(平成13年5月第70号4〜5p)

 海岸がすぐ側で潮の香りが漂う北九州市若松区の自宅を訪ねると、ベッドに横たわって向坊弘道さんは待っていた。自立生活の話題となるとよく耳にしていたこの人物に会うのをとても楽しみにしていた。待ち焦がれた恋人の気分だ。

事故で体が麻痺

 東京大学に進学した向坊さん。しかし、二十歳の夏休み、人生が百八十度変わる出来事があった。東京から車で帰宅途中、自宅まであと五百メートルのところで転落事故。首を骨折し、頸椎損傷となった。首から下が麻痺して、全く動かせない。膀胱炎も発症し、身を焼かれるような高熱と痙攣発作に苦しんだ。

 頸椎損傷になった人には共通点があると言う。「死んだ方が良かった」。彼も幾度となくそんな考えが頭をよぎって離れなかった。これまでの何一つ不自由なかった生活が一転したのだ。苦しみ、絶望し、まさに「転落の一途をたどった」。

 「お前は生きているだけで充分だ。お前はお前であるだけで、俺達には充分だ。どうか俺達のために一日でも長生きしておくれ。お前の体が動くか動かないか、それは俺達には大きな問題ではない。生きるんだ。生き続けるんだ」。父親のこのような気持ちですら、彼には残酷に聞こえた。ただただ両親に対する申し訳なさが募るばかりだったが、それ以来、「殺してくれ」と頼めなくなった。

 これ以上の快復が見込めないと三年で病院を退院したものの、車椅子にも乗ろうとせず、寝たままの生活が続いた。

 そんなある日、近所の寺の住職が会いに来て、仏教の本を置いていった。もともと宗教や哲学に興味があったが、この本との出会いが彼のすさんでいた心に光をもたらした。「どんな命も平等であり、同じように大切なもの」。そんな仏の教えが、「周りに迷惑しかかけることができない私は、死が相応しい」と思い込んでいた自分の浅はかさに気づかせる。そして、車椅子にも乗り始めた。これは事故から六年後のことである。

自立生活三十年

 向坊さん宅には毎朝九時から、個人的に契約しているヘルパーが訪れ、身体の世話をしてくれる。

 一人暮らしを始めてもう三十年になる。ケガをしてから家族に迷惑ばかりをかけ、「偉そうなことを言えない」と一念発起。自分用に改造した住宅を建て、自立生活が始まった。

 当初は収入もなく、「今は(介護料)を払えないが、いずれ払いますから」とヘルパーにお願いした。

 肩の力でかろうじて腕を動かせるが、指先は全く動かせない。食事や排泄など日常生活のすべてで介助が必要だ。ベッドから浴室やトイレまでリフトを取り付けるなど工夫もある。

 夕方になれば、尿器を当てたまま、ヘルパーは帰る。彼は夜間、一人で過ごしているのだ。床ずれも多くあり、本来は体位交換も必要なのだが、「夜間も人を雇うのは費用的に厳しい」とエアマットを使用し何とかしのいでいる。

 しかし、先日はこんなアクシデントも。夜、痙攣発作を起こし、ベッドから転がり落ちてしまったのだ。「いよいよ死ぬな」とあきらめかけたところへ、偶然にも親戚から電話がかかってきた。自宅の電話は音声応答が可能のため、ベルが鳴れば「ハイ」と応えるだけで通話ができる。約一時間後に駆けつけてくれ、まさに九死に一生を得た思いだ。

 一人暮らしは不便なことも多い。それでも、「病院や施設はもっと自由が制限されることを考えれば、今の生活に満足している」と話す。「良い介助者に恵まれたことが大きな助けになっている」。

パワーあふれる活動

 病院を退院した後、「飯の種に真っ先に始めた」のが学習塾。自宅に少人数の生徒を集めた。今でも「月謝目当てより、お礼のつもり」で知り合いの子に電話による指導をしている。

 その後も、父親名義の土地を駐車場に変え管理をしたり。現在では、貸しビル業の向洋興産株式会社の社長として働き、生計を営んでいる。体調が良いときは仕事現場へ赴き、従業員に指示を出す。

 さらに彼のあふれるパワーは国内だけではおさまりきれない。グリーンライフ研究所の代表も務め、福祉事業にも力を注ぎ、仏教研究を基礎に福祉・環境・国際をテーマに活動している。海外数カ所にも活動拠点を設け、フィリピンには「日本人身障者の家」などを運営。これまでフィリピンやネパール、タイなどアジアの貧しい障害者に日本の中古車椅子を寄付し、その台数は四百を超す。まさに世界を股にかけた活躍だ。

 他にも、頸椎損傷障害者の機関紙の発行や本の執筆などマルチで精力的な活動を行っている。

夢は広がるばかり

 「障害者だから、行政がしてくれるべきという安易な考えではダメ。それを期待してじっとしていれば肩すかしを食う。自分達で変えていかなければ」と話す向坊さん。そこには、苦難を乗り越え、自ら道を切り開いた男≠フ強さを感じた。

 「これからは多様性の時代。それぞれが自分でやり方を選んで、チャレンジしていくことが大切。自分にできることで社会にお返ししていくという気持ちが大切だ」。

 これからの目標として、福祉事業の充実をあげる。今後はタイの障害者にスロープの提供や、フィリピンと同じような施設の建設も考えている。夢はますます広がるばかりだ。

 向坊弘道さんは六十二歳。「バリバリの活動家」というイメージがあり、会ってみて、そして、年齢を聞いて少々驚いたというのが正直なところ。しかし、話し始めると途端に活動家の顔つきに変わった。「障害があるから何もできないと考えたり、あきらめる必要はない。チャンスはいずれ来る」。彼が語ると説得力があり、その気にさせられる。

亜流魔次郎

物価、人件費の安いフィリピンで
日本人障害者が自立達成

 フィリピンの首都マニラ近郊とルセナ市に「日本人身障者の家」という施設を十八年前に建てた向坊さん。ここでは現地でヘルパーを雇い、日本の障害者が生活している。

 もともと頸椎損傷の人は体温調整が難しいため、日本の寒い冬はつらく、暖かいフィリピンで過ごしたいと考えていたことをきっかけに開設した。日本の寒い時期だけオープンしているが、過去三十人前後の障害者が利用している。利用料は一日千七百円。

 気候だけでフィリピンを選んだ訳ではない。その物価と人件費の安さに注目した。障害年金等に限られ収入の少ない障害者が日本でヘルパーを雇って自立生活するのは難しいが、フィリピンならば月六万もあれば十分可能だ。

 「施設はあくまで訓練所」という位置づけで、ここで現地の生活に慣れ、生活の基盤を作り、一軒家を購入して生活する障害者は七、八人に上ると言う。ちなみに住宅は、改造費を含めても百万〜二百万円で購入できる。

 中には、現地のヘルパーと愛が芽生え結婚した人も。以前、七病棟に入院していた人も二人ほど、フィリピンでしばらく過ごし、日本へ奥さんを連れて帰って、幸せな生活を送っている。

 七病棟の久保山洋児さんや添島克彦さんもこの施設に滞在したことがあり、「暖かくて過ごしやすい。物価も安いし、フィリピンで生活するのも選択肢の一つ」と話す。ただ、言葉が通じないと用事を頼むのも難しいため、慣れるまでは介助者を連れていった方が良いとのこと。

 向坊さんは、今後、同じような施設をタイに建設することを考えている。


「身障者の家」の前で(右が久保山さん)