〈オジサンの主張〜その6〉
●オジサンの主張〜その6
〈宗教団体にもの申す〉
(4.18/09)
以下は宗教にはまったくの素人の人間が書く戯言です。
専門家の方たちにとっては頭にくる内容もあると思いますが、こんなことで攻撃メールを寄越さないでくださいね。
しかし、現代の宗教の問題点のある部分を案外鋭く切り裂くことになるのではないかと自負していので、罵倒メールや攻撃メールが来るのではないかと実はビクビクしています。
しかぁ〜し! 何しろオジサンは51歳の春なので、これを書いてしまうのだ!
私の母はひとつの宗教を信じています。その宗教は仏教で、その外護団体に所属して信仰活動、布教活動を続けてきました。
私も母に影響されて若いころは仏教哲学を少し学びました。学ぶにつれ、疑問が深まったものです。
釈迦の初期教典は釈迦滅後百年以上経って孫弟子か曾孫弟子くらいの人たちによってまとめられたもので(釈迦在世時には文字がなかったので)、それが釈迦の教えに最も近い内容だと推測できます。いわゆる小乗教典ですね。その中には現世利益に関する肯定的な教えはないようなのです。現世では人のために尽くす菩薩業にひたすら精進しろと説いています。輪廻転生を繰り返す中でその善行(菩薩業)を積み罪障を消滅させていくことによって悠々自適の仏の境地に至る。そのことを知ることが悟りということのようですが、悟っても現世では仏になれないわけです。しかも、大雑把に言えばそれは自分が仏になるための努力であり、他人を仏にする行ではありません。自分ひとりが成仏するための教えだったわけです。ですから小乗仏教と呼ばれます。
その数百年後にまとめられる大乗教典は釈迦の教えからだいぶ飛躍して現世利益を認めました。大乗仏教の登場です。現世で何の利益もないとなれば弟子たちは布教に苦労したでしょう。それで作られたのが、悪人であろうと女人であろうと誰であろうと即身で成仏できるという法華経や華厳経などの大乗教典なのでしょう。
日本仏教の多くはこれらの大乗教典をもとに教義を構築しています。天台宗も真言宗も日蓮宗もそうです。天台宗や真言宗は自分ひとりの悟りを求めるという面に当初はかなりウエイトが置かれていたように思いますが、ときの権力と結びついて国家鎮護の宗教になってしまいました。法然や親鸞から発した浄土宗や浄土真宗は当初は現世利益を掲げなかったように思いますが、今ではおそらく違うでしょう。日蓮は天台宗を下敷きにして教義を構築していますが、こちらは早々から現世利益を前面に打ち出し、民衆仏教として広まりました。ただし日蓮自身は国家戒壇の設置、つまり天皇や将軍家の保護による布教で法華経を日本の国教とすることを目指していたように思いますが(その日蓮宗の一派である日蓮正宗〈ショウシュウ〉の信者団体である創価学会〈この教団が私の母が入会している日蓮正宗の外護団体〉が公明党を作って政治分野に進出したもともとの目的はそこにあったはずである。しかし世の非難の凄さに驚いて同会は国立戒壇の設置など目指していないと主張するようになったし、政教分離をすると明言した。けれども今でも会員は選挙となると総掛かりで選挙活動をし、幹部は「選挙のために題目を上げて自分の功徳を増やそう」と会員を指導する。そして内心では国立戒壇の設置を目指して何が悪いと思っている会員が多い)。
それはともかく、現世利益の教えであってもそれで人が救われればそれで全然かまわないと思いますが、いろいろな教団を見ていると、ほとんどが教団と僧侶の権威高揚・維持のために存在しているかのようで、どうも納得できません。
最も理解できないのは教団のカネ集めです。私の母なども相当に献金(というのかな?)をしていました。大きな額を献金すればするほど功徳があると母は信じていました。教団幹部たちがそう説いているからです。そのお金が人々の救済とかに役立てられているのならまあいいかもしれませんが、その教団では教祖的なトップの売名行為のために使われています。世界各国の著名人や大学とかに巨額の寄付をして、多くの著名人との対談を実現させたり大学の名誉教授の称号を得たりしています。そんなことをして会員に何の利益があるのでしょう。宗教家なら慈善活動にでもお金を使うべきです。
宗教団体の収入は非課税になっていますが、これがだいたいにおいておかしい。宗教団体の収支がガラス張りでなくてもいいという今の制度もおかしいと思います。
それをいいことに多くの宗教団体は信者や会員から多額の献金を受け、それを宗教活動とはあまり関係ない事業にもたくさん使っています。宗教団体の中には、「非課税だから宗教団体を作って金儲けしよう」と設立された団体が非常に多く、団体を設立すると「せっかく非課税なんだからそれを利用していろいろな事業をして金を儲けよう」と考える人が非常に多いのです。
創価学会などは会員数を公称ですが700万世帯とか言っています。それが本当なら、年に一度の献金集めで、いったいどれほどの金額が積み上げられるのでしょうか。おそらく億単位の金でしょう。
その金がすべて宗教活動や慈善事業等、本当に世のため人のためになることに使われるのならいいのですが、同会ではそんなことにはなっていません。収支が不透明というかまったく闇に包まれているので確実なことは言えませんが、同会は宗教とは無縁の幼稚園から大学までの教育機関を揃えていますし、民音という会社を作って音楽業界にまで進出するなど、「なんで宗教団体がそんなことやるの?」と首を傾げざるを得ない事業をたくさんしています。このように宗教以外の事業にも多額の金を使っているのは確かであり、同会のトップの売名行為などにまで巨額の金が使われているのも、後述しますが確実です。
これは創価学会に限ったことではなく、多くの宗教団体もやっていることです。そんなことを許している国の見識を私は疑います。
ただのお寺や神社にまで課税する必要はないと思いますが、宗教団体のくせに宗教とは関係ない事業をたくさんしているようなところには課税すべきです。宗教以外の事業をしていない宗教団体でも、信者や会員から必要以上と思われる多額の“寄付”を徴集しているところには課税すべきです。
課税するかしないかを決めるには、各宗教団体に税理士などを入れて収支を確かめ、それを公表してからです。それで「これは信者から金を集めすぎている」とか「集めた金を宗教とはあまり関係ない事業に使っている」とか「団体のトップ個人がその多くを使っている」なんてことが判明した団体には思い切り課税するのです。
いやしくも宗教者であれば、私がここでこんなことをわざわざ書かなくても、自ら進んで税金を納めるか、税金を納めようにも納められないくらい人々のために自分のお金を使うのが当然だと私は思います。
さて、話を戻して私の母が入会している宗教団体(創価学会)のことに話を戻します。その教団の中では、まことしやかなウワサがしじゅう流れます。「日蓮大聖人(ニチレンダイショウニン=日蓮正宗では日蓮を末法の本仏であると位置付けているので日蓮をただ単に聖人とは呼ばずそう呼ぶ)のご生誕日を現在の暦に直すと先生(教団のトップ〈今の名誉会長。会員、とくに幹部は彼の指示通りに動くロボットと言っていい〉を会員はそう呼ぶ)の誕生日に符合する」(実は符合しないのだが…。それはともかく、会員は“先生”を日蓮大聖人と同一視している面があるのである。また“先生”自身もそういう意識があるのか、僧侶たちを軽視するところがかなりあり、それらのことによって日蓮正宗の僧侶たちの反感を買って創価学会はずいぶん前に日蓮正宗から破門された)「先生は20年前に指導に歩いていたときにふと見かけた年老いた会員と20年振りで会ってもはっきり覚えていて声をかけた」「ガルブレイスが来日して日本の識者と対談したがどの識者もガルブレイスの見識の高さと饒舌さにかなわずほとんど聞き役になったが、先生と対談したときはカレブレイスが聞き役に回った」等々。中には事実もあると思いますが、たぶん多くは“先生”を崇高に見せるためにその側近が故意に流すウワサだと思います。
私の友人には創価学会に勤めているやつがいます。その彼は露骨には言いませんが、彼の数少ない言葉や行動からは、おそらくそうだろうなと察することができることが多々あります。少なくとも“先生”はものすごいワガママだそうで、まさに教団の頂点に君臨していて、すべては彼の指示で動くということになっているようです(公明党もである)。側近は“先生”に気に入られようとひたすら忠誠を尽くし、その結果として、すべては“先生”の思う通りに事が運ぶようです。
もし機会があったら、創価学会の発行している「聖教新聞」を覗いてみてください。今はどうかわかりませんが、数年前まではその物凄い記事の書き方に私は呆然とさせられました。これがジャーナリストの書く文章なのかと、私はゾッとしたものです。
どういう内容かというと、創価学会がその宗門である日蓮正宗から破門されたことに対する怒りとか、創価学会を退会して名誉会長や会の悪口を言っている人たちの悪口が紙面のあらゆるところで噴き出しているのです。その多くが個人攻撃です。日蓮正宗のトップを罵倒し、彼の個人的な素行についてあることないこと手厳しすぎるほどの筆致で書きまくっているのです。また、創価学会を辞めて創価学会批判をしている人たちを「池田名誉会長の恩を仇で返す奴は地獄に堕ちる」とか「奴は昔、あるところで何々をした。これが宗教家と言えるのか!」とか、読んでいて「え、これって何百万部も発行されている新聞だよな?」と不審に思ってしまうほど凄まじい記事で溢れていました。公明党をやめた人を「恩知らずの堕地獄男」と罵る記事もありました。正しい情報を正しく冷静に伝えるジャーナリストの文章とはほど遠いもので、こんな記事を書いて公共の新聞に載せて、果たして大丈夫なんだろうかと心配になるほどのものでした。
おそらく記者の多くは良心を持つジャーナリストだと思います。しかし、ジャーナリストとしてマトモな記事を書いているだけでは“先生”が喜ばないのでしょう。あるいは、彼らが「こんな当たり前の普通の記事を書いていても先生はお喜びにならない」と考えて、個人攻撃とか不確かな情報による罵倒記事などをどんどん書くようになってしまったのでしょう。中には、「先生を批判する人を罵倒する記事を書いて先生を法難から救いたい」と大真面目で考えてあんなひどい記事を書いた記者もいたかもしれません。
そういうところは北朝鮮にそっくりです。そっくりといえば、今もやっているかわかりませんが、創価学会は文化祭というのを全国各地の支部が毎年のように行っていたのですが、その内容はマスゲームとか大勢によるダンスとか、見る限りでは北朝鮮のそれと瓜二つです。
“先生”は北のあの国のキムさんのような独裁権力を持ってしまったので、常識や良心をいつか忘れてしまったのでしょうか。
私は同会のかなり上の幹部も知っていますが、その彼がこんなことを言ったことがあります。「創価学会は外交官や法律家を目指すよう学生部にはっぱをかけているんだ。先生が海外に行かれるときのお力添えと、法難(同教団が外部から叩かれたりすることを信者はこう言う)に遭われたときにお力になるためだ」と。実際、信者からはかなり多くの外交官や弁護士が輩出しているようです。彼らは“先生”が海外で著名人に会うための段取りをつけさせられたり、素行の悪いワガママな“先生”の起こすさまざまな問題を揉み消したりさせられているのでしょう。
トップの売名や現世での栄華のために会員が働かせられているとしたら、これはかなり可哀想なことです。何のための宗教なのだ、何のための信仰なのだと疑問になります。(こんなことを書く私のような者を会員は「謗法〈ホウボウ=法を中傷し法に背くというような意味〉だ!! 罰が当たるぞ」と言って寄ってたかって陰湿に非難する。結局、その会員は村八分のようになり、ひどいときは仏敵のように嫌われ「地獄に堕ちるぞ!」と脅され、あることないこと言われて攻撃されて世間的に抹殺されてしまう。私は過去にそれをされた)
中には本当に高度な哲学的教義を持ち、民衆のために努力している教団もあるでしょう。しかし、悲しいかなその数は少ないと思います。
だいたい、今の日本仏教の姿を釈迦が見たらどう思うでしょうか。きっと「そんなこと私は言ったことがない」と言って呆然とするでしょう。葬式がメインの仕事だと知ったら卒倒するかもしれません。釈迦は葬式のための教えを説いて回ったわけではないのですから。日本仏教の開祖たちも、現代の仏教を見たら釈迦ほどではないにしても驚くと思います。特に親鸞などはそうではないでしょうか。親鸞は教団を持つことを弟子たちに禁じましたから。
というように、今回は宗教について主張してしまいました。創価学会の会員は意外に多いので、これをご覧になって怒り心頭に発してしまう方がいるかもしれません。
でも、冷静になって落ち着いて客観的によく考えてみてください。昔はともかく、今の創価学会はクリーンみたいなイメージを打ち出していますが、その内実はどうでしょうか? 一般の方の理解を得られるような活動をしていますか?
よく考えてみてほしいと思います。
ただ、よく考えて「なるほどおかしい」と思うようになっても、組織の内部ではそれが言えないのです。言ったら私のように大変な目にあいます。
そんな宗教って存在する価値があるのでしょうか?
最近の映画「ダビンチ・コード」などでもあらわれましたが、宗教というのが教団を持つとその教団維持や権威高揚のため教祖の教えをまげてしまうようです。
ちなみに、キリストは紀元前後の人、釈迦は紀元前500年前後の人です。釈迦の小乗経典ができたのが紀元前ですから、その影響はキリストが生まれるずっと以前にアラビア半島まで届いていたはずです。
聖書は、キリストの弟子たちがキリストの言葉や行跡を書き残したものの集大成です。この点、仏教の経典と似ています。経典は釈迦の「声」です。すべての経典は「如是我聞」という文字から始まります。「このように私は聞いた」という意味です。聞いたのは釈迦の説法です。つまり釈迦の声なのです。聖書の場合、その「声」に相当するのは福音書です。福音書は数多く見つかっていて、最近でも各地で見つかっているようです。
現在の聖書は、それら数多の福音書の中から重要な箇所をピックアップして集大成したものです。そのピックアップを行ったのは、キリスト没後ずっと後年の教会運営者たちであり、あるいはその教会を保護していた権力者たちだったと思います。したがって、ピックアップに際してさまざまな意図が働いたと見たほうがいいでしょう。
ある福音書には、初期仏教につながる考え方を示す内容が書かれているそうです。これが事実であれば、初期キリスト教は仏教の教義を取り入れたのかもしれません。
最近発掘された福音書では、これまで最大の裏切り者とされていたユダが実はキリストの良き弟子だったとか、キリストに妻子がいたといった、キリスト教信者にとってはかなり衝撃的な内容が記されているようです。「ダビンチ・コード」はキリストに妻子がいたというこの部分に着目した作品のようです。
ダビンチを関わらせるのはコジツケにすぎるような気もしますが、現在の聖書に書かれていない事実があったことは確かだと思います。
以上、いろいろと書きたいことを書きなぐるように書いてしまいましたが、私は宗教の専門家ではないので、あまり真剣に読まないでください。私が間違って理解している部分があるかもしれませんので。
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