●小説・バンブーの渓―〈Scene1〉March Brown
バンブーの渓
〈Scene1〉
March Brown
康美がフライフィッシングを始めたのは一年前のことだ。キッカケはフライフィッシングの記事を書いたことだった。
康美はコピーライター。企業の社内報やパンフレットなどを企画編集している会社に勤めている。入社して十年。もはや古株だ。
女は職場で康美だけ。もともと女のほうが多かったのだが、康美を残してみんな次々と退社していった。そのときどきに女性スタッフを募集して入れてきたが、みんな続かないで早くに辞めていく。
その理由はきっきりしていた。会社は女にろくな仕事を与えないのだ。女はいずれ結婚して辞めていくと決めてかかり、大事な仕事は男にばかり回す。
康美にしてもそれは不満である。しかし不平らしい不平は言わないようにしている。一度だけ言ったことがある。そのときの男どもの反応が癪に障って、それ以来、何も言わないと誓った。
それまで康美は、企画会議の際には必ず企画を提出していた。何度か採用された。しかし、打率は一割というところだった。
そのときは、これは絶対にいけると思う企画を出した。しかし一顧だにされなかった。康美は、スタッフの誰とはいわずしつこく理由を聞いた。それだけ自信があった。
もともと康美は、何かにつけて一言多いたちだ。会社の男たちはそのことを知っている。だから康美の一言があっても、内心はどう思っているかはともかく、たいていは聞き流してくれていた。しかし、このときは一言どころか五十は言った。
そのしつこさが男たちの気分を損ねた。企画会議は一気にシラけ、康美は浮いた。
そこで康美がしょげて口を閉ざせば、まだ救われていたかもしれない。しかし、このとき康美は後で考えてみても不思議なくらい感情が急激にたかぶり、抑えがきかなくなった。
「下田さんのこの企画ですが」
康美は先輩の企画書をつかんで立ち上がっていた。
「これが通って私のが通らないのは納得いきません。納得できるように説明していただけませんか」
その企画はどう冷静に見ても大した内容ではなかった。それがこの企画会議で通っていたのだ。
しかし、他人の企画をけなすことで自分の企画のよさを認めさせるのはやりすぎだった。言ってしまってから後悔したが、まさに後悔先に立たず、である。
きっと、と康美は思う。あのとき私はそれまで蓄積されてきた鬱憤を一気に吐き出したのだと。女だから冷遇されている、まともに話を聞いてもらえないでいる、と康美は受け取っていた。その鬱憤が知らず知らずのうちに鬱積していたのだ。
それ以来、男たちは腫れ物に触るように康美に接してきた。会議の席で康美が企画を提出すると、それまでのように軽くあしらうようなことはしなくなった。提出する企画の数はめっきり減ったが、打率は一気に五割にも跳ね上がった。
康美は、仕事に対する熱意を少しずつなくしていった。なにしろ、こんな企画、と思うような企画があっさりと通ってしまうのだ。男たちは、女の視点って大事だからね、などと白々しいことを言って康美の企画を持ち上げる。
ある企業の社内報の企画会議のとき、担当者が次号の企画を説明した。彼は、クライアントの意向を受けて次回はレジャー特集を組みたい、と言った。季節は初夏だった。
ゴルフ、マリンスポーツ、スカイスポーツ、キャンプと、具体的な内容について企画が練られていった。その中にフライフィッシングもあった。
内容がほぼ決まると、あとはそれぞれの記事の担当者選定になる。そこで康美は、フライフィッシングをやってみたい、と言った。
深い理由はなかった。ゴルフもマリンスポーツもスカイスポーツも、どんなものなのかだいたい誰でも知っている。しかしフライフィッシングは、あまり知られていないように思った。釣りなど一度もしたことのない康美はもちろん何も知らなかった。そのフライフィッシングを知ってみたいと、ふと思っただけだった。
男たちは、女に釣りの記事が書けるのだろうかというような心配顔で康美を見た。しかし誰も反論はしなかった。
康美は書店でフライフィッシング関係の本を片端から読み漁り、タウンページでフライフィッシングのプロショップを探し出し、そのうちの一件におもむろに取材の申し込みをした。
数日してA四判一ページ分の原稿ができた。『素晴らしき西洋毛針釣り』というのが、康美がその記事に付けたタイトルだった。
それを読んだ編集部長は、読み終えてから康美の顔をしげしげと見た。これ、きみが書いたの? とでも問いたそうな顔をしていた。
それまでの康美の記事は、静かな調子で文章を流していくものが多かった。しかし『素晴らしき西洋毛針釣り』は、自分でも不思議なくらいアップテンポの明るいものになっていた。
康美は、フライフィッシングという釣りの魅力を、少しだけだが感じ取っていた。その証拠に、ボーナス一括払いでタックル一式を揃えていた。
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