「勝負駆け−波多野憲二優勝記念」



 「勝負駆け」という言葉を知っていますか?
 ここ一番で、どうしても負けられないときに、本気になって走ることを言います。
 気迫に満ちた、持てる技術の全てをぶつけてくる勝負駆けは、めったに見る
ことができません。
 でも、勝負駆けは、なにも他の人に勝つためだけにはしないものです。
 時には、自分に対して勝負駆けすることだって、あるのです。
 
 それは最終レースが終わった後のできごとでした。
 ファンサービスのペアボートを出すには、少し波が高かったため、最終レースの
終わった水面は静かでした。
 もちろん、スタンドのお客さんも、ぞろぞろと帰っていきます。
 夕暮れと言うよりは、夜の気配が空を覆いはじめた頃、一艇のボートが音もなく
ピットに降ろされました。
 なんの変哲もないように見えるボートでしたが、ボートを取り囲む数人の
技術者は、最後のチェックに余念がありませんでした。
 やがて、カポックを身につけた女性が、ボートの前に現れました。

 ボートをじっと見ている女性は、つい最近まで競艇選手でした。
 来る日も来る日も、あちこちの競走場でボートに乗っていました。
 がしかし、一度も勝つことができませんでした。
 二着に入ることはあっても、勝てないのです。
 勝率はそこそこでも、複勝率が悪過ぎては、本人がどう思っても、引退せざるを
得ませんでした。
 ひっそりと姿を消した競艇選手は、研究員としてボートに取り組んできました。
 
 敬礼をすると、女性はボートに乗り込みました。
 エンジンを始動させると、勝負の中に身を置いて走っていた感覚が戻って来る
のが自分でもわかりました。
 空と水面の境がないくらい、薄暗く見える中を、オレンジブイに向かって走り
出しました。

 この様子をスタンドの上から眺めている競艇選手が数人いました。
 「さて、見せてもらおうか」
 固唾を飲みながら、優出常連の強豪たちは見守りました。

 大時計の針が回りはじめると、おもむろに女性はスロットルを握りました。
 全開にしたモーターはうなりをあげて、ボートを走らせます。
 センターポールを通過したとき、ピットの方にいる人たち、スタンドで見ている
選手たちは、一様に驚きました。
 フライングに近い、実戦さながらのスタートだったからです。
 さらに驚かされたのは、1マークでのターンでした。
 全速でターンをしても、すべるようにボートは走り、決して跳ねないからです。
 おまけに引き波は、しぶきとならずに、細かく、きれいな形を作って広がって
います。
 ピットの方では、技術者たちがデータを取りながら、うれしそうに笑っています。
 女性は、2マークもきれいに全速で回ると、スタンド前で、小さくこぶしを
握り締めました。

 スタンドで見ていた選手たちは、ただただ呆然としていました。
 ひとりがぽつんと言いました。
 「勝負駆けだ」

 ボートの試運転を終えた女性は、ピットに戻ると、抱きかかえられるようにして
車椅子に乗ると、競艇場を後にしました。

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