〈オジサンの主張〜その5〉
●オジサンの主張〜その5
〈日韓関係を修繕しようよ〉
(4.18/09)
「オジサン」シリーズが第5回目に入りました。このへんで打ち止めにしようと思い、今回は非常に扱いにくい微妙な問題について主張します。
朝鮮半島と日本の問題についてです。
ただ、北朝鮮については、“国”として取り上げるのが阿呆くさいので、ここでは北朝鮮についてはあまり書きません。あのヘンな男が君臨して我がままばかり言って、あたかも鎖国でもしているかのように堅い殻に閉じこもって、それだけならまだしも、他国に対して脅威さえ与えようとしているなんて、バカやアホを通り越してパーですから。
というわけで、「オジサン」シリーズが第5弾は「韓国と日本」について主張します。
韓国といえば、今年のWBCでも大活躍しました。北京オリンピックの野球では韓国が金メダルを取りましたし、昨年のWBCでも、番狂わせがなかったら韓国が優勝していたかもしれません。
韓国の野球がなぜそんなに強いのか? いや、韓国は他のスポーツでも強いので、韓国はなぜスポーツが強いのか、と言い換えたほうがいいでしょう。
その理由のひとつに「日本」の存在があると私は考えています。
プロレスラーの力道山、空手家の大山倍達・中村日出夫・松井章圭、野球選手の金田正一・張本勲…。これら各氏は、スポーツや武道で前人未到と言っていい活躍をした人たちです。
それと「韓国と日本」の問題に何が関係あるんだと不審に思う方もいるでしょう。
ところが関係大ありなのです。各氏は、朝鮮半島生まれや在日二世の人たちだからです。
このことは案外よく知られているのでご存じの方もいたと思います。
では、朝鮮半島生まれや在日二世の人である彼らがなぜに日本でそんなに大活躍をしたのでしょうか?
まず、活躍の舞台がなぜ日本だったのかについて考えます。
在日二世の人は日本生まれの日本育ちですから活躍した舞台が日本だったのはわかります。では、朝鮮半島生まれの人たちはなぜ北朝鮮や韓国ではなく日本で活躍したのでしょうか?
前出の各氏のうち、まず力道山は今の北朝鮮生まれです。
彼がまだ少年のころ、朝鮮半島は日本の植民地になっていました。それで朝鮮半島には多くの日本人も住んだのですが、力道山の生まれた村にも日本人がいて、その日本人が力道山を日本に連れてきたのだそうです。力道山は当時から力が強くて相撲が得意だったようで、その素質に目を付けた日本人が日本の大相撲の世界に彼を入れたのです。
相撲部屋で力道山はひどい差別を受けたようです。それでも負けん気の強かった彼は稽古に励み、関脇にまで登りました。そして、大関になるのも時間の問題と言われていたときに突如、自分でマゲを切って大相撲の世界から飛び出してしまいました。
飛び出した理由はいくつかあったようですが、最も大きな理由だったのは「朝鮮人はいくら強くなっても横綱になれない」と気付いたことではないかと私は思っています。
現在の大相撲ではモンゴルやハワイ等の外国出身の力士でも横綱になれるようになっていますが、力道山の当時はそんなことは「あり得ないこと」だったのです。まして日本の植民地の朝鮮半島出身者は凄い差別を受けていましたから、あのころ力道山がどんなに努力して強くなっても決して横綱にはなれなかったでしょう。
だから力道山は大相撲をあきらめ、プロレスの道に入っていったのだと思います。
大相撲から足を洗う時点でプロレス転向を考えていたわけではなく、相撲をやめてヤケッぱちになっているときに初めてプロレスと出逢いました。そのとき彼はおそらく「よし、このプロレスで天下を取ってやる」と思ったのではないかと私は想像しています。
そして、彼はまさしくプロレスで天下を取りました。プロレスの試合は死合ではなく筋書きのあるドラマですから、力道山が実際にどのくらい強かったのかはわかりません。ただ、日本にプロレスを根付かせ、多くの外国人レスラーを日本に招き、大プロレスブームを巻き起こしたことは事実です。
ジャイアント馬場やアントニオ猪木といった多くの優れた弟子を育てた功績も大きい。力道山がヤクザに刺されて死んだ後もプロレスブームが消えることなく続いたのは馬場や猪木たちがいたからだと思います。
「プロレス巌流島の決闘」と銘打たれて行われた世紀の大試合「力道山対木村政彦戦」にも、「引き分けにする」という筋書きがあった。しかし力道山は試合の途中でその約束を破り、本気で木村を攻撃した。それで木村は精彩なく破れてしまった。力道山をボスとする日本人レスラーたちが、シャープ兄弟などの外国人レスラーを破ったりしたのも、みな筋書きがあったからである。力道山が大金を彼らに積んで負けてもらったり引き分けにしてもらったわけだ。それがプロレスの試合なのである。また、力道山の弟子であるアントニオ猪木が行った「格闘技世界一決定戦」のほとんども筋書きのあるドラマだった。極真のウイリー・ウイリアムズ戦も「引き分けにする」という取り決めがあらかじめあった。ただ、アリ戦だけは試合前の段階でアリにすべての主導権を握られ、まず真剣勝負でないと挑戦を受けないとアリが主張するので猪木はそれをのんだ。しかし、すべてのルールまでもがアリの要求するままに決められて試合が行われた。あの試合を「世紀の凡戦」と言う人もいるが、猪木がなぜあんなブザマな闘い方(猪木はマットに仰向けに寝転んでアリの足を蹴るという非常に珍しい闘い方をした)をしたかというと、「立って蹴ってはダメ」というルールにされていたからである。しかも寝技は5秒だか3秒以内という、猪木にとっては「じゃ、どうやって闘えってんだよ」と言いたくなるようなルールのもとであの試合は行われたのである。自分の得意技をルールで封じられての真剣勝負となると、あんなふうな闘い方になってしまうのも仕方がないだろう。
次に、大山倍達は、牛殺しの大山、またはゴッドハンドとも呼ばれた空手家です。彼の作った極真会は無敵の空手として長い間、世界の中で君臨していました。
彼は韓国の出身です。力道山と同じように植民地時代に日本に渡りました。しかし、誰かに連れられてきたのではなく、どうやら「日本で一旗上げてやる」という意気込みを持って玄界灘をひとりで渡ったようです。
韓国に住んでいたころから格闘技を修行していて、日本に来てからは空手道場に入門しました(余談ながら…テコンドーは空手から派生した武道である。植民地時代に日本人が朝鮮で空手を教えたのがそのルーツになっているらしい)。
そしてメキメキと頭角をあらわし、若くして自分の道場を持って空手を教えていたようです。
パワー重視の彼の空手は道場だけではおさまらず、戦後の一時期は進駐軍の横暴に腹を立ててアメリカ兵を殴り倒して歩く“修行”もしました。暴力団の用心棒をしたこともあるそうです。
また、彼は政治に関心があり、若いころは何人かの政治家の書生をしていたこともありました。
有名な山ごもり修行は、そうした政治家のひとりからの援助で実現したのです。
山ごもり修行を終えて牛と闘ってこれを倒し、「牛殺し」の異名を取りました。
アメリカに渡ったのはその後です。彼をモデルとした劇画「空手バカ一代」に描かれているような空手対プロレス、空手対ボクシングの試合はなかったみたいですが、耐火レンガ割りや板割り、ビール瓶の首を手刀で切る等の演武にアメリカの人々は驚嘆しました。「ゴッドハンド」という異名はそうして生まれました。
アメリカから日本に帰った彼は、パワーの重要さを以前よりも実感していて、だから力に頼る空手の完成を目指して努力しました。
その結晶が極真会であり、実際に打ち合い蹴り合うフルコンタクトル−ルの確立でした。
彼が一生を懸けて目指したのは何だったのか? 劇画に描かれているような超人追求だったでしょうか?
私は、それもあったとは思いますが、もっと大きく彼の胸にあったのは「日本一の空手団体、世界一の空手団体を作る」ことにあったように思えてなりません。
なぜなら、30歳以降の彼は他流試合をほとんどせずに、組織運営と拡大、そして支部作りに精魂を傾けていったからです。
その努力が実り、極真会は世界一の門下生数を誇る巨大空手団体になりました。
その原動力は何だったのでしょうか?
「日本人に負けたくない」「日本人以上の凄い男になってやる」という強烈な思いがその原動力になったのではないかと私は思います。
また、昨今の格闘技ブームの火付け役にもなったと私は思います。
世界を股にかけた数々の武勇伝は他流試合にほかならず(それら武勇伝が“伝説”にすぎないとしても)、そんな彼に憧れて空手の道に入った若者がたくさんいます。
フルコンタクトルールの空手の試合を始めたのも彼が初めてです。
「K-1」は、フルコンタクトルールの空手の試合がなかったら果たして出現したでしょうか。
ちなみに、「K-1」を主催する正道館は大山の弟子のまたその弟子が作った団体です。
彼は肺がんになって入院し、肺炎か何かで亡くなったと記憶します。惜しい人物をなくしたと思います。
彼の死後、極真会は何派にも分裂してしまいました。地下の大山さんはさぞかし嘆いているはずです。
次に中村日出夫も韓国出身です(北朝鮮だったかも…。すみません。記憶がぼやけています)。
彼も空手家として有名です。大山倍達と比べると知名度は格段に低いと思いますが、その実力はもしかすると中村のほうが上だったのではないか思えるフシがあります。
大山は30歳以降はほとんど他流試合をしませんでしたし、弟子たちとの組手もしなくなったそうです。
しかし、中村は死ぬ直前まで弟子たちの相手をして、現役バリバリの精鋭たちを苦もなくあしらっていたそうです。
大山の空手はパワー重視だったのに対し中村の空手はパワーよりもスピードやタイミング重視の空手だったようで、また逆ワザ(関節技か?)も重視したといいます。「逆技ができて空手家は一人前」と彼は言っていたそうです。
そういう空手を身に付けていたので、晩年になってもワザが衰えなかったのだと思います。
そのような境地に彼が到達できたのは、普通の人には想像もつかないというか、普通の人なら何度も死んでいるだろうなと思うような物凄い荒行をしたからです。
そんな荒行を彼にさせた原動力は何だったのでしょうか?
やはりそこに「自分は日本人ではない。だから日本人以上に努力して日本人以上の人間になってやる」という強い思いがあったのではないでしょうか。
ちなみに力道山に「空手チョップ」を指導したのは中村です。力道山は中村を慕っていました。
次に松井章圭は在日二世です。
極真会で「天才」と呼ばれた空手家です。大山の孫弟子に当たります。
そして、大山の死後は極真会二代目として全世界の極真門下生を束ねました。
彼は強かっただけではなく、すごい野心家であるとともに組織運営にも長けているようなので、巨大化した極真会の二代目としては最もふさわしい人物だと思います。
彼が極真に入門して世界一を目指したのは、在日二世として差別されてきたことと無縁ではないと思います。
金田正一も在日二世です。
ご存じ、不世出の大投手であり、通算400勝というとてつもない大記録の保持者です。
彼の全盛期に長嶋茂雄がプロ野球に入り、初顔合わせでは4打席連続三振に切って取ったことはあまりにも有名です。
彼も在日二世としてずいぶん差別されたようです。しかも、差別されるがゆえに彼の家は超貧乏でした。
「差別した連中を見返してやる」「貧乏から抜け出してやる」という思いが、彼を不世出の大投手にしたと私は思います。
次に張本勲も在日二世です。
彼のことは今時の若い方でもよく知っているのではないでしょうか。
日曜日の朝に関口宏司会でやっている番組に大沢親分と一緒に“ご意見番”みたいな立場で出演して、「喝ッ」「あっぱれッ」と叫ぶあの四角い顔の人です。
彼は安打製造機と呼ばれるほどよく打つプロ野球選手でした。
生涯安打数はこれまで日本一でした(奇しくも昨日、イチローが彼の大記録を抜いた)。月間の打率でも5割を超す日本記録を持ち、ホームランも確か500本以上打っているはずです。
それほどの大打者になるには想像を絶する努力をしたことでしょう。
その原動力はやはり「差別されてたまるか」「日本人に負けない選手になる」という強い思いだったと思います。
こうして見てくると、朝鮮半島生まれや在日二世の人たちが日本で活躍したのも当然だと思えてきます。
彼らは差別やそれによる貧困等に屈せず、逆にそれをバネにして日本人を驚かせるような凄い男たちになったのです。
と、ここまでの話は10年ほど前までのことです。
近年は、日本で生活する朝鮮半島生まれや在日二世の人たちはもちろんですが、韓国で生まれ韓国で育った人たちがみるみる力を付けてきていて、野球やフィギアスケートなど多くのスポーツ分野で日本人選手を脅かすようになっています。
彼らの原動力は何なのでしょうか?
ひとつは教育にあると思います。
韓国人は学校で日本を侵略国と明確に位置付け、韓国を植民地にして横暴の限りを尽くしたといったことが生徒にしっかりと教えられるそうです。
さらに、最近は「日本文化はすべて韓国の模倣である」「日本語は古代韓国語である」「万葉集は古代韓国語で書かれているので、あれは韓国のものも同然である」といったことも教えられるそうです。
これはかつて朝鮮半島が日本に植民地にされて屈辱を受けたことと無関係ではないでしょう。
まず日本は、儒教の染み込んだ韓国人に対して創氏改名などという恐るべき愚挙をやってのけました。
「愚挙」とは大袈裟なと思わないでください。儒教を奉ずる韓国人にとってこれは大変なことなのです。
儒教で最も大切とされるのは先祖の祭祀です。そのため韓国では自分の祖先の源流まで遡れる系図を誰もが持っています。だから自分の姓を非常に大事にします。
それなのに日本は彼らに強制的に日本名を押し付けました。韓国人にとってそれは自分の命を奪われたにも等しい大事件だったのではないでしょうか。ともかく、その恨みは大きいのです。
ちなみに、結婚しても韓国で男女が同姓にならないのは、夫婦それぞれが自分の先祖を祭祀していかなくてはいけないからです。これは儒教の生まれた中国でも同じです。
《後記》「創氏改名は朝鮮人の固有の姓を奪い日本名を強制したものではない」という説があることを知った。その説では、「創氏は家族名としての“氏”を新たに設けることであり、先祖伝来の“姓”には変更はなかった」という。朝鮮戸籍には日本名が書き加えられたのみで、“姓”は抹消されずに本貫欄に残ったのだというのである。「本貫」とは「戸籍に記載された本籍地のことで、転じて姓を指すようになったもの」で、例えば「金」という同じ名でも本貫は違うというケースが多い。朝鮮半島ではこの「本貫」が同じ男女は結婚できない。朝鮮半島ではそれくらい「本貫」が大切にされていたが、創氏改名ではその「本貫」を示す“姓”を抹殺されたり変えさせられたことはなかったという。また、日本が創氏改名を推進しても日本名に変えなかった朝鮮人も相当数いたという。「創氏改名を体験した在日一世のお年寄りたちから話を聞いても、このことについてほとんど気にかけておられず、ましてや屈辱とはまったく感じておられなかった」と、この説を唱えている方は書いている。そこまで取材しているとなると、以上の説は事実なのだろう。ただ、この創氏改名の推進によって名前を変えなくてはならないと単純に理解した朝鮮人は「自分たちの本貫を示す最も大切な“姓”を奪われるのではないか」と怯えた人もいたのではないか。私は在日二世の方から「私の親は創氏改名などという屈辱を受けた」と直接聞いたし、いくつか読んだ本でもそのようなケースが紹介されていた。なので、どっちが真実なのか今は迷っている。どちらも真実なのかもしれない。
次に、韓国の労働力を日本は安く使いました。
それだけならまだしも、韓国から労働者を強制的に日本に連行してきて、日本の炭坑や道路工事などに大勢の人々を注ぎ込んだのです。
果ては戦争が始まると働き盛りの男たちを強制的に召集して戦地に送り込み、さらには慰安婦として女性までをも屈辱にまみれさせました。
それで亡くなった韓国人はたくさんいます。遺骨さえどこにあるかわからない、死んだことさえはっきりしないケースもあります。
慰安婦などにされて、一生を棒に振った女性がたくさんいます。
こんなことをされて相手を恨まない民族なんていますか? いないと思いますよ。
中には、自ら玄界灘を渡って日本にやってきて住み着いた韓国人もいます。
そうした人たちを日本は長年にわたって差別しつづけ、半島の人々を蔑視さえしてきました。
その屈辱は、プライドの高い韓国人にとってはどんなに年月が経っても決して忘れられないだろうと思います。
いえ、忘れないでいようと努力しているとさえ言っていいのではないでしょうか。
だからこそ学校教育の場で子供たちに「日本は悪いことをした国だ」とことさらに教えているのではないでしょうか。
学校で教えられるという事柄、つまり前記の「日本文化はすべて韓国の模倣である」「日本語は古代韓国語である」「万葉集は古代韓国語で書かれているので、あれは韓国のものも同然である」というのはウソとばかりは言えません。
「日本文化はすべて韓国の模倣である」というのは、古代のある時代までは確かにそうだったかもしれません。全部模倣だというのは言い過ぎだと思いますが、韓国から多くの文明を取り入れ、多くの人材を得たことは事実です。
「日本語は古代韓国語である」というのは証明不可能のことなので何とも言えません。なぜ証明不可能かというと、古代の朝鮮半島の言語がどういうものだったかを示す資料が残っていないからです。
なぜ残っていないかというと、朝鮮半島の新羅が唐と同盟を結んで高句麗と百済を滅ぼし、半島を統一して以来、朝鮮は中国を見習って儒教を取り入れ、人の名前をすべて中国風の名前に改めるなど、徹底した中国化を進め、その結果、ついには古代の多くの文献まで残らず始末してしまったからです。わずかに郷歌と呼ばれる歌が何首か残されているそうですが、それだけで当時の言語を推測するのは不可能だそうです。
つまり、韓国人は自分たちの遠い先祖の言葉を知る資料を持っていないのです。古代には万葉仮名に似た吏読(イト)という言葉が存在したらしいのですが、それがどういうものだったかわかっていません。韓国人の中には「平仮名も半島で作られた」と主張する人がいますが、それも推測にすぎません(私個人は「吏読」は万葉仮名の元になったもの、「平仮名」ももしかすると半島で発生したものが元になっているのではないかと密かに考えている。ちなみにハングルは15世紀の李朝が作ったもの)。
しかし、だからといっておとなしくなる韓国人ではありません。韓国の言語学者を中心に、「万葉集は古代韓国語で書かれている」という説が出され、とすれば「万葉集は韓国のものも同然である」とまで主張する韓国人が出てきたのです。
万葉集は言うまでもなく日本最古の歌集です。
7世紀後半から8世紀後半ころにかけて編まれたと考えられています。
古事記や日本書紀ができたのは8世紀前半ですから、これら3つの書はだいたい同じ時期に世に出されたと考えられます。
古事記と日本書紀は日本の古代史の研究のために非常に重要な位置を与えられていて、同時に当時の言語について知る大きな手かがりにもなっています。万葉集には政治家や役人、貴族といった知識階級だけでなく庶民の歌も納められているので、古代日本語を知る大切な資料にもなっています。
しかし、古事記や日本書紀の文章は、一部漢文で書かれている以外は、漢字一字で一音をあらわす、いわゆる万葉仮名で書かれています。万葉集におさめられている歌でもそれは同様です。その漢字が当時どのように発音されていたかをまず確かめないと、古事記や日本書紀も万葉集も正確に読むことはできません。
この問題に関してはこれまで多くの学者たちの研究によってほぼ明らかにされているようです。
ところが、その明らかになった音で各文章や歌を読んでも、現代の私たちには意味不明の部分が相当にあるのです。
例えば、歌には枕詞(まくらことば)というのがあります。あれも、音では読めても意味が皆目わからないというのがほとんどです。だから学者先生たちも匙を投げて、「枕詞」だということにしてそれ以上追求しないできました。
このことに関しては私は小学校のころから不思議でした。意味のないようなあるような変な言葉を枕のように使うなんて、古代の人たちは何とおかしな習慣を持っていたことかと思ったものです。
これと同じようなことは古事記や日本書紀にもあり、どちらもすべて漢字で書かれているので、一字一字の漢字の読み方次第で文章や歌の意味がまるっきり変わってしまうケースも多々あるそうです。
不思議なのは、古事記、日本書紀、万葉集が世に出されて百年も経たないうちに読み方がわからなくなりつつあったことです。
平安時代にはそのため日本書紀をどう読めばいいのかという講習会のようなものまで開かれていました。
時代を現在に戻して考えてみてください。
今から百年前といえば明治時代です。そのころに書かれたものを私たちは読めませんか? 読めますよ。
夏目漱石の小説なんかはちょうどそのころに書かれたものです。それを読めないという日本人はあまりいないでしょう。
では、古代では百年前に書かれた文をなぜ読めなかったのでしょうか?
私が素人なりに考えるのは、古事記・日本書紀・万葉集がまとめられた時代に文字を書いたり読めたりできたのは渡来人かその子孫に限られていたのではないかということです。
ということは、古事記と日本書紀は古代韓国語で書かれていたのではないか。
しかし、古事記・日本書紀・万葉集の時代から年月が経つうちに、渡来人たちの言葉と日本人の言葉が混じり合い、日本語が大きく変化していったのではないでしょうか。
古事記・日本書紀・万葉集がまとめられたころ、日本の政府の中枢部は渡来人が握っていたようなものです。それほどたくさんの渡来人が日本にはいたのです。当時の記録には、奈良の確か明日香だったと思いますが、そこの人口の8割が渡来人かその子孫だったということです。
それほどたくさんの渡来人が日本にいたので、元から日本にいた日本人も古代韓国語をかなり身に付けていたでしょう。
いや、もしかすると、そんな努力の必要もないほど、古代の韓国と日本の言葉は似ていたのかもしれません。
そういえば、日本書紀だったかに、新羅の使節が来たので通訳を付けたとか、新羅に行くので通訳を連れていくといった記述がありました。しかし、伽羅と百済と高句麗に関してはそういう記述がないのです。
(当時の朝鮮半島は北に高句麗、東に新羅、西に百済、南に伽羅〈加羅や伽耶とも書き、カラとかカヤと呼ぶ〉があった)
ということは、当時の日本で話されていた言葉は伽羅や百済や高句麗でもだいたい通じたのではないでしょうか。同じような言語だっのではないでしょうか。
違っていたにしても、例えば東北弁と関西弁の違いくらいだったような気がします。
少なくとも、政治家や役人、高等技術者の使用していた言語は朝鮮半島の新羅以外の言語と非常によく似ていたと私は思うのです。
それらの人々の多くは渡来人かその子孫か、あるいは渡来人関係の人たちの影響を受けた人たちだと思うので、伽羅や百済や高句麗と似た言葉を使っていたはずです。
古事記や日本書紀はそうした知識階級の人たちが書き、万葉集におさめられた歌を万葉仮名で表現したのもそれら知識階級の人たちだったと思われるので、とすると両書の言語は古代韓国語だったと考えても間違いではないかもしれません。
しかし、万葉集が編纂された時点で、意味がわからないまま万葉仮名で書き表わしたと思われる歌が万葉集にはあるのです。当時の知識階級に通じなかった歌は、おそらく渡来系の人の知らない原日本語とも言うべき言葉で謳われた歌だったのでしょう。
万葉集には編纂当時よりもずっと昔の歌もたくさん組み入れられているので、そのような歌は渡来系の人には理解できなかったのかもしれません。あるいは、都から遠く離れた地方の防人(さきもり)や庶民の歌もおさめられているので、そうした地方の言葉も渡来系の人にはわからなかったのではないでしょうか。
と、素人の勝手な推理をしてみましたが、そんなに間違っているとは思いません。
しかし私は、「万葉集は古代韓国語で書かれているので、あれは韓国のものも同然である」という韓国人の主張には賛成できません。
万葉集の中には確かに古代韓国語で読める歌があると思います。古代韓国語で読まないと意味不明な歌もあると思います。しかし、全部が古代韓国語だとは思えません。
ですから、万葉集については、日本語として読んで無理なく意味の通じる歌は日本語で読み、日本語で読むと何がなんだかさっぱりわからないという歌については、古代韓国語や原日本語(おそらくアイヌ語に近いと思う)で読んでみるのがいいのではないかと私は思います。
韓国で生まれ韓国で育った人たちが近年、多くのスポーツ分野で日本人選手を脅かすようになったその原動力のひとつは教育にあるという話から、いつの間にかだいぶ脱線してしまいました。
私の考えを簡単にまとめると、彼ら韓国人のパワーのミナモトは、日本人に負けたくない、負けてなるものかという競争心ではないかということです。
辛い植民地時代を経験し、国を奪われ国を失い、誇りさえ剥ぎ取られた彼らの怨念のようなものが、「日本人に負けたくない、負けてなるものか」という感情になり、そこから日本や日本人を不当に貶(おとし)める言動をするようになり、それにより自分たちを高みに引き上げている……私にはそんな気がしてなりません。
例えば「日本語は古代韓国語だ」と主張する韓国の学者と日本の学者が討論しようとしても、向こうが感情的になるのでまともな議論にはならないそうです。
韓国人にしてみれば、これまで日本に折り敷かれてきた屈辱を晴らすため、ついつい、針小棒大になっても日本を低く貶めたり攻撃したり過去の悪政を非難したりするのでしょう。
それほど彼らの感情は屈折してしまっているのです。屈折させたのは私たち日本人ですが…。
韓国では日本のことを陰ではいまだに「倭」と呼び、日本人を「倭奴(ウエノム)」と呼ぶといいます。天皇のことは新聞でさえ「倭王」と書きます。「日本海」を「東海」と呼び、「日本海」という名を変えるべきだと息まきます。
彼らの受けつづけてきた苦難と屈辱のことを想えば、日本に対するそれらの気持ちが痛々しくさえ思えてきます。
一衣帯水の隣国と素直な気持ちで会話も討論もできないなんて、何と悲しいことでしょう。
しかし、近年は特に若者の間で日韓の交流が増えているようです。
個人で訪韓したり訪日したりしているなんていう話を聞くと私は涙ぐんでしまいます。
日本の映画や歌が韓国で観られるようになり聴くことができるようになり、また韓国のスターたちが日本で活躍したりするようにもなり、そんな姿を見ていると、韓国の人々があの忌わしい時代の屈辱の記憶を次第に薄れさせてくれているのかなと思い、嬉しくなるとともに感謝したくなります。
ヨン様ブームが巻き起こっていきなりのように韓流ブームが花咲きました。あの現象も嬉しかったですね。
これから韓国は、スポーツの分野だけでなくあらゆる分野でもっともっと活躍するようになるでしょう。
かつて、敗戦国の日本が戦勝国のアメリカに追い付き追い越したのと同じような事態が訪れるような気がします。いや、すでにそうなっている分野がかなりあるのではないでしょうか。
うかうかしていると日本は韓国のお尻を追い掛けるようなざまになってしまうかもしれません。
そんな時代が来たら今度は日本が韓国を敵視して悪口を言ったりするのかな?
いやいや。そんなことはないでしょう。日本人はおとなしいですからね。
でも、私はそれでいいと思っています。彼ら韓国人が日本を許してくれるのなら。
韓国と日本がさまざまな分野で争うのは悪いことではないと思います。お互いに切磋琢磨して向上していくことができれば、そんなにいいことはありません。
ただ、これまでのように暗い陰鬱な感情を元にした争いはもうこのへんで終わりにしましょうよと言いたいと思います。
そんなことをまだ続けていたら、両国にとってマイナスになってもプラスにはならないと思います。
そのためにも日本の政治家は韓国にきちんと謝罪しつづけてほしい。払うべき賠償金はきちんと払ってほしい。韓国人を刺激するようなこと、例えば首相の靖国神社参拝といったことは極力控えてほしい。そう願います。
韓国の方たちにもお願いがあります。あなたたちはイデオロギーを非常に重視して議論で相手を打ち負かすことを得意とする民族です。その点では日本人はあなたたちの相手になる力を持っていません。
それはいい。ただ、そのイデオロギー論争みたいな強烈な口調で感情論を展開するのはやめませんか? 日本と日本人を蔑(さげす)むための感情論を聞いていると、私はとても悲しくなります。
日本はかつて韓国の皆さんに大変なご迷惑をかけました。迷惑なんて生やさしいものではなく、大屈辱を与え、あなたたちの国土だけでなく誇りさえ奪いました。
本当に申しわけありませんでした。
かつての日本のそうした悪事について、今の日本の政治家の多くは謝罪さえしません。日本人として私は彼ら政治家の厚顔を深く恥じます。
私が謝ってもどうにもなりませんが、本当に申しわけなくて私は韓国のあなた方に顔向けできないとさえ思っています。
こんなふうに考えている日本人もいるのです。たぶん、結構いるのではないかと私は思っています。
そして今や両国の若者たちが、過去を忘れてなのか、過去を知らないせいなのか、とにかく仲好く手をつなぐことができるようになりました。
私はそれが嬉しくてなりません。これを書きながら涙が出てきて画面が見えなくなって困ります…。
韓国の皆さん、これからも私たち日本人と仲好くしてください。お願いします。
何だかえらく涙もろいヘンなオジサンの主張になってしまいました。
でも、皆さん、そう思いませんか?
日本に一番近い隣国なのに、その国と仲好くできないなんて、こんなに辛く悲しいことはないと思います。
実は私、韓国のことがだいぶ好きみたいなのです。韓国人が好きというわけではないのですが、韓国人のお蔭で今の日本があると思うと、彼らに感謝してしまいたくなるのです。
というわけで、もう少し書かせてください。
これは別のページのどこかでも書いた記憶があるのですが、例えば、平安時代ころから関東を中心とする地方にあらわれた「武士」は韓国からの渡来人ではなかったと私は考えています。
その「武士」の台頭によって日本の歴史は大きく変化し、「名こそ惜しけれ」という倫理感覚が日本人の間に急速に広まって、なよなよしていた日本人が急に凛々しくなりました。
それは韓国からの渡来人のお蔭だと私は信じてしまっているのです。
歴史の専門家の皆さんには納得できかねる考えかもしれません。
しかし、これもどこかに書いた記憶があるのですが、サムライの語源が古代韓国語の「サム・レンイ」(戦士の意)にあるという説は十分に説得力があると私には思えてならないのです。
サムライの語源の定説は「さぶらふ」という言葉からから来ているという考えである。公家を護衛するため貴族の近くで「さぶらふ」のが「サムライ」の語源になったというのである。確かに昔の武士たちは自分の農地を安堵してもらうためにも官位をもらうためにも公家のそばに侍って護衛のようなことをしていた。今で言えば役所に入り浸たって官僚たちの機嫌を取る企業戦士というところか。しかし、それだけが「サムライ」と呼ばれるようになった要因とは私個人には思えない。「さぶらふ」が「はべる(侍る)」になり、そこから「侍」という文字を彼らに当てるようになったような気はするが…。だいたい都で公家の周辺に侍っていた武士は武士団の棟梁たちで、彼らの祖先の多くは公家出身である。例えば清和源氏は清和天皇の子孫が天皇家から出て臣籍、つまり家来になって続いた家系である。それが武士団を束ねたわけだが、束ねられた武士たちは公家とは関わりがない。私の考えでは彼ら武士団の主力が渡来人家系の人々だったのではないかということである。であれば、「サムライ」という言葉が朝鮮半島からもたらされた言葉に由来していると考えるのに無理はないと思う。なお、武士は関東だけでなく北九州などでも同時期に発生したという説が今は出てきているようだ。朝鮮半島からの渡来人の多くはまず北九州に上陸することが多かったようなので、そこで開墾して大農場主になった「サム・レンイ」たちもいたのかもしれない。
関東地方には、古代からたくさんの朝鮮民族が渡来しました。
その渡来人たちの墓と思われる古墳が今の埼玉県や群馬県等には滅茶苦茶たくさんあり、高麗神社などの渡来系の神を祭る神社も多数あります。
古代の関東地方の開拓は、そうした渡来人たちが主に行ったのだろうと思います。
朝鮮半島からの渡来人のうち、百済や伽羅からの渡来人は関西地方に入植することが多かったようですが、新羅や高句麗からの渡来人は関東に入植することが多かったようです。
当時の日本は百済や伽羅と親しかったので、まず百済と伽羅系渡来人を優先的に受け入れ、当時の中央であった近畿地方に入植させました。新羅や高句麗との仲は良くなかったので、それらの渡来人を受け入れるときは関東のような僻地に入植させたようです。
また、新羅や高句麗から船を出すと北陸地方に漂着することが多いらしいので、勝手に海を渡って日本にやってきた人々は北陸や山陰地方を開拓するか、山を越えて諏訪湖周辺、そして関東地方に入り込んだケースも多数あったことでしょう。
私はそれら新羅人や高句麗人たちが「サム・レンイ」という言葉を日本に伝えたのではないかと想像しています。
同時に、関東から東の地方の古代日本語にかなり大きな影響を与えたのではないかと思っています。
もちろん渡来人は関西にも多数やってきました。関西地方には百済・伽羅系の言語が古代日本語にかぶさったはずです。
前述したように当時の百済・伽羅・高句麗系の言語が古代日本語とほぼ同じだったのはそのためかもしれません。
渡来人はいきなり日本の官僚として働くことが多く、それが当たり前のように行われていたということは、百済と伽羅、つまり今の韓国西部と南部と当時の日本はやはり同一文化圏であり、言語も似通っていたと考えるのが自然です。
また脱線しますが、大胆なことを書いてしまうと、日本の天皇家の祖先は伽羅か百済からやってきた王族だったと私は考えています。理由を書くと長くなるので省きますが、その可能性が非常に大きいことは誰もが認めざるを得ないと思っています。
ひとつだけ例を挙げると、伽羅の始祖神話と日本神話がひどく似ているのです。
日本神話で有名なイザナギさんをご存じでしょうか。イザナミと結婚して日本の国産みをした神様です。
ところが伽羅の神話にもイザナギと似た名前の神様が登場するのです。
漢字なので当時どのように発音したか不明ですが、今の発音だと「イジンアギ」と読めます。これが「イザナギ」に訛ったのではないかと私は思います。
また、日本人が後に朝鮮半島全体をカラと呼ぶようになり、ついには中国までもをカラと呼ぶようになったのは、日本人にとって最初に意識した海の向こうの国が伽羅だったからではないでしょうか。
韓国の考古学者の発掘によると、伽羅地方の王族の墓は、4世紀に突然変わっているという。それまでの墓がとりつぶされて新しい墓がその上に築かれているのだそうである。これが事実だとすれば侵略者によって墓が壊されたとしか考えられない。同時期、日本列島の今の大阪付近に大古墳が次々とできた。やや離れた2つの地域で起こったこの出来事に相関はないだろうか。私はあると思う。おそらく伽羅の王族が侵略を受けて日本列島に亡命したのだろう。後の世に応神とか仁徳と呼ばれた権力者がその亡命者だったのだと私は考えている。
奈良の都の「ナラ」が韓国語なのははっきりしています。現在の韓国語でもその意味は「国」です。
他国語で国を意味する言葉を自分たちの都の名前に使うなんて、おかしいと思いませんか? 今でいえば日本の首都に「カントリー」とか「ステーツ」と名前を付けるようなものです。
そんな不自然に見える命名をしたのは、奈良の都を作ったのが渡来人たちであり、当時の政府は、日本政府というよりは朝鮮半島西南部から日本列島にかけての一帯を同一文化圏とするものだったと考えたほうがいいように私は思います。
また、「百済」を「くだら」と発音するのは「クンナラ」から来ていると考えられます。その意味は「大きな国」です。百済と書いてそう発音したのはおそらく百済からの渡来人たちだったでしょう。
また、「アスカ」も古代韓国語です。「安らぎの宿」といった意味があるようです。渡来人たちが名付けそうな雰囲気の名前です。
付け加えると、「アスカ」の「スカ」は「ソガ」にも通じるといいます。
とすれば中臣鎌子(なかとみのかまこ=のちの藤原鎌足で藤原氏の繁栄の礎を作った)と天智天皇(当時は皇太子で中大兄皇子)に滅ぼされた蘇我氏は百済系か伽羅系の渡来人かその子孫だったのかもしれません。
ちなみに、当時のことを記した文献は日本書紀しかないのでその記述から推測するしかありませんが、日本書紀は鎌足の子孫の藤原不比等(ふじわらのふひと)がまとめたようなものなので、鎌足のことを悪く書かないでしょうし、不比等時代の天皇家にとって困るようなことも書かなかったでしょう。
このことなどから私は、蘇我氏は実は天皇家で、天智が鎌足と謀って天皇家を乗っ取ったのではないかと推測しているのです。あるいは、天智と蘇我が政権争いをし、天智が勝ったということなのかもしれません。
もっと書くと、蘇我氏に近かった聖徳太子は、日本書紀にスーパーマンのように記されていますが、これも不比等の都合ででっち上げたフィクションだと私は思っています。
聖徳太子は実は蘇我馬子で、天皇だったと私は思っているのです。
聖徳太子は後の世の呼び名であり、彼が生存した当時は厩戸皇子(うまやどのみこ)と呼ばれていたと日本書紀に書かれています。馬子と厩戸皇子は名前が似ています。馬子は「鞍作(くらつくり)」とも呼ばれていたので、馬とは非常に縁があります。厩戸皇子は母親が厩戸の前で産気づいて生まれたと記されているので、これまた馬と非常に縁深いものを感じます。
彼ら2人が同一人でないとしても、半島から渡来した騎馬民族系の人たちかその後裔ではなかったと私は思います。
日本書紀は蘇我氏が聖徳太子一族を滅ぼしたと書いていますが、これは、蘇我入鹿(いるか)を殺した鎌足たちのクーデターを義挙に仕立て上げるために不比等が考えた複雑なフィクションだと思います。
何でそんな複雑なウソを作り上げて日本書紀に盛り込んだんだ? そこまで蘇我氏を悪者にしなくてはならなかったのはなぜなの? そこまでしなくても鎌足の悪業を隠すことはできたのではないか…という疑問を持つ方もいるでしょう。私も同じ疑問をやや持っています。
しかし、さまざまな資料を検証し、そこから推測を積み重ねていくと、「聖徳太子は実は蘇我馬子で、天皇だった」と考えるのが最も自然だという結論に落ち着くのです。
その理由を書くとべらぼうな文字数が必要になるなので、ここでは省略します。
なにしろ、「韓国と日本」について書き、韓国人が多方面で活躍しはじめ日本を脅かすまでに著しく成長してきている秘密に迫ろうとしただけなのに、ここまででえらく長い文になってしまっていますから…。
ひとつだけ書いておきます。蘇我氏の人々の名前のことです。
蘇我馬子と入鹿は有名ですね。当時は動物の精気をもらってたくましく育ってほしいという理由で子供に動物の名前を付けることが結構あったそうです。ですから馬子と入鹿はそうヘンだと思わないのですが、蘇我氏には韓子(からこ)とか高麗(こま)とか蝦夷(えみし)といった名前もあるのです。韓子や高麗は蘇我氏が渡来系だと示したいがために不比等が付けた名前だとも考えられなくもありません。なぜなら、不比等あたりの時代になると日本は渡来人をあまり優遇しなくなっていて、逆に下に見ようとする動きさえ出てきているからです。つまり、外国人だとあまり尊敬されなくなっていたのです。「蝦夷」という名前はひどいですね。これはどう見ても本名ではなく、不比等あたりが悪意を持ってそういう名前をこしらえたとしか私には思えません。
つまり、いわゆる悪字で蘇我氏の印象が余計に悪くなるように不比等たちが操作したという印象が強いのです。
それはともかく…。
ここまでの文章を読んで、古代の日本にはいかに渡来人が多かったかということを知っていただけたと思います。
また、その渡来人の多くが韓国人(正確に言うと朝鮮半島人)だったろうということも納得していただけたのではないかと思います。
そして、当時の日本は韓国と同一文化圏にあり、両国の人はお互いに大いに行き来し、「同じ国の住民」だと認識していたというのは言い過ぎだとしても、まったく別の国の人間だとはお互いに認識していなかっただろうことは十分に推測できます。
日本列島に昔からクニを築いていた人々と、多くの渡来人との合作が大和朝廷なのではないでしょうか。
「ヤマト」を「大和」と表記したのは、大和朝廷が各地から集まった豪族たちの連立政権だったからではないのかと私は考えています。
つまり、勢力の拮抗したいくつかの大集団が、お互いに争いを避けて協力し合って政治を行っていくためには団結が必要であり、その基本が「和」だと考え、多くの集団が「和」で結びついた形を「大和」と表記したように思うのです。「和」は日本のもともとの呼び名である「倭」と通じますしね。
当時、中国は日本(といっても当時は北九州地方に限定していただろう)を「ワ(倭)」と呼んでいた。当時の北九州地方には「ワ」というクニがあったのかもしれない。同時に「ヤマト」というクニが別にあったのか、「ワ」が「ヤマト」と同じなのかはわからない。しかし、やがて統一政権を作った権力者は自分たちのクニを「ヤマト(大和)」と呼んだ。
朝鮮半島の伽羅地方にはミオ(ヲ)ヤマトという部族国家があった。これはいわゆる「魏志倭人伝」に出てくる。このミオ(ヲ)ヤマトというクニが「大和」のルーツではないかと私は思っている。ミオ(ヲ)ヤマトの権力者が日本列島に渡って土着したとき、その地の名前を「ミオ(ヲ)ヤマト」から取って「ヤマト」としたのではないか(「ミオ(ヲ)」は「ヤマト」を修飾するする、例えば「美しい」とか「大きい」といった言葉だと思われる)。
九州には「ヤマト」と発音する地名が今でもたくさんある。今の近畿地方にもある(「大和」が代表)。ミオ(ヲ)ヤマトの王族は初め九州に落ち着き、その子孫がやがて近畿に移動したのだと私は思う。そして「ヤマト」が主要豪族を束ねて統一政権を作ったとき、自分のクニの名である「ヤマト」を称したのだと思う。
「大和」という文字をそれにあてたのは、ヤマトが単独過半数の強力政権ではなかったために、他の豪族との協調を意識してのことではなかったか。天皇家は豪族の雄だったとはいえ、他の豪族に遠慮せざるを得ない体質を当初から持っていた印象がある。それは天皇家が朝鮮半島からの渡来系であったためなのか、それとも単に勢力がそれほど大きくなかったからなのかはわからないが、いずれにしても他の豪族との合議制で政治を行っていたようである。
聖徳太子が作ったといわれる十七条憲法の第一項にある「和をもって尊しとなす」という言葉は有名である。和を第一義にしてみんな仲好くやりましょうという意味だろう。そんなことを国の憲法の第一項にもってきたのは、力のある豪族たちがたくさんいて束ねにくい状況があったからではないか。だから、「和」が何よりも重要だと認識し合う必要があったのだと思う。「大和」という国名には、「大いなる我ら豪族がみんなで仲好く運営している素敵な国なんだよ」という主張があるように思えてならない。
ついでに書くと、独裁的な権力者が日本に育たないのは(独裁者が現れても暗殺される。例えば織田信長や井伊直弼)、大和朝廷という最初の権力構造が連合政権的なものだったことにあるのかもしれない。現代の永田町まで続くこの国の権力構造(ひとりの人間に権力が集中しない体制・根回しや談合で物事を決めるやり方等)を概観するとそんな気がしてくる。
またまた大きく脱線してしまいました。
私が言いたいのは、日本の関西圏に大きな影響を及ぼしたのは百済・伽羅・高句麗系の言語であり、関東圏に影響したのは新羅・高句麗系の言語ではないかということです。
「サム・レンイ」という言葉は、もしかすると新羅・高句麗系の古代語だったのかもしれません。新羅はともかく高句麗という国は唐の大軍と何度も闘って撃退したような凄く戦争に強い国でした。「サム・レンイ」すなわち「戦士」にいかにもふさわしい国ではありませんか。
海の向こうからやってきたその「戦士」たちが日本の歴史を変え、日本に気付け薬を注射してくれたような気がしてなりません。
韓国人の多くはそういう気迫溢れる「戦士」たちなのです。韓国人が多方面で活躍しはじめ日本を脅かすまでに著しく成長してきている秘密はそこにもあると思います。
これは日本が見習うべきものだと思います。
今年のWBCで見せた韓国人選手の気迫溢れる姿を見ていたら、彼らこそサムライだなと私は感じました。
今年の日本チームは「侍ジャパン」として世界に挑みましたが、気迫では韓国チームに常に負けていたように私には感じられて仕方がなく、「サムライ」の名を冠するのは日本ではなく韓国のほうこそふさわしいと思っていたのです。
決勝戦で日本が韓国に勝てたのは、何か凄い運を持っているとしか思えないイチローという特殊な選手が日本チームにいたからではないか…。もちろんイチローは精神的にも技術的にも世界屈指の大プレーヤーですが、その上にさらに何か持っている人だなあと思わざるを得ません。
WBCではあんなに打てないで胃潰瘍になるまで神経を磨り減らせていたのに、日本対韓国の決勝戦の最後にあの見事なタイムリーを放つなんて、技術や精神力を通り越した何かを持ってないと説明できないように思います。昨日は昨日で張本勲の持つ大日本記録に満塁ホームランで並ぶなんて、ちょっと普通じゃないですよ。
以上、自説を書きましたが、これは歴史の素人の私AICHAN個人の勝手な推測です。歴史や語学等の学者先生方にあらかじめ言っておきます。あまり本気にしないでください。
そして、腹が立っても罵倒メールとか寄越さないでくださいね。それは「日本人のルーツは?」「日本人のルーツ再考」を書いたときに何通もの罵倒メールをいただいて、ホントにもうウンザリさせられましたから。
特に今の私はウツが良くなって間もないので、罵倒メールなんかもらったらウツに逆戻りしてしまいそうです。
だから学者先生方にくれぐれもお願いします。罵倒メール、お叱りメールだけはどうかこらえてください。よろしくお願いいたします。
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