「ガッツ石松」
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幻の右。

 偉大なる元WBCライト級チャンピオン、ガッツ石松

 ガッツ石松こと鈴木有二は1949年、栃木県の農村に生まれた。中学卒業後に上京し、ヨネクラジムに入門。四回戦時代に四敗するなど、入門当初はさほど目だった存在ではなかったが、全日本新人王を獲得して頭角をあらわし始める。デビュー後、ジムの後援者から「石松」の名を与えられてリングネームを「鈴木石松」とし、コスチュームも縞の合羽に三度笠の股旅スタイルとする。当初、本人は恥ずかしくて嫌だったのだが、入場時に合羽をひるがえして三度笠を客席に投げ込むパフォーマンスが人気を呼んだ。
 その後、メキシコでイスマエル・ラグナ、パナマでロベルト・デュランに挑戦して大善戦したが、共にKOに退いた。やはり世界王者の器ではないと思われたが、門田恭一に勝って東洋ライト級王座についた頃から米倉会長の目も本人の意識も変わり始めた。
 WBCライト級チャンピオンのロドルフォ・ゴンサレスへの挑戦が決まり、当時ヨネクラジムで柴田国明(フェザー、ジュニアライトで三度世界王者)のトレーナーをしていたエディ・タウンゼントのコーチを受けるようになる。さらにリングネームを再び変え、「ガッツ石松」が誕生した。石松は風貌に反してクレバーで、試合の先を読んで勝てないと思うと「イヤ倒れ」をしてしまうので、粘り強いガッツを、との願いをこめた名前である。
 挑戦前の記者会見ではわずか五人の記者しか来なかったが、見事な試合運びで8回KO勝ち。ついに世界チャンピオンとなった。五回の防衛の後、プエルトリコでエステバン・デ・ヘススに王座を奪われる。その後、WBCジュニアウェルター級王者のセンサク・ムアンスリンに挑戦するがKO負け。さらに一試合を戦って判定を失うとグローブを置いた。その後芸能界に転じた後の活躍は周知の通りである。

 ガッツ石松というとコミカルなイメージが先行するが、いったいどれだけの人が彼の偉大さを知っているだろうか。私も彼の現役時代に生で観たことがあるわけではなく、ビデオ観戦のみだが、その強さは充分に感じ取ることができた。
 なんといっても、ジュニア階級ではない「ライト級」という階級で王座についたことだけでも日本ボクシング史に残るだろう。ヘビー、ミドル、ウェルター、そしてこのライト級のように、歴史が古く、選手層も厚い階級は、伝統的に海外においては新設のジュニアクラスに比べて一段上の評価を受ける。こういったことには日本のスポーツ・ジャーナリズムは口を閉ざしているのだ。
 さらに、彼のファイティングスタイルは日本選手としては異色のものである。彼の風貌から、猪突猛進形のファイタータイプであったかのようなイメージを抱いている人が多いと思うが、実は正反対。フットワークはバックステップを踏み、相手と距離をとろうとする。そして、これが日本人選手としては異例中の異例なのだが、体重を後ろ足にかけていた。距離をとり、相手が入ってくるところにカウンターを合わせる。相手の勢いに加えて後ろ足にかけていた体重を拳に乗せるのだから、威力は大変なものとなる。さらに、相手は前に出てこようとしているので、ショートで放たれるカウンターパンチをよけられない。これがあの「幻の右」である。
 彼の対戦相手の質も忘れてはならない。二度の挑戦でライト級の名王者相手に善戦し、王座についてからの防衛戦では中南米とヨーロッパ(スコットランドの元ライト級の名王者、ケン・ブキャナン。ロベルト・デュランにタイトルを奪われた)の強豪を相手にした。ゆえに、中南米では今でも「ススーキ」(スペイン語ではZは濁らない)の名で知られている(柴田国明も有名らしい)。昨今の軽量級世界タイトルマッチが実質的に東洋タイトルマッチに等しくなっている場合が多いのとは全く異なる。世界的に選手層の厚い中量級ゆえである。
 これらが、プロボクサーとしてのキャリアを持ち、裏社会からもボクシングを見つめてきた安部譲二が高くガッツ石松を評価する所以〔ゆえん〕である。
 芸能界に転向後、しばらくはコミカルな役ばかりあてがわれていたが、『おしん』に出演して橋田寿賀子の評価を受けたのをきっかけとして本格的俳優の道を歩み始める。その後映画『ブラック・レイン』にも出演した。近年政界進出を企てて選挙に落選したが、五年、十年、二十年後にはガッツの時代が来る!かもしれない。

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