〈釣り人よシンシたれ!〉
●釣り人よシンシたれ!
〈北海道の自然を真摯に考え行動し、紳士的にルールを守って釣りをしよう!〉
(10.16/09)
昔、小学生のころ、親父に釣れられてアユ釣りに行ったことをよく思い出す。
私が仙台に住んでいたころのことだ。今からもう40年以上も前になる。
それはともかく、それは釣りと呼べるようなシロモノではなかった。
殺戮と捕獲と言うべき作業だった。
私の脳裏にはその記憶が強烈に焼き付いているのだ。
アユは秋になると産卵のため大挙して川を下るが、親父はそれを狙って、碇針(ルアーの3本フックのような形の針で凄く鋭い)を10個くらいも結び付けた恐るべき仕掛けを竿にセットし、下ってくるアユの大群の中に振り込んでは引き回した。
ほんのわずかの時間でおそらく数百匹のアユを釣った。
いや、引っ掛けた。
アユは幼魚のときは別として成長すると川底の石に付いたコケを食べるようになる。
だから普通のアユ釣りでは餌を使わないで、友釣りという釣り方をする。
竿の先の糸の先の針に生きたアユを引っ掛けておき、そのアユの周辺には碇針等の引っ掛け針を何本か垂らしておく。それをオトリアユというのだが、そのオトリアユごと川の流れに竿で振り入れるのである。
アユは餌のコケを守るため個別に縄張りを持っている。そこにわざとオトリアユを泳がせてやると、その縄張りを仕切るアユが怒ってオトリアユに体当たりしてくる。
するとオトリアユの周辺に何本かぶら下がっている針に引っ掛かってしまい、哀れ釣り人に釣り上げられてしまうという寸法だ。
餌で釣れないならオトリアユをどうやって用意するのかというと、アユ釣りで有名な川の釣り場近くではオトリアユを売っているのでそれを買う。
買うのがイヤな人や売っていないときは、自分で引っ掛けてゲットする。
小学生の私が親父と一緒に乱獲した方法、つまり碇針で引っ掛けるのだ。
アユを釣る人には、その引っ掛け釣りばかりをする人も多い。私の親父もそうで、だから引っ掛け釣りにはまるで抵抗がないらしい。
漁師として生活のためにアユを捕るのならそういう方法も仕方ないのかもしれないが、親父の場合は釣ったアユを売り歩くわけでもなく、人にあげるわけでもなかった。
ただ釣りたいから釣る。
誰よりもたくさん釣りたいからどんな方法を使ってでもとにかくごっそり釣りたい。
ただそれだけの欲のために大量のアユが犠牲になったわけだ。
アユ釣りに限らず親父は他の釣りでも人に負けるのが耐えられないらしく、例えば船釣りでは一番いい席をぶんどってひとりで5本くらいも竿を出す。
釣れるときはもう戦争のような騒ぎになる。
次々と竿に当たりが来て、次々とリールを巻いては魚を外し、新しい餌を針に付け直しては大急ぎでまた海中に垂らし、また次のリールを巻いては……と、見ていて「よくやるよ」と呆れるほどのものである。
そんなに釣って食べるのかというと食べない。彼は食材としては魚が嫌いなのだ!
まったくこんな釣り人がいると魚は大迷惑だろう。
食べる食べないは別として、他の釣り人に負けたくない一心で釣りに夢中になる釣り人は結構いる。というより、釣り人にはそういうタイプが非常に多い、と言い換えたほうが正しいかもしれない。
私は参加したことがないが、世間では釣り大会というのがよく開かれる。そういう大会では釣り人たちの目の色が変わる。
実はうちの親父もそうなのだ。イチバンのトロフィーをもらうためにはそれこそ必死に釣りまくる。
おかげで私の実家の応接間は釣りのトロフィーや盾で囲まれている。親父はそれを客に自慢して御満悦だ。
ともかく釣り人には競争心が旺盛で負けず嫌いで凄い自信家が非常に多いと私は感じる。
それと、釣りの話をすると止まらなくなる人が結構いる。
話はだいたい自慢話で、いつどこで50センチのコイを釣り上げたとか80センチのニジを4Xのティペットで釣り上げたとかいう自慢話が多い。
不思議なのは、釣り上げたそれらの魚の寸法が、次々と人に話していくうちに少しずつ伸びていくことだ。
最初は50センチと言っていたのに次の人には55センチはあったと言い、3人目には60センチは軽くあったと自信たっぷりに言うのだ。10人目の人には「あれはたぶん80センチくらいあったんではなかろうか」などと唸りながら言ったりする。
悪気があってそうなるのではなく、人に話しているうちに自分の中の記憶が膨れ上がってきて、本当にあれは80センチあったと思ってしまうようなのである。
私は、以上のようなタイプとはまったく違う釣り人である。
まず、数釣りになど興味がない。大物を狙うことはあるが、釣れないからといって悔しくて仕方がなくなるなんてこともない。
そして、釣るに際して卑怯な方法は取らない。魚を引っ掛けて釣るなんてもってのほかだと考える。
釣った魚は、どうしても食べる必要があるとき(例えば食料を持たないで野営を続けるとき等)以外はすべてリリースする。その魚が大きかったりきれいだったり珍しい魚だったりすれば写真に撮ったり寸法を測ったりするが、とにかくリリースする。
その寸法は、人から人へ話していくにつれて巨大化することはない。
私の場合は逆に小さくなることさえある。
サロベツの湿原の川でイトウをバラしたとき、その魚体の上半身を見た。数メートル先ではっきり見えたので、全体の大きさがどれくらいかはすぐ見当が付いた。「1メートルは軽く超えてる。おそらく1.2メートルはある」と確信した。
しかし、札幌に帰ってから釣り仲間にそのことを話すうちに、「あれってホントに1メートルもあったかいな?」と自信がなくなってきたものだ。
どうも私は、釣り人に似合わず、競争心に乏しく、自信家でもないようである。
私の話はいつも前置きが長くなる。本題はこれからなのだ。
何を書きたいのかというと、釣り人のマナーの悪さについてである。
私も釣り人のひとりなので仲間を悪く言うのはイヤだが、言わざるを得ない。本当にマナーが悪いのだ。
まず、どこの釣り場に行ってもゴミが捨ててある。山奥の渓流でもそうである。そんなところにわざわざ行く人は少ないから、それらのゴミは釣り人が捨てたものがほとんどだと思う。だいたい、ゴミの多くは釣りの仕掛けが入っていた袋や切れた仕掛けなどなのだ。
そして、長々と冒頭に書いたように、多くの釣り人は競争心が強いのか、とにかくたくさん釣ろうとする人が多い。釣ってもリリースするのならいいが、食べもしないくせに持ち帰る人が多い。家族や近所の人や友達に見せて自慢するためらしい。
だから釣り人がたくさん集まる川や湖では魚が少なくなってしまうこともある。特に渓流でその傾向が顕著だ。渓流魚は餌の少ない山奥でほそぼそと暮らしている。それを根こそぎのように釣ったらそこの魚たちがたちまちいなくなってしまうのはわかり切っている。
それでも釣り人の多くは、魚がそこにいれば釣れるだけ釣ろうとする。そこの魚が絶滅しようがオレは知らんとでもいうような傍若無人の態度でバカスカ釣りまくる。
私の罪ではないが、そのことを思うと恥ずかしくて腹が立って仕方がない。
北海道の初夏6月1日には、私の羞恥と腹立ちは頂点に達する。
この日は道央・道南の河川でヤマメ(北海道ではヤマベと呼ばれる)が解禁になるのだ(道北・道東は7月1日)。
ヤマメがよく釣れる河川に行くと、ギョッとするくらい釣り人がいる。ヤマメは渓流魚の中でも特に警戒心が強くて釣りにくい魚なのだが、そんなのおかまいなしに川の両岸にズラーッと釣り人が並んで釣り竿を出しているのである。まるで釣り堀である。
それでも、結構よく釣れる。釣れるのが、生まれてせいぜい1年くらいしか経たない稚魚だからだ。これを北海道の人は新子(しんこ)と呼ぶ(だからこの時期のヤマメ釣りを「新子釣り」と言う)。もっとも、6月には10〜15センチくらいにはなっているので「稚魚」と呼ぶのは適切ではないかもしれない。しかし、「成魚」とは言えない。せいぜい小学生くらいだろう。そのくらいの子供なら世間の怖さをあまり知らないから、大勢の人間に囲まれても自分に危害が及んでいるなどとは思いもせずに餌やフライにあっさり食い付いてしまうのだ。
私がさらに驚いたのは、あの人は釣りがうまそうだなと見ていたその釣り人が、釣った「新子」をビクに入れたことだった。
まさか、と思いながら他の釣り人を見ても、みんなビクに入れている。どんどん釣り、どんどんビクに入れる。ひとりでおそらく数十匹は釣るのではないか。釣り人は何百人もいる。上流から下流まで全部含めれば釣り人はもっといるだろう(北海道の河川の多くでは下流から渓流魚が棲む)。そうしたら、いったい何万匹のヤマメがいなくなるのだ? 解禁は今日で、これから来年春までずっと解禁なんだぞ。ヤマメくんはみんな釣られてビクに入れられてしまうに違いない!
私は本気でそう考えて愕然とした。
ところが、この時期にヤマメの「新子」を釣る「新子釣り」は釣り人の間では北海道名物みたいなものになっていて、誰もが何も疑問に思わず「新子」を釣りまくるのである。
救いは、それらの「新子」が捨てられることなく、すべて食べられることである。釣った新子を釣り人は持ち帰り、天ぷらや唐揚げにしてしっかり喰うのだ。
「食べるために釣るのならリリースしなくてもいい」というのを自分の基本的な考えにしている私は、だから「新子釣り」に対しては大っぴらに文句を言えない気がした。
そして、実は、1回だけ、私も「新子釣り」をして数十匹の新子ヤマメを唐揚げにして食べた! うまかった。新子を釣ろうとして釣りに行ったわけではなかったが、釣れるのが新子ばかりで、初めのうちはリリースしていたものの、いくら釣っても成魚が釣れないので、周りに誰もいなかったこともあって、密かに40匹ほど新子を釣って持ち帰ってしまったのだ。食べたらどんな味なのか確かめたい気持ちもあった。
で、「新子釣り」に対して私はいよいよ何も言えなくなった…。
しかし、どう考えても「新子釣り」はやめるべきだと、そのうちに私は思うようになった。
北海道の河川では、渓流魚の主役とも言えるヤマメが春先だけ禁漁になる。本州方面では産卵期の秋から翌春まで禁漁になるようだが、北海道は違っているのだ。
これは北海道のヤマメが降海型だからである。本州方面のヤマメはほとんどが陸封型なのに対し、北海道のヤマメは海に降海するのだ(ヤマメはサケ科サケ属の魚なので、川で生まれて海に降り数年回遊して母川に帰り産卵する)。
降海するのはメスで、オスの多くは降海しないで渓流でそのまま暮らす(これを河川残留型と呼ぶ。本州ではほとんどが生涯残留するので陸封型と呼ぶ。釣りの対象になるのはこの残留型と陸封型)。大洋を回遊して大きく育ったメスは春に川を遡上しはじめ、秋には上流に達して産卵して一生を終える。サケ科サケ属のもともとのその習性が北海道のサクラマスにはまだ残っているのである。
北海道で春先に禁漁になるのは、メスの遡上を妨げないためである。そうすれば、河川に残留しているオスたちとペアーになって秋には産卵ができる。本州で秋から禁漁にするのも産卵を邪魔しないためだから、ヤマメの禁漁の目的は本州でも北海道でも同じなわけだ。
本州では確か3月から4月にかけての時期に解禁になるところが多かったと記憶する。そして夏いっぱいまで釣っていいわけなので、「新子」を釣ろうと思えばできるはずである。しかし、私は本州でそういう光景に出くわしたことがない。
本州では渓流の相当上流に行かないとヤマメがいないところが多いので、そこにドバッと釣り人が集中して釣りまくるという光景が現出しないのかもしれない。いや、それ以前の問題として、本州ではヤマメの数が少ないのではないか。北海道みたいにバカスカ釣れるなんてところはないのかもしれない。だから本州では「新子釣り」がないだけで、もし本州でもバカスカ釣れるような川ができれば「新子釣り」がはやるかもしれない。
実際、本州ではヤマメの天然資源がかなり減っていて、釣りの対象になるのは天然魚ではなく、放流魚であるケースが多いらしい。放流魚といっても放流してすぐ釣らせるわけではないし釣り堀のような狭いところに放すわけでもないので、放流されたヤマメはしばらく天然の川で暮らし、ある程度成長する。それが釣りの対象魚になるわけだ。全国各地の内水面(川や湖や沼など。海ではないということ)漁業組合では養殖されたヤマメの稚魚を毎年大量に放流しているそうである。そうでもしないと本州では「ヤマメ釣り」ができなくなっているのだろう。
「へえ〜、本州って大変だね」などと道民は落ち着いていてはいけない。なぜなら、北海道の河川でも「放流しないとヤマメ釣りができない」状況になる恐れが十分にあるからである。
前述のように、北海道のヤマメはほとんど降海型である。つまり、メスが降海しないと繁殖できないのが現実なのだ。だから、降海するその時期である春先に禁漁にするのは非常に適切な措置だ。
ところが、その禁漁が開けた途端、まだ幼魚と言っていい「新子」を根こそぎ釣ったらどうなるか? ヤマメのメスは1年か2年、川で暮らしてから降海するという。その降海するメスがいなくなるではないか。そうしたら大きなサクラマスになって戻ってくるメスがいなくなってヤマメは繁殖できず、資源は枯渇しないか?
降海するメスまで「新子」のうちに全部釣り上げてしまったら、本当に後悔することになる。シャレを言っているのではない。大真面目である。そのときが来たときにはもう遅いのだ。今から対策を立てて、有効な手段を実行しなくてはならない。
具体的には、まず、それほど必要でもないダムを造らず、不要なダムを取り壊したり魚道を設置したりしてメスの遡上を手助けする措置が必要である。だが、それは役人や政治家の仕事だ。
私たち釣り人にできることは、言うまでもなく「新子釣り」を禁止にすることだ。禁止にならなくても、自粛してしないことだ。している釣り人を注意することだ。
さもないと、本当に本州のようになる。放流魚なんて私は釣りたくない。これは釣り人なら理解できる気持ちだろう。だから私はすべての釣り人に言いたい。「ヤマメの新子釣りはやめよう!」と。「やってもいいが、やるなら全部リリースしよう!」と。
「釣り人のマナーの悪さについて」書くと明記しながら、話が偏った方向に行ってしまった。戻そう。
北海道の「ヤマメの新子釣り」は、もしかすると開拓初期から続いている伝統なのかもしれない。当時は食料が少なかっただろうから、新子でも魚は魚で、いっぱい穫れれば十分に贅沢なご馳走になったろう。
しかし、今はそんな時代ではない。不況ではあるし、私みたいにほとんど破産している人間もたくさんいる。しかし、だから「新子釣り」をしているという人はいないと思う。これはマナーの問題なのだ。
そこに魚がいるから釣る。釣り人にとってこれは十分にうなずける言葉だと思う。登山家が「そこに山があるから登る」と言うのと同じだ(もっとも、この登山家の言葉は長い文章からの一部引用で、だから世間で認識されている意味とはちょっと違うと聞いたことがある)。
しかし、なんで全部釣らなければいけないのか? 魚がいなくなったら次回の釣りで釣れなくなる。来年はもっと釣れなくなり、数年後にはまったく釣れなくなる。そう考えて、根こそぎ釣るみたいな考え方を捨ててほしい。それができない人は釣りをしないでほしい。
魚を資源だと考えればいい。資源はいつか枯渇する。繁殖させることで増やせる資源でも、繁殖のもとになる魚がいなくなれば枯渇する。
根こそぎ釣ることだけが悪いのではない。河川の環境を守ることも、壊された環境を復元させることも重要である。
最初に私は釣り人のマナーの悪さの一端として「ゴミを捨てる」と書いた。「この程度のゴミくらい捨ててどうにかなんのかよ?」とスゴむやつは私にメールを寄越しなさい。そういう人間には話してもムダだということを私は知っている。いけないことだが、入院するくらいの怪我をさせないとわかってもらえない。いや、それでもわかってなどもらえないのだが、ゴミを捨てるときに周囲を見回すくらいはするようになる。
こういう問題になると、どうも私は熱くなってしまう。ウツが再発したくせに自分でも信じられない。もっとも、ウツでも理不尽なことや迷惑なことをしている人がいたら私の場合は怒りが湧いてくる。女性にキンキン言われるとすぐビビるが、例えばチンピラにスゴまれても私の場合はウツのときでもビビらない。口でやり合うことはできない気がするが、相手が攻撃してきたら反撃することはできると思う。
また変な方向に話がずれた。戻す。
「オレくらい」とか「このくらい」と考えてみんながゴミを捨てたら、例えば狭い渓流なんかたちまちゴミだらけになる。実際、そのへんの渓流に行ってみてほしい。ゴミのないところなど珍しいと思う。私は昔、支笏湖によく釣りに行ったが、ゴミの多さにはいつも落胆したものだ。あそこは国立公園なんだけどなあ。
ゴミがだんだん増えて釣り場の自然は人工物で溢れ、やがて元の自然とはどこか違う環境ができあがるだろう。それは魚にとっても他の生物にとっても決していい環境ではないはずである。そのせいで繁殖できなくなって絶滅したり、そこまで行かなくても数が激減してしまう生き物が出てくるだろう。
そしたらあなたはどうしますか? もうそこには行かない? そして別のところに行くって?
おそらく多くの日本人はそういう考え方をするのではないかと私は密かに思っている。「ここれは釣れなくなったなあ」「でも、あっちの川ならまだいるらしいぜ」「じゃ、そっちに行くか」で話が終わってしまうような気がしてならない。
私は外国に行ったことがないのでまた聞きの知識だが、カナダやアメリカ、ニュージーランド等では非常に厳しいルールを釣り人に課している。釣りのできる時期、釣り場に入っていい人数、1日に釣っていい匹数、時間、釣っていい魚種、持ち帰っていい匹数、使っていい釣り竿の本数、仕掛けの種類等々、さまざまなことに厳しい制限が設けられている。
そしてこれが重要なのだが、釣りで有名な河川や湖では釣り人は「入漁料」を払わないと釣りをすることができないのである。その額はかなり高いらしい。その金が何に使われるかというと、釣りのガイドへのガイド料ではない。それは別に払わなければならない。入漁料は、釣り場となる河川や湖沼の整備や修復、少なくなった魚の放流、そしてルールを破る無法者たちの監視等に使われる。
北アメリカやニュージーランドの釣り場は自然がよく残されていて、魚もピンシャンの天然魚かそれに近い放流魚で、大自然と釣りを思いっきり楽しむことができるところが多いという。それは、それなりに金をかけているからであり、そのため高い入漁料を取るのだ。
日本の漁業組合の多くも釣り人から「入漁料」を取って釣りをさせる。アユやヤマメ等、放流魚に頼ることの多いところではそうなっている。しかし、その「入漁料」はそんなに高いものではない。釣り堀の料金よりもずっとずっと安い。しかも、その「入漁料」を払わないで釣りをする人がかなりいる。漁業組合では監視人を巡回させているというが、その人数は絶対的に足りない。もちろん、そんな安い「入漁料」では、釣り人全員から徴収できたとしても、その釣り場の自然を守ったり修復したりすることまでは無理に違いない。
釣りは自然との戯れである。相手である自然が荒廃すれば釣りはできなくなる。自然を荒廃させないためには、釣り人自らが何らかの努力をしないといけないし、漁業組合があるなら、組合も同じく努力すべきである。
そのためには今の数倍の入漁料を取ってもいいのではないかと私は思っている。それで釣り場がいつまでも素晴らしい環境に整備され、魚たちにとっても素晴らしい環境が守られるなら、そんなに嬉しいことはない。
今の私は「超」が百個くらい付く貧乏なのでそんな高額の入漁料など払えないが(百円以上は無理)、そしたら釣りをするのを我慢する。そのくらいの遵法精神と自制心と良心はある。
釣り人全員がそうした精神や心を持てばいいのだ。自然に優しく、人に優しく、そして自分に厳しく。そんな釣り人になりましょうよ! 紳士、というとちょっと意味合いが微妙に違う気がするが、「釣り人よ紳士たれ!」と言っても私の言いたいことはだいたい込められると思う。
いや、ただの「紳士」ではやはり足りない。「真摯」さが不可欠だ。自然に対しておごり高ぶるような人は釣り人失格だと私は思うからだ。
だから、「釣り人よシンシたれ!」と書き換えよう。
偉そうなことを書いた。読んで気を悪くした人もいるかもしれない。その点に関してはお詫びしたい。
しかし、間違ったことを書いたとは思っていない。
「みんなで北海道の釣り場を守ろうよ」
「そのためには自然に対して真摯になり、紳士的にルールをよく守って釣りをしようよ」
簡単に行ってしまえばそういうことである。
どうかご理解を。
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