「巌流島の決闘」
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我、事において後悔せず。 (宮本武蔵『独行道』)

 時は慶長十七年(1612)、所は下関沖の巌流島(船島)。四月二十一日巳の刻(午前十時)に、遅参せる武蔵ようやく現れたり。小次郎曰く
「武蔵、臆したか、策か?いずれにしても卑怯なるぞ。」
 武蔵は答えず。小次郎、“物干竿”の長刀を抜き放ち、鞘を海中に投げる。それを見た武蔵、すかさず小次郎の肺腑を貫く声で
「小次郎、敗れたり!」
と叫ぶ…。

 ……とまぁ、世に知られている巌流島の決闘の情景は以上のようなものである。しかしこれは、ほとんど吉川英治によって形作られたイメージだったりする。私が子供の時に読んだ宮本武蔵の伝記(どこの出版社のものだったかは失念)も、吉川版『宮本武蔵』のダイジェスト版のようなモノだった。吉川英治が大衆文学の最高傑作とも言われる『宮本武蔵』を著すまでは、剣豪の人気・知名度ランキングの中で宮本武蔵は一番ではなかったし、巌流島の決闘も明治大正生まれの人々が親しんだ「立川文庫」などでは“仇討ち”の話だったという。
 あえて言えば、吉川英治によって武蔵の名は不朽のものとなった。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』によって坂本龍馬が幕末の志士中で人気ナンバーワンになったように。
 第一、武蔵についても謎が多い。生国は作州宮本村と播磨の二説あり、生年もはっきりしない。母親もよくわかっていない。唯一確実な資料は武蔵の『五輪書』のみ…。
 しかし諸書に伝えられている武蔵の人間像は、彼が天才であったことを物語るかのように、奇人変人ぶりを伝えている。曰く、月代〔さかやき〕を剃らず総髪で、櫛を通したことがなかった…裸足で出歩いた…風呂に入らなかった…などである。彼の武道家としての姿もまた強烈だ。十三歳で初めて試合をおこなって相手を打ち倒した…(『五輪書』序文に書かれているので嘘ではないだろう)、「一乗寺下り松」の決闘で吉岡一族を皆殺しにした…、晩年細川家に客分として入ってから、半分戯れで闇討ちをしてきた料理人を腕の骨が折れるまで打ちすえた…等々。
 ことごとに好き嫌いの分かれる人物で、昭和初期には武蔵否定論を唱えた直木三十五と武蔵を弁護する菊池寛との間で論争がおこなわれ、それが吉川英治の『宮本武蔵』誕生のきっかけの一つになったという。武蔵をあまり良く描いていない文学作品が意外と多くあるようだし、司馬遼太郎にも例によって巷間のモノとは異なる武蔵像を描き出そうとした作品がある。

 上図の武蔵は、自画像だといわれている武蔵の肖像画――総髪でギョロ目、長身の爺ィが大小二刀を下げている図――から若き日の武蔵を想像して描いた。天才だったか奇人変人だったかは別として、かなりギラギラした濃いヤツだったと思うのだが、如何?

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