に心打たれたらしい。戦術・戦略を学ぶよりも、彼独特の教育論と精神面が留学の成果であった。
ガチガチの堅物となった乃木は、当然のように周囲となじめなくなり、休職・復職をくり返す。明治三十七年(1904)日露戦争が勃発してしばらくすると、中将となっていた乃木は第三軍司令官に任命された。第三軍の任務は旅順の攻略であった。後に旅順艦隊の無力化という大きな目的が付け加わったことで第三軍は是が非でも旅順を落とさねばならないようになる。
悲劇の前兆は既に出征前にあった。広島で乗船を待つ乃木の元に、長男の勝典戦死の報が届いたのだ。乃木が遼東半島に上陸したのは六月六日。同時に大将に昇進した。勝典が戦死した金州のあたりを過ぎた時、乃木は一編の漢詩を作った。
山川草木轉荒涼 山川草木 転〔うた〕た荒涼これを、中国の文人・学者・政治家であった郭沫若は「日本人が作った漢詩の最高傑作である」と言って絶賛した。
十里風腥新戰場 十里風腥〔なまぐさ〕し 新戦場
征馬不進人不語 征馬進まず 人語らず
金州城外立斜陽 金州城外 斜陽に立つ
爾靈山嶮豈難攀 爾霊山〔にれいさん〕嶮〔けん〕なれども 豈〔あ〕に攀〔よ〕ぢ難〔がた〕からんや私の試訳を示すと、「二〇三高地がいかに峻険だとしても、どうしてよじ登れないことがあろうか。功名を挙げんと欲する男子は、艱難を克服しようと決意する。砲弾と死体で二〇三高地の山容は改まった。万人皆、爾〔なんじ〕の霊が眠る山を仰ぎ見るだろう。」とでもなろうか(※漢詩に詳しい人が読んでいたら、御教示ください。自信無し)。漢詩を読む習慣が絶滅した現代の我々にも何かを感じさせる絶唱であろう。司馬遼太郎の評をそのまま引く。
男子功名期克艱 男子功名 艱〔かん〕に克〔か〕つを期す
鐵血覆山山形改 鉄血山を覆ひて 山形改まる
萬人齊仰爾靈山 万人斉〔ひと〕しく仰ぐ 爾霊山
「爾霊山」この詩を受け取った志賀重昂は、二〇三高地の日本側呼称として「爾霊山」を推した。
という、このことばのかがやきはどうであろう。この言葉を選び出した乃木の詩才はもはや神韻を帯びているといってよかった。二〇三〔にれいさん〕という標高をもって、爾〔なんじ〕の霊の山という。単に語呂をあわせているのではなく、この山で死んだ無数の霊――乃木自身の次男保典をふくめて――に乃木は鎮魂の想いをこめてこの三字で呼びかけ、しかも結〔けつ〕の句でふたたび爾ノ霊ノ山と呼ばわりつつ、詩の幕を閉じている。(司馬遼太郎『坂の上の雲(五)』文春文庫1978年)
一月五日、ステッセルの求めで日露の両司令官が会見することになった。既に降伏文書の調印が終わっていたのでステッセルが勝者に会う義務は無かったのだが、彼は騎士道的儀礼をおこなわんと欲した。これが後に佐佐木信綱作詞の小学校唱歌で知られるようになった「水師営の会見」である。この唱歌が名曲とされたのは、単に勝利の場面を唄ったというだけにはとどまらず、九番まである歌詞が経時的に会見の情景を描き、一編の叙事詩となっているからであろう。
この会見の前、アメリカ人映画技師が会見の様子を活動写真に収めたいと乞うた。副官を通じて慇懃に断らしめたが、なおも各国特派員が撮影の許可を求めたので、「敵将にとって後々まで恥が残るような写真を撮らせることは日本の武士道が許さない。しかし、会見後、我々が既に友人となって同列に並んだ所を一枚だけ許そう」といい、ステッセル以下に帯剣を許したまま肩を並べて写真に収まった。
上図左下の写真がそれである。後列左から、通訳の川上事務官、安原大尉、マルチェンコ中尉、松平大尉、渡辺少佐。中列左から、レイス参謀長、乃木司令官、ステッセル司令官、伊地知参謀長。前列左から、ニェヴェルセコ中尉、津野田大尉。
外国人記者たちにとって、このいきさつそのものが事件であり、彼らの感動をあらわした電文と写真は世界に配信された。
これにより、乃木とステッセル双方が救われたことになった。乃木は一躍英雄となり、大量の戦死者を出したにもかかわらず、何ら処分を受けなかった(伊地知参謀長は旅順要塞司令官の閑職にまわされた)。ステッセルは本国では余力を残して降伏したかどで軍法会議にかけられたものの、勝者の国民に嘲笑されることは免れた。もっとも、当時の日本は後世とは異なり、軍人も民衆も敵を侮り嘲る習慣を持っていなかった。
旅順を落とした第三軍は北方戦線に転ずる。電話線の破損で総司令部との通信が途絶するという不運に見舞われることもあった。
凱旋した乃木を民衆は歓呼の声で迎えた。「一人息子と泣いてはすまぬ、二人亡くしたかたもある」と唄われたように、二人の子を失った白髯の老将に大衆は共感を抱き、自らの代表者と見なしたのだった。
帰国した乃木は明治天皇から皇孫迪宮裕仁〔みちのみやひろひと〕親王(後の昭和天皇)の養育係と学習院長の職に就くよう命ぜられる。子を失った乃木に対する叡慮であったのだろう。学習院長となった乃木は皇族・華族の子弟たちに「質実剛健」を旨とした教育を徹底しておこない、多くの者は乃木を畏怖し、ある者たちは反発を覚えた。しかし、迪宮親王だけは彼になついた。
ただし、乃木は単なる枯れた堅物爺ィであったというだけではなかったようだ。例えば、知人の賀古鶴所とこんな
「還暦の翌年障子をつき破り」(乃木)
「春は昔に立ち回〔か〕へりけり」(賀古)
石原慎太郎の『太陽の季節』を数十年先取りしたような狂歌を詠み交わしている(ぎゃはは!)。
司馬遼太郎は、明治天皇と乃木との間は中世的な主従の関係であったという。大正元年九月十三日、明治天皇の葬列が宮城を出発する号砲にあわせて切腹。明治天皇に殉死した。乃木は自分一人で死ぬつもりであったが、子亡き今、独り身となる妻静子は従うことを願った。
遺書には西南戦争で軍旗を失い、今日ようやく死処を得たことを殉死の理由として記していた。このことは当時世界的に王室・貴族の権威が失われつつあった中で奇跡的な行為として伝えられた。日本の民衆はおおむね感動し、文化人たちは志賀直哉が日記に「馬鹿な奴だ」と記したように、賞賛するにしろ非難するにしろ大きな衝撃を受けた。夏目漱石は『こころ』のなかで“先生”に乃木のことを語らしめ、森鴎外は『興津弥五衛門の遺書』を著した。
乃木の葬儀の後、ロシアから匿名で「モスクワの一僧侶より」とだけ記された香が届いた。ステッセルが贈ったのだという。
大正8年(1918)、乃木神社が創立され、ついに神として祀られる。東京の乃木坂に、マッカーサーの配慮によって空襲を免れた旧乃木邸は今も静かにある。
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