●小説・恋人ゲーム―LEVEL 1 発端

恋人ゲーム

LEVEL 1

発端

 枕元のサイドテーブルの上で電話のベルが鳴った。いまどき珍しいダイヤル式の黒電話で、ベルの音は狭いワンルームの中でやかましく反響した。
 ベッドに腰掛けていた孝彦は、ベッドの横に置かれたサイドテーブルの上にジントニックのグラスを置き、食べかけていたピスタチオを飲み込むと、左右の眉間に皺を作りながら受話器を取った。
 麻由美からだろう。そう踏んでいた。だったら、どんな声のトーンと話題で彼女の声を迎えようか。孝彦は、考えるときのいつもの癖で眉をしかめ、受話器の中から流れてくるはずの声に耳を澄ませた。
 「……」
 沈黙があった。
 麻由美じゃない。孝彦は気付いた。彼女なら、こちらから声を出す前に明るい声で話しかけてくる。
 「もしもし」
 孝彦は電話の向こうの“女”が誰なのか思いをめぐらせた。今、夜の11時半。こんな時間に電話してくるのは親しい女しかいない。
 「もしもし」
 やはり女の声だ。どこかで聞いたことがある。しかし思い出せない。
 「誰だったか考えてるんでしょ?」
 女の声はくぐもっていて、甘ったるく湿っている。孝彦はからかわれているように感じた。
 「すンません!」
 孝彦は謝ってみた。下手に言い訳するよりはいい。そのほうが女のウケがいいことを彼は知っている。
 「どこかで会ってるよね?」
 孝彦は、努めて明るい口調を保ってそう聞いた。
 「ふふ」というような声を出して女は笑った。
 「ああ」
 その声で孝彦は相手の正体に気付いた。
 「香織ちゃんか」
 「覚えててくれたんですね」
 香織の声が急にトーンを上げた。いつもの彼女の声だ。
 孝彦はややシラけた。香織は会社の後輩である。孝彦の向かいのデスクに座っている。二週間ほど前に入社してきたばかりだ。デスクが向かいなので仕事中は親しく会話もするが、孝彦は何の興味も彼女に持ってはいない。
 香織は確か23歳だと言っていた。しかし、孝彦は最初に見たとき、30歳くらいかなと思った。髪の毛が天然パーマの上に量が多く、顔の印象が暗くなりがちなタイプだった。そこにものすごい近眼鏡をかけているため、よけいに老けてみえる。
 しかし話をしてみると23歳の女だった。29歳の孝彦は話題が若くてときどきついていけなくなる。
 ただ、時折、妙に世間慣れした様子を見せるのが気にかかった。また、笑うときの表情が気になる女だった。やや大きめの目を細めて口を閉じたまま微笑する。閉じた口の両端が吊り上がる。その表情は、笑っているようで必ずしも笑っていなかった。顔は笑っていても胸の中では醒めているように見える。彼女が笑う度、孝彦はそう感じていた。
 「どうしたの?」
 受話器の向こうで香織が微笑んだようだった。
 孝彦は電話の向こうの相手の表情を想像した。目は細まり、横一直線に伸びた口の両端は鋭く上にカーブして頬に食い込んでいるだろう。細まった目は受話器を持つ俺を冷静に見つめているに違いない。孝彦は重苦しいものを感じはじめた。
 「何か用?」
 孝彦はやや素気ない口調で聞いた。
 「いま高野クンと飲んでるんです」
 と香織は言った。舌足らずの甘ったるい声だ。
 「またか」
 孝彦は呆れた。
 高野も孝彦の後輩。香織はこの高野と毎日のように飲みにいっているらしい。同い年なので気が合うのだろう。朝まで飲んでいて二人揃って遅刻して出社することが度々ある。こんなことがあると普通はどういう仲なのか詮索されるものだが、二人の場合は誰もそういう詮索をしない。見るからにサバサバした付き合いなのだ。
 「一緒に飲みませんか?」
 今日は早く帰れよと言おうとしたら、香織がそう言ってきた。
 「冗談じゃないよ」孝彦は突っぱねた。「何時だと思ってんだよ」
 「11時半」
 「……」
 孝彦は耳から受話器を離して溜息をついた。こういう女との会話は疲れる。サイドテーブルの上のグラスをつかみ、一口飲んだ。氷と氷のぶつかる音がした。
 「あ、飲んでるんでしょ?」
 耳さとい女だ、と孝彦は癪に障ってきた。
 「悪いか」
 「寝酒?」
 「……」
 「ひとりで飲んでるんですか?」
 「ああ」
 「ホント?」
 「どうとでもとってくれ」
 「……」
 「あのな」と孝彦はたまりかねて言った。「今日は早く帰れ。そして明日は遅刻するな」
 「……」
 「今度遅刻したらやばいぞ、おまえら」
 「やばいって?」
 「……」
 遅刻が多い二人は会社から睨まれている。特に香織が睨まれている。彼女は孝彦と同じくライターの仕事をしている。文章力を買われて転職してきたのだが、実際に仕事をさせてみると大して戦力にならなかった。入社して二週間が経ち、部長や社長は採用したことを後悔しはじめていた。
 「クビになるぞ」
 「まさか」
 香織は笑った。いつもの笑い方ではなく、大声を出して笑った。自分がクビになるなど、本当に考えもつかないらしい。
 「とにかく、明日は遅刻するな」
 「学校の先生みたいね」
 香織の口調がまたくぐもってきた。からかわれているように感じ、孝彦は腹が立ってきた。
 「先生なら…」と香織が言った。「いけない生徒を家まで送ってくれないの?」
 「アホか」
 孝彦はいよいよ腹が立ってきた。
 「俺はもう寝るの。切るぞ。いいか、早く帰れよ」
 「……」
 相手が黙っている隙に孝彦は受話器を置いた。可哀想な気もしたが、こういう女に付き合っているとろくなことはないと思った。
 孝彦はジントニックのグラスを空け、残りのピスタチオをまとめて口に放り込んだ。そしてそのままベッドに倒れ込んだ。


 ベルが鳴り響いた。いつもと違う音だなと感じながら、孝彦は目覚まし時計に手を伸ばしてスイッチを押した。
 音はやまなかった。スイッチを押しても五分後にまたベルが鳴るという時計である。押し方が足りないとベルがとまらないことがある。孝彦は布団から手を伸ばして再びスイッチを押した。それでも音がやまないので、時計の裏側の目覚ましのスイッチを切った。
 それでもベルはとまらない。
 (電話だ)
 眠りから覚めてようやく気付いた。
 「もしもし」
 ベッドに上半身を起こして受話器を取った。起きがけで声がかすれた。
 「こんばんは」
 香織の甘ったるい声が聞こえてきた。
 孝彦はサイドテーブルのスタンドのスイッチを点け、目覚まし時計の針を見た。午前一時。先ほどの電話からほんの一時間余りしか経っていない。溜息が出た。
 「まだ起きてたの?」
 香織の声は呑気だ。
 「今度は何だ?」
 孝彦は苛ついた声を隠さなかった。
 「やだ、怒らないで…」
 舌足らずの甘い声だった。孝彦は自分の気持ちの揺れを抑えた。
 「もう夜中だよ」孝彦の口調はやや和らいでいた。「帰れよ」
 「今から…」香織は孝彦の言葉を無視して、さらに甘い、くぐもった声を出した。「そっちに行っていい?」
 「え?」
 眠気が消し飛んだ。
 「高野クン、帰っちゃったの」
 「……」
 「北四十二の東三ですよね?」
 「おい」たまりかねて孝彦は話をさえぎった。「バカなこと言うな。何時だと思ってんだ」
 「じゃあ」と香織の声は相変わらずくぐもっている。「朝ならいい?」
 「……」
 「それとも」香織は少し笑っているようだった。「迎えにきてくれますか?」
 「わかった」
 アパートに来られては取り返しのつかないことになると思った。そんな予感がした。
 「嬉しい」
 香織は静かに言った。内心はきっとほくそ笑んでいるのだろう。
 「今日だけだからな」
 自分に言い聞かせるように孝彦はそう言った。
 「高野クンには何も言いませんから」
 「はあ?」
 変な気を回しやがって。そう思ったが、高野には言わないほうがなるほどいいかもしれなかった。彼は女性関係の多い孝彦に不信感を持っているらしく、そのせいか孝彦には一定の距離をもって接してくる。こんな夜中に香織を迎えに行ったと知れば、いよいよ印象が悪くなるに違いない。
 「で、どこに行けばいいんだ?」
 孝彦はぶっきらぼうに聞いた。
 「月の法善寺横町」
 「え?」
 「って、暖簾に書いてあります」
 「ああ、今いる店の名前ね」
 「ピンポーン」
 「じゃあな、そのビルの南側の路地で待ってな」
 「南? 南ってどっち?」
 「北の反対」
 「からかってんの?」
 「怒るなよ。駅の反対側だ。ビルを出たら、そう、左のほうだな」
 「わかったわ。すぐ?」
 「ああ、30分くらいで行けると思うよ」
 受話器を置いて、孝彦は後悔していた。しかし、ここに来られるよりはいい。そう言い訳して身支度を始めた。


 ジーンズに白いTシャツ、その上に黒のダウンジャケットを羽織ると、孝彦はクルマのキーを持って静かに部屋を出た。
 ドアに鍵をかけ、狭い廊下を玄関に向かって歩く。両側にいくつもの扉が並んでいる。孝彦の足音がやけに大きく響く。廊下の物音は他の部屋に筒抜けなので、深夜に帰宅したり出かけるときは気を使う。
 孝彦はスニーカーの足音を忍ばせながら足早に玄関にたどりついた。ドアを開けると冷気が襲ってきた。そういえば先ほどのテレビの画面に、“今夜は水道凍結注意”のスーパーが出ていた。孝彦は長身の細い体をかがめて鉄製の螺旋階段を降りた。甲高い音が凍てついた空気を震わせた。
 凍りついた白い地面を踏むと、孝彦はアパートの脇の小さなスペースに回り込んだ。孝彦の愛車、パジェロ・メタルトップショートワゴンがどっしりと止まっている。ネイビーブルーとグレーのツートンカラーのボディーが闇に見え隠れしている。
 運転席に乗り込み、彼はイグニッションキーを回した。獣の身震いのような振動とともにエンジンが始動した。しばらくアイドリングさせてエンジンを温め、孝彦はギアをセコに入れてアクセルを踏んだ。
 東三丁目の路地を南に出て北四十二条通りを右折する。東一丁目を過ぎると創生川沿いの広い石狩街道に出る。パジェロは左折して南に向かった。
 南行きの車線にクルマの通りはほとんどない。創生川を挟んだ北行きの対向車線には、南から次々とタクシーが上ってくる。ススキノ帰りのサラリーマンやOLが乗っているのだろう。
 北四十条、北三十条、北二十条と南下し、北一条を越すと大通りになる。次は南一条。南五条の大きな交差点を右折すると、目の前が途端に明るく輝く。ススキノのネオンだ。
 ネオンの下をかいくぐってパジェロは目的のビルの南側の路地に入った。左にラブホテルが並び、右に飲食店ビルが続いている。パジェロは目的のビルをすぐ右側に見上げる場所に止まった。
 孝彦はヘッドライトを消し、三連メーターの時計を見た。傾斜計と電圧計に挟まれた時計の針は一時二十分を示している。約束の時間までまだ少しある。
 孝彦はダッシュボードを開けてケントスーパーライトを取り出し、火を点けた。
 煙を吐きながら、香織が現れたらクルマに乗せてすぐに自宅まで送っていこうと、そう考えた。孝彦は、果たして香織が素直に家へ帰るか多少不安に感じている。これは香織の罠かもしれない。そう思っていた。しかし、その罠にはまってはまずい。
 孝彦は社内ではプレイボーイで通っている。自分でも女遊びが激しいと感じている。しかし、これまで会社の女に手をつけたことはない。危なく手を出しそうになったことは何度かある。“女の誘い”を感じて気持ちがぐらついたこともある。しかし、その都度、こらえた。
 だから会社の女子社員の間では“意外と真面目”という評判を得ている。
 真面目というわけではない。ズルイだけだ。孝彦は自分を知っている。社内で悪い噂が立てばどうなるか、よくわかっていた。別に出世したい気持ちが強いわけではないが、変な評判が立って会社を追われるようなことは避けたいと思っている。それだけのことだ。
 時計の針が一時半を回った。香織は現れない。からかわれたかと孝彦は思い、クラッチを踏んでギアをセコに入れた。
 そのとき、ビルの陰から一つの影が浮き上がり、パジェロに近づいてきた。影は右に左に静かに揺れながら次第に大きくなってくる。
 毛皮のハーフコートらしいボリュームのあるコートの輪郭が見えた。歩く度にコートの裾が左右に広がる。ボタンをかけずに羽織っているだけのようだ。そのコートのポケットに両手を突っ込み、やや前かがみでゆっくり歩いてくる。
 ネオンの明かりで顔が見えてきた。ウェーブがかかって上と横に大きく膨らんだ髪の毛の真ん中に、黒縁の眼鏡がやけにはっきりと見て取れた。
 コートの色が浮かび上がってきた。濃いワインレッド。何の毛をそんな色に染めているのか。コートの前はやはり開いている。黒のセーターが見えた。襟の感じからタートルネックとわかる。その下に目を移すと、これまた黒ずくめだ。よく見えないが、黒のスカート、その下に黒のタイツを履いているようだ。
 こんな服装だったか…。昼間の香織の姿を思い出そうとするが、記憶がはっきりしない。しかし、香織だと孝彦は確信した。
 近づいてくる影は大きなショルダーバッグを右脇に下げていた。茶色のその大きなショルダーバッグは香織のシンボルマークだった。何のためにそんな大きなバッグを持ち歩いているのか、社内の人間はみな不思議がっているのだ。
 孝彦はクラッチを戻してギアをニュートラルで遊ばせた。
 香織は目元と口元に微笑を湛えながら歩いてくる。眼鏡の奧の二つの目が孝彦の目を見つめていた。体は揺れていても、視線だけは孝彦の両目に固定されている。男の気持ちを見透かして捕らえるような粘っこい光が闇を通して突き刺さってくる。
 孝彦は努めて穏やかな目を保ち、香織を待った。
 香織が運転席のすぐ横までやってきた。微笑したまま、そのへんをゆっくりと歩き回っている。パジェロの回りを回りはじめた。右から、後ろから、左から、孝彦は視線を感じ続けた。
 孝彦はたまりかね、運転席の窓を開けて香織に呼びかけた。
 「乗れよ」
 冷気が車内に差し込んでくる。暖まりかけていた孝彦の頬から熱が消し飛んだ。
 「……」
 香織は微笑を浮かべたまま、無言でボンネットの前に立ち止まった。目は、何かを確かめるように相変わらず孝彦の目のあたりを見ている。
 「早くしろよ」
 視線に舐め回される不快感がたまらず、孝彦は急かした。
 香織の口元が横に変化した。口元が横一直線に伸び、その両端が鍵状にフックして頬に食い込んだ。一見すると表情が緩んだようだ。しかし目元は笑っているように見えて慎重な光を湛えている。
 「寒いぞ」
 孝彦はさらに声をかけた。
 香織は下を向き、多少ふてくされたように体を揺らしつつ運転席側に歩いてきた。
 「待った?」
 運転席のドアからやや離れたところに立ち、顔を上げながら香織が聞いてきた。
 「いや」
 「そう」
 香織はパンプスで雪の地面を軽く蹴った。
 「早く乗れよ」
 「そうね」
 香織は眉を上げて、仕方ないといった表情をし、助手席側に回った。
 「開けてくれないのね?」
 助手席のドアの外に立って香織がくぐもった声を出した。目は相変わらず孝彦の目に固定されている。
 「ほら」
 孝彦は面倒くさそうに左手を伸ばして助手席のドアを開けてやった。
 開いたドアの隙間から孝彦の顔を見ながら、香織はしばし沈黙した。孝彦は、もう一度「乗れよ」と言ってやった。
 香織はようやくクルマに乗り込んできた。乗り込むなり大きなショルダーバッグを肩から外し、リヤシートに放り投げた。
 「で、どこ行くの?」
 バッグを放り投げた反動で助手席に勢いよく座り、香織はすぐさまそう言った。顔はフロントガラスを通してススキノのネオンを見ている。
 「きみの家に決まってるだろ」
 孝彦はギアを入れ、ウィンカーを出してクルマを出した。
 「確か厚別区だったよね?」
 香織は返事をしない。横目で彼女を見る。まだ前を向いている。その顔が、相変わらずあの微笑を湛えている。
 孝彦はかまわず、クルマを東に向けた。南五条の通りに出て、石狩街道を左折する。北一条通りを右折してまっすぐ東に向かえば厚別にたどりつく。孝彦は石狩街道を急いだ。
 「すこし…」と香織がつぶやくように小さな声で言った。「ドライブしたいわ。……酔いを覚ましたいの」
 「家に着くまで三十分はかかるよ。それでドライブになるだろう」
 孝彦は誘いを蹴った。
 「北のほうに行きたいわ」
 「北?」
 「石狩新港って、まだ行ったことないの」
 香織は二週間前にこの札幌に来たばかりだった。北海道で行ったことのある観光地は、おそらくススキノくらいだろう。石狩にも行ったことはないのに違いない。
 それにしても、この夜中に石狩新港とは、これはあきらかに誘いだと孝彦は思った。石狩新港はただの港である。新しいというだけで娯楽施設も何もない。街灯もろくにない。そんなところに夜中に行くのはアベックしかいない。
 孝彦は苦い顔をして黙った。
 左横から視線を感じた。横目で一瞥すると、香織はまだ正面を向いていた。しかし、その両目は確かに孝彦の顔に視線を注いでいた。孝彦は胸苦しさを感じはじめた。もう一度、助手席を見てみた。香織がこちらを向いた。
 「連れてってほしいな」
 香織の表情が明るく輝いた。口元が開き、白い歯が覗いている。めったに見せない表情だった。
 孝彦の緊張がとけた。彼の顔からも笑みがもれた。
 「ちょっとだけだぞ」
 「やったあ」
 香織は急に無邪気な声になり、シートの上で体を弾ませた。
 路面は凍っていた。その石狩街道を、タクシーがスピードを上げて次々とパジェロを追い越していく。孝彦はアクセルを踏んだ。パジェロは少しばかり尻を左右に振り、瞬く間にスピードを上げて北一条通りの信号を走り過ぎた。


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