【土屋俊…書誌情報とノート】
■ このページについて.
■ コンテンツ.
■ 《土屋俊 つちや・しゅん》.
■ 凡例.
◇ どうやって意味をとらえるか,『言語』(1979,vol.8:no.10,大修館書店)
◇ 言語行為論の展開──「間接的言語行為」という話題をめぐって,『言語』(1980, vol.9:no.12,大修館書店)
〔みごとな案内・レビュー.〕
◇ 語用論の論理的研究について,『言語』(1980, vol.9:no.12,大修館書店)
◇ 言語行為における「意図」の問題,『理想』(1983-1月号,No.596,理想社)
■ 『心の科学は可能か』(認知科学選書7,東京大学出版会.⇒bk1)
◇ 動詞は名詞とどこが違うのか──名前としての動詞,『言語』(1989,vol.18:No.9,大修館書店)
◇ 記号と情報,『新岩波講座 哲学3 記号・論理・メタファー』(1986,岩波書店)
◇ 情報の流れと言語の理解,『現代思想』(1986-2月号,青土社)
◇ 人間に関するチョムスキーの誤解,『言語』(1986,vol.15:no.12,大修館書店)
〔雑ながらノートをつくりました.〕
◇ なぜ意味論はいまおもしろいか,『言語』(1987,vol.16:no.13,大修館書店)
◇ 中川裕志+土屋俊「信念をもつロボット」『現代思想』(1989,vol.17:no.6,青土社)〔※信念・知識・意図の形式化についてのお話.さすがにいまではかなりの部分が教科書で整理されてるけど.〕
◇ 土屋俊×廣松渉「知性をもつハードウェア──認識から行為へ」,『現代思想』(1990-3月号,Vol.18-No.3,青土社)
◇ 土屋俊・白井賢一郎・鈴木浩之・川森雅仁・今仁生美「日本語の意味論を求めて」(大修館書店『言語』連載,全12回,※今仁さんの執筆は第7回以降)
〔状況意味論の方法による,日本語意味論の試み.すばらしい.〕
└──@ 「が」は「格」助詞か(1990,vol.19:no.1)
└──A いくつの「が」があるか(1990,vol.19:no.2)
└──B 「が」と認知(1990,vol.19:no.3)
└──C 日本語に疑問文はない(1990,vol.19:no.4)
└──D 選択・疑問・詠嘆・存在の「か」(1990,vol.19:no.5)
└──E 「あっ,そうか」の意味論(1990,vol.19:no.6)
└──F 日本語「代名詞」事情(1990,vol.19:no.7)
└──G 「誰」とは誰か(1990,vol.19:no.8)
└──H 犬とDOG(1990,vol.19:no.9)
└──I 犬を数える(1990,vol.19:no.10)
└──J 犬は出来事か?(1990,vol.19:no.11)
└──K 束縛と統率からの自由(1990,vol.19:no.12)
◇ 「約束破りの倫理と論理〔約束学〕」(青土社『現代思想』連載)
◇ 言語学は認知革命を生き延びるか,『言語』(1990,vol.19:no.1,大修館書店)
◇ 語用論から認知科学へ──言語学の新しい方向を探る,『言語』(1991,vol.20:no.10,大修館書店)
◇ 言語行為のなかの指示,『ウィトゲンシュタイン以後』(東京大学出版会,1991.⇒bk1)
◇ A Strictly Incrementl Approach to Japanese Grammar, in J.Barwise et al. (eds.) Situation Theory and Its Applications. Vol.2 Stanford University. 〔※鈴木浩之・土屋俊の共著.文ではなくて「語の発話のシークェンス」を解析し意味を与える.〕
◇ 土屋俊×松村一登「言語学のあり方を問う」(大修館書店『言語』連載,全6回)
〔生成文法批判をふくむ,言語学業界への注文.〕
└──@土屋「松村一登氏への質問状 (1)」(1992-9月号,vol.21:no.10)
└──A松村「土屋俊氏の批判に答える (1)」(1992-10月号,vol.21:no.11)
└──B土屋「松村一登氏への質問状 (2)」(1992-11月号,vol.21:no.12)
└──C松村「土屋俊氏の批判に答える (2)」(1992-12月号,vol.21:no.13)
└──D土屋「松村一登氏への質問状 (3)」(1993-1月号,vol.21:no.1)
└──E松村「土屋俊氏の批判に答える (3)」(1993-2月号,vol.21:no.2)
◇ 品詞をめぐる言語学と哲学との戦い,『言語』(1993,vol.22:no.10,大修館書店)〔※品詞は単語を分類しない.《品詞の区別は言語外との関係に基づく外在的区別であるといえる.重要なのは一つ一つの単語であり,それらが(恣意的に)どのように世界とかかわっているかが「品詞分類」によって示されるのである》〕
◇ 日本における分析哲学の現状,終焉あるいは将来,『理想』(1994,No.654)
◇ 電子化された世界の言語問題,『言語』(1994,vol.23:no.5,大修館書店) 〔※文字コードにまつわるお話.〕
◇ 「ウィトゲンシュタイン」再入門(大修館書店『言語』連載・全6回)
└──@「語用論」と「意味の使用理論」(1994, vol.23:no.7)
└──A漸次発展的言語観(1994, vol.23:no.8)
└──B規則への懐疑(1994, vol.23:no.9)
└──C心と言葉(1994, vol.23:no.10)
└──D外在的な心の哲学の構想(1994, vol.23:no.11)
└──Eこれから読む人のために(1994, vol.23:no.12)
◇ 文から語へ,『言語』(1996, vol.25:no.11,大修館書店)
〔「文」を基本的単位として研究する立場からの離脱.〕
◇ ゲームの一手としての語,『言語』(1999, vol.28:no.12,大修館書店)
〔「文」を基本的単位として研究する立場からの離脱・そのA.「ゲーム」を導入.〕
◇ 言語の開かれた概念を求めて,『言語』(1996, vol.25:no.4,大修館書店)
◇ 変項と代名詞,『現代思想』〔1988-7月号〕
◇ ゲーデルから学んではならないもの,『現代思想』〔1989年-12月号〕
◇ モダリティの議論のために,『言語』(1999-6月号,vol.28:no.6,大修館書店)
〔言語学の一部で流通する「モダリティ=心的態度」論を批判.なぜそんな議論がでてきたのか,という過程についても仮説を示す.〕
◇ 信念報告の意味論から信念の意味論へ,『現代思想』〔号数失念〕
〔クリミンズ&ペリー「王子様と電話ボックス」へのガイダンス──のハズが,飯田隆さんらへのあてつけを含めてちょっと逸脱ぎみ.「信念文の意味論」は不毛なプログラムだった,むしろ信念認知のメカニズムをあきらかにするのが大事,という話です.うーむ.〕
◇ 語用論,『別冊国文学』(2000-11月号)
〔※統語論/意味論/語用論という3区分を無視した議論が国語学では主流だという診断のうえで,日本語の語用論的現象を提示.〕
◇ 言語と認知の哲学的諸問題の概略と今後,辻幸夫=編『ことばの認知科学事典』(2001,大修館書店.→bk1)
◇ 意味をどう捉えるか,『言語』(2002-6月号,vol.31:n.7,大修館書店.)
〔※辻幸夫さんによるインタヴュー,リレー対談企画「認知科学との対話」の6回目.〕
◇ 文の意味論が成立するためのいくつかの前提について,「若手哲学者フォーラム・2003年度テーマレクチャー」
url: http://www.wakate-forum.ath.cx/data/2003/resume3.html
■ 土屋さんは,「モダリティの議論のために」(1999)で,日本語研究の分野でとくに普及している「モダリティ=主観的態度」説を批判しています.
▼ その批判の構成は,おおよそ,つぎのとおり:
▼ さらに,このように書いています:
しかし,ここで気をつけなければならないのは,連想の妥当性にはつねに限度があるということである.たとえば,たしかに日本語の文末表現の分析として,命題という客観的な事態の表現に対する話し手の態度,とくに主観的な態度を示すという比較的受け入れられやすい分析が,手を変え品を変え提出されてきている.この分析が正しいとしても,また,「信じる」という態度が主観的態度であり,その分析に様相についての論理的分析の手法が使えるとしても,そこから,モダリティとは主観性の表現であるとか,話し手の態度の表現であるという結論はでてこない. (p.90)
▼ 以上をふまえての,土屋さんの提案:過剰な連想を禁欲して,むしろ,命題という概念についてこそ先に論じるべきだ.たとえば,「真偽を言えるもの」として命題を定義するのが妥当なはずなのに,ある種の論者たちは,「…であること」に言い換えうるものとして定義してしまった.これもまた,問題の原点になっていないか.検討したほうがいい.
■ 土屋俊さんは,チョムスキーさんが人間に関して,誤解をしているといっている.その誤解は,
▼ まず,(a)・(b) はそれぞれ次のように要約される.
(a) 「生物学的還元主義」:
人間のすべての能力は,人間の生物学的機構によって決定されている.
とくに,チョムスキーの場合,関心を持つ人間の能力は人間の知的な能力であるので,人間の知的能力の内容と限界が人間の神経組織の構造によって決定されているという立場を指す. (p.157)
(b) 「能力内在主義」:
《人間はさまざまな能力を内在させており,それを行使し,発現させることによって生活している》(Ibid.).あるひとが,たんに人間であることのみによって,あることをなしうるとき,それが人間一般に内在する能力によるものだと,この立場は考える.この立場からすると,言語を使えるのは,(現在までに知られているかぎりでは)人間のみだとすれば,人間に固有なある言語能力が各人に内在していることになる.
▼ (b) 「能力内在主義」を,(a) 「生物学的還元主義」は前提する(したがって,(b) を斥けながら (a) だけを採ることは,できない).
▼ これら (a)・(b) のもとで,人間の科学としての言語学は,《抽象的記号列の集合の 有限の規則による特徴づけ科学》(p.159) として成立した.それは,つぎのような理路をへている.まず,一方で,記号列を生成する形式文法 formal grammar の研究があり,他方で「文」とよびうる単位の記号列を生成するにはどのようなレベルの生成力がじゅうぶんかという研究があった.形式文法は,それじたいでは,自然言語の理論にはならない.両者がむすびつくのは,つぎの前提のもとにおいてだった.
○ 第一に,自然言語を文のあつまりとして定義した.そして,ある記号列が文かどうかは,ある抽象的な水準(構造)で決定される.たとえば,記号列 "colorless green ideas sleep furiously" は,言っていることがむちゃくちゃだけれども,文であることにかわりはない.そして,終端記号をとりかえると,たとえば "beautiful green birds sleep quietly" という内容のまともな文もえられる.だから,文法性の判断は,終端記号の要素ではなく,ヨリ抽象的な水準でなされていることになる.つまり,人間の言語は,ある《抽象的な表示のレベルをもつ非時間的な対象》(p.159) だと考えられる.
○ 第二に,このように抽象的な対象と具体的な人間とを,「能力内在主義」がむすびつけた.人間には,あるあたえられた記号列が文であるかどうかを判断する「形式的な直観」があるとされる.この直観は,人間に固有な能力による.
▼ ここにおいて,人間の科学としての言語学は《抽象的記号列の集合の 有限の規則による特徴づけ科学》(p.159) となる.そして,土屋さんの言い分だと,この「能力内在主義」は《奇妙な考え方》(p.160) だ.理由は2つある.
(これら2点をまとめて,土屋さんは,《現実からの離反》(p.161) とよぶ.)
▼ 「能力内在主義」は,その能力がどのようにして実際に発現するのかを,それじたいでは説明しない.だとしたら,その発現のプロセスをになう理論と組み合わさればいいように思えるけれど,土屋さんによると《能力内在主義はそれをそもそも拒絶している》(p.161).とくにこのあたり,ぼくにはよくわかりません.
したがって,能力内在主義の立場から見るならば,現実の言語使用は,本来ある能力の欠如的な現れであるということになる.かくして,チョムスキーは,言語の理論としてその発現の形を説明するために,さらに言語学と人間の科学のメタ理論として「生物学的還元主義」を付け加えなければならなかった. 〔※強調引用者〕
▼ 人間の生物学的特徴と,言語という機能上の特徴・能力が,生物学的還元主義によって対応させられる.ところで,言語の抽象的レベルの表示(表象representation) が,神経の構造と一対一で対応すると考えることはできない.離散的な言語と連続的な《電気的量・物質の性質》は,一対一で対応しえない[*1].だとすると,言語能力と生物学的人間の対応関係は,ただ「生物学的還元主義」の《確信と信仰》にほかならない.《なぜならば,このような議論では,人間以外のなんらかの対象〔たとえば AI 〕が人間と同様の言語使用の能力を持つことを論理的に排除できないから》だ.
[*1]〔2003-08-26追記〕ただ,ある連続値をとる入力が閾値をこえたら出力1,こえなかったら出力0,というようなことはできたりするのかも….
▼ 土屋さんの結論.第一に,チョムスキーさんの人間観は《予想外に伝統的なもの》だ(でも,これは「誤解」なのかな).精神と身体を区別し,その精神の機能を生物学的構造によって制約されたものと考える.だから,人間の科学は,最終的には身体としての人間を解明すべきものとなる.第二に,言語使用の能力を内在化させたために,言語によるコミュニケーションができている条件を説明できなくなってしまう.
■ 土屋俊さんは,なぜだか文章のなかに揶揄・罵声・いやみ・不満のたぐいがぽろぽろ混ざることの多い人のようで,なんとなくさらってみただけでも,けっこうな数がみつかります──ならべてみると,むしろちょっとおもしろいくらいに.ここでは,その一端を抜き出しています.おひまがあったら,お読みください.
哲学者についての入門を読んでいて奇妙に思われるのは,いつでも,すぐにその哲学者の論敵が紹介され批判されることである.その哲学者本人についての紹介は,ずっとあとになって出てきて,そのころには論敵の批判に飽きて,その入門書にも飽きてしまっているということが多い.いったいなんで哲学者たちはこんなに非生産的な議論に時間を費やしているのであろうか.
〔「「ウィトゲンシュタイン」再入門@「語用論」と「意味の使用理論」」, p.103〕
われわれにとって,言語学者といえば多くの場合,言葉も知らず役に立たない理論家か,外国語をそれほど上手に使えない外国語教師か,国語の下手な日本語学者である.
〔「言語学のあり方を問う@ 松村一登氏への質問状 (1)」p.13〕
しかも最近,言語学者は,「コンテクスト」であるとか「認知」であるという言葉を恥ずかしげもなく使う.しかし,もしラングのようなものを言語学の真の対象であると考えるのならば,そのときには,言語学にコンテクストとか語用論のようなものは含まれないはずである.使用されていない言語には,すくなくとも非言語的コンテクストだけでなく使用も当然存在しないからである.言語学者はこれほど単純な論理的関係も理解できていないらしい.
〔「言語学のあり方を問う@ 松村一登氏への質問状 (1)」p.16〕
問題は,このような複雑な構造を持つ普遍性と個別性の構造について国語学者,日本語学者を含めてまったく無自覚であるということである.すでに松村氏の認められたように,所詮は語学好きの文系人間に科学者としての見識を求めることはないものねだりであるにせよ,自分の研究がそもそも言語研究のどの位相に位置するかということにまったく無関心であるというのはどういうつもりなのであろうか.言語学を知的活動全体のなかに位置づけるという意識がないからこそ,上述したような自分勝手な問題関心によるばらばらな研究活動が可能となるにすぎないのではなかろうか.
〔「言語学のあり方を問うB 「松村一登氏への質問状 (2)」p.89〕
日本語の統語論にかんする議論がしばしば,意味論や語用論を巻き込むものとなっているのは,かならずしも概念的蒙昧のみのゆえではない.
〔「語用論」p.111;イタリック引用者〕※「のみ」ではないって…つまり蒙昧だってことですわね.