〈不思議な日本語〉

●不思議な日本語 (4.15/09)

 実は私、日本語について20歳代後半からずーっと考え込んできました。
 私は英語さえ満足に理解していない外国語オンチなので外国語と日本語の違いを明確には知りませんが、日本語ほど不思議な言語はないのではないかと考えつづけてきました。

 例えば、外国語では主語と述語が明確に存在すると思います。
 ところが日本語の場合、主語のようなものはありますが、厳密に考えると果たして主語と呼べるものがあるのか疑問だと思うのです。

 日本語を話す私たちが普通「主語」だと思っているのは「私が」とか「私は」とかいう言葉でしょう。
 では、「私が」「私は」を主語にした文章を考えてみます。「私がAICHANです」とか「私はAICHANです」といった文が思い浮かびます。
 ここでよく考えてみてほしいのです。「私がAICHANです」と「私はAICHANです」は同じような文のように思えますが、よく考えると微妙に違う意味の文であることに気付くでしょう。

 「私がAICHANです」は、私のほかにそこに数人いて、その中から手を上げて「私がAICHANです」と名乗っているような印象を受けませんか? それに対して「私はAICHANです」は、「私はachaではなくAICHANです」といったことを伝えたいときによく使う印象を持たないでしょうか。
 もしこの2つの文を英訳すれば、どちらも「I am AICHAN」とか「My name is AICHAN」となるような気がします。
 日本語の「が」と「は」は、外国語では正確に翻訳しにくい難しい存在なのではないでしょうか(韓国語にはこの「が」と「は」と同じ働きをする助詞があるそうだが)

 ところが私たちは、この「が」と「は」を無意識のうちに使い分けています。使い方を間違う日本人はあまりいないと思います。
 そのくせ、「が」と「は」はどう違うのかと聞かれて、すべての人に納得される解答のできる人はいないのではないでしょうか。
 国語学者たちがこの問題に答えている書籍を数冊読みましたが、いずれも万人を納得させられるものではないと私は思いました。

 初めに提示した「私がAICHANです」のように「が」を使う場合のその意味は、他と区別して強調している感があります。
 また、「が」は「の」と同じような意味で使ったりもします。例えば「君が代」です。この歌の題名は「君の代」という意味でしょう。ちなみに君とは、もともとはどうだったか知りませんが、国歌になってからは天皇を指しているはずです。
 このほかにも「が」にはもっと別の使い方もあり、それらをひっくるめて「が」とは何なんだと考えると、私の頭は混沌としてきます。

 「は」も同じようにいくつかの使い方があります。
 「私はAICHANです」のように使う場合は、「が」と同様に他と区別しようとしている印象があるものの、「が」のような強調は感じられません。
 さらに「は」にはとんでもない使い方があります。

 「私は目があります」という文を考えてみてください。この文の中のどれが主語でどれが述語なのでしょうか?
 これを英文にするとしたら「私は目を持っている」という意味の文で書くでしょう。
 ということは、「私は目があります」という文で「私は目を持っている」という意味を表すことが日本語ではできるわけです。

 主語や述語がない、というか、それらしきものはあるものの、外国人にしてみたらとても文とは思えないような文法滅茶苦茶の文なのに、それでも相手に十分伝わるのが日本語なのです。

 「私には目があります」と書けばわかりやすくなりますが、そのように書き直しても、主語らしきものはあるけどどうかなぁ…と悩むのではないでしょうか。

 また、「私は、アメリカンコーヒーです」という文はどうでしょうか。
 この文でもどれが主語でどれが述語なのか考えてみてください。
 どうでしょうか、頭がこんがらかってきませんか?

 本来は「私は薄目のアメリカンコーヒーを好みます」とでも言うべきでしょう。それを省略して「私はアメリカンコーヒーです」と言っても日本語は通じるわけです。

 日本語では主語を無意識に省くことが非常に多く、単語や文章を縮めて書いたり話すことも非常に多い。最近の若い人の省略癖はものすごく日本的だと思います。
 日本語は日本列島という狭く限られた小さな島で育った言語なので、「私は」「彼は」といちいち主語を明確に示さなくても自分の言いたいことや書きたいことを伝えることが可能だったという面があるでしょう。
 また、あまりにも狭い地域にごちゃごちゃと人がたくさん住んで近所付き合いが煩雑になったり、集団で協力して行う稲作という生業が多くの人の日常の仕事だったことが、自分の属する集団の中で上手に生きていくために「仲間の反感を買わない」ことを目的に「はっきり言わない」「ぼやかして言う」習慣がだんだんでき上がり、「主語」を省略したりするようになったのかもしれません。

 私は昔、編集の仕事をしていた初期、同じ編集部のスタッフがあまりにもいい加減な日本語の記事を書くのに腹を立て、「日本語の文章の書き方」というテキストをまとめてみんなに配ったことがあります。
 そのテキストで強調したのは文法でした。
 文法というと難しいという印象を持たれますが、それは国語教育が悪いからだと思います。文章や言葉は、もともとは自分の気持ちや事件を誰かに正確に伝えるために生まれ発達したものだと思います。なのに文法が難しくては正確な情報伝達は望めません。
 そう考えていた私は、「わかりやすい日本語をわかりやすく書くための文法」をそのテキストにまとめたのです。

 同時に、当たり前の知識として「主語と述語」のことについても書きました。
 そこでも「が」と「は」の違いについて書いたものの、「私が」とか「私は」を「主語」として扱いました。当時はそのことに疑問を持ちませんでした。

 しかし、その後、より深く考えるようになり、「私が」とか「私は」を「主語」として扱ってよいものかと真剣に悩むようになったのです。

 このような考え方をする国語学者が今はいるようです。そういう人たちは、日本語でいう「主語」は外国語でいう「主語」とは微妙に違うので、「主語」と呼ぶのは適切でなく、「主格」とでも呼ぶべきだと主張をしています。
 私も今はそう思っています。

 また、日本語はウラル・アルタイ語の仲間で膠着語(単語と単語を助詞でくっつけて文を構成する言語)だというのがこれまでの定説でした。膠着語の仲間にはモンゴル語や韓国語やトルコ語等があります。これらの言語は文法も似ていて、韓国語などは特によく似ていて、遠い昔に同じ言語から分かれたか、同じ言語の影響を多大に受けたと考えたほうが自然です。しかし、では日本語はウラル・アルタイ語だけで成立したのかというと、どうも違う。それだけでは説明できない生理が日本語にはあるのです。

 難しい説明は省きますが、日本語の成り立ちは日本人の成り立ちと相通じるはずなので、東西南北からさまざまの民族がやってきて成り立ったのが日本人だと考えれば、どこかひとつの言語が土台になってそれが主力となって日本語になったと考えるよりは、何か土台になる言語はあったものの、その後、その言語にさまざまな言語がかぶさって掻き回されて踏みつぶされて均されて日本語になったと考えたほうが説得力があるのではないかと私は思うようになっています。

 おそらく、日本語の原形は縄文人たちの言葉だったでしょう。縄文人自体が北から南から西からとあちこちから来ていると思われるので、それらがこの列島の中で長い年月のうちに混ざりあって原日本語ともいうべき言語が誕生していったのだと思います。
 そこに大陸から稲作技術を持った多数の弥生人がやってきました。そこで日本語はまた撹拌されたのだと思います。
 さらに古墳時代になって朝鮮半島から権力者たちがやってきて、私が考えるには今の天皇家の祖先として君臨しました。彼らの言葉も、元の日本語に抱きかかえられるように混ざっていったはずです。
 混じり合うのを嫌って自分たちの集団だけでまとまって生活を続けた人たちの言語は、その後も原日本語の名残りを多くとどめる言葉として今に続いたと思います。それがおそらくアイヌの人々の言葉ではないでしょうか。
 アイヌは謎の民族と言われ一時は白人だとの説も持たれましたが、今ではれっきとしたモンゴロイドだということがほぼ証明されています。しかも古モンゴロイド、つまり南方系のモンゴロイドです。
 モンゴロイドはもともと南方系で、北方に移動して寒冷地適応を遂げたのが新モンゴロイドであり、それに対して元のモンゴロイドを古モンゴロイドと呼びます。縄文人の主流はこの古モンゴロイドなのです。
 アイヌ民族は現在では北海道や千島、サハリンなどの北方に暮らしていますが、もともとは南方型です。南方型のアイヌが北方で暮らすようになったのは、寒冷地適応を遂げないまま北アジアに移動して北から北海道に移動したということも考えられなくありませんが、おそらくは元から日本列島全体に住んでいたのが、弥生時代前後に大陸から大量に日本に移動してきた新モンゴロイドに追われて北方に移動したためと考えたほうが無理がないと思います。
 新モンゴロイドは北九州や山陰地方に上陸し、瀬戸内海から近畿地方にかけて勢力を伸ばしました。そして彼らは今の大阪や奈良に政権を打ち建てました。そう断言できるひとつの理由は、現在の近畿地方の人の遺伝子が現在の韓国人の遺伝子に酷似していることにあります。
 つまり大和朝廷は朝鮮半島からの渡来者による政権だったのではないかと思われます。その政権に、土着の縄文人たちは生活圏を奪われ、西日本から追われたのでしょう。
 アイヌ民族と同じように追われた民族に熊襲や隼人があります。彼らは南に移動し九州南部にかたまりました。その一部は琉球(沖縄)に渡ったに違いありません。
 「違いない」などと言い切るのは、現在の沖縄地方の人も縄文人、言い換えると南方型モンゴロイド、古モンゴロイドの特徴を色濃く備えているからです(だからといって彼らが南方から琉球列島にやってきたとは考えにくい。彼らの言語が日本語から分かれたことが証明されているからである)。
 南方型モンゴロイド、古モンゴロイドの特徴というのは、身体は小柄で顔は掘りが深く毛深いといったことです。日本書紀等には熊襲や隼人の特徴として「毛深い」ことが盛んに記されています。彼らもおそらく南方型モンゴロイド、古モンゴロイドだったのだと思います。そして、この特徴はアイヌ民族にもピタリと当てはまります。
 つまり、もともと日本列島に住んでいた縄文人は、ある時期に大陸から移動してきた新モンゴロイドに追われて日本の東部、北部、南部に押しやられ、その後の混血や環境への適応等によって小進化し、今のアイヌ民族や琉球民族になったと考えられます。
 とすると、アイヌ語が現在の日本語と無縁とは考えられなくなります。沖縄の言葉は紀元前に日本語の古語から分かれたことが研究によって明らかになっています。では、アイヌ語はどうか?
 アイヌ語は文法は日本語とほぼ同じで類似語もたくさん持っています。違う部分もたくさんありますが、違う部分に着目するのではなく同じ部分や似た部分に着目すると、かなり似ているそうです。沖縄の言葉も今の日本語とはかなり違う面も持っていますが、枝分かれしてから遠く離れて独自に変化してきたことを想えば、その程度の差が生じるのは当然だとも思えます。同じことはアイヌ語にも言えます。
 アイヌ語はおそらく日本語の底層となった言語だろうと私は考えています。
 大雑把に言うと、縄文人たちの言語が土台になり、その上に大陸系の言語がかぶさり、それで成立したのが今の日本語のルーツなのでしょう。
 近畿に政権を建てて日本を統一した渡来人の言語が日本語の主体になったとすれば、その言語は今の韓国語にかなり近い姿になったはずです。しかし、そうはなっていません。
 その理由は、縄文人の言語が土台として揺るぎなく存在感を持ちつづけたからではないでしょうか。移動してきた少数の部族が土着の大勢の部族を征服するとき、その土地の言語の生理は土着部族の言語のそれになるそうです。政治用語等(主に名詞)には征服者の言語が使われるようになるみたいですが、基幹は土着言語を踏襲するわけです。
 アイヌ語も琉球語も今の日本語と共通点が多いのはそのせいではないかと思います。
 どちらも縄文時代の原日本語から小進化して今ある形に変化してきたのではないでしょうか。

※この「喘息の吐息」の〈日本人のルーツは?〉と〈日本人のルーツ再考〉で私は、南インドのタミル語が日本語の成立に深く関わったのではないかと書いた。今ではやや疑問に感じているが、タミル語が東南アジアの言語とルーツを同じくするのであれば、あり得ない話ではないと思っている。日本列島に稲作を持ち込んだ主流は中国の揚子江南部からやってきたようで、当時の揚子江南部では中国語とはまったく違う言語が使われていた。その言語は今日のタイ語などの東南アジア語とつながるらしい。南インドはタイと非常に近いので、タミル語の成立と古代タイ語等の東南アジア語とがどこかでつながっていると考えるのはあながち無理な想像ではないと思う。だとすると、タミル語、もしくはそれとルーツを同じくする言語が稲作とともに日本列島に入り込み、それが今日の日本語のひとつの大きな基層になったことは十分に考えられるだろう。
 ともあれ、外国語には見られない特殊な生理が日本語に生まれ、どこにもない特殊な言語として日本語が育ってきたのは、縄文人の言語と大陸系の言語だけでなく、ほかにもいくつかの言語が混ざり合い、ときには衝突して激しく撹拌されたりして、その結果、何とも怪しげな言語になった…。そんな気がします。
 それが日本語の正体なのではないでしょうか。

 と、なんか研究発表みたいになりましたが、私は学者ではなくただの一般人であり、上の話はただの茶飲み話の類いです。
 全国の偉い先生方、そんなヒマ人の説に大真面目で文句を言ってくるのはやめてくださいね。それは「日本人のルーツは?」「日本人のルーツ再考」を書いたときに数人の学者先生から痛烈なメールをいただいてもううんざりしていますから。
 特に今はウツが軽快したばかりなので、罵詈雑言だらけのメールなど見たらまたウツに逆戻りしてしまう恐れ大です。
 なので、くれぐれも罵倒メールはご遠慮ください。よろしくお願いします。  


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