●小説・バンブーの渓―〈Prelude〉ADAMS
バンブーの渓
〈Prelude〉
ADAMS
「これって、もしかして…」
暑さにばて気味で、今にも溜息が漏れそうな、そんな疲れ切った表情をしていた康美の顔が途端に明るくなった。
康美は、薄暗いショップの隅の壁に造りつけられている、ガラス張りの古びた縦長ショーケースの前で立ち止まった。ガラスを支えている木の枠が荒削りで、手作りらしいことがうかがえた。
康美は、顔に滲んだ汗をハンカチでそっと拭いながら、そこにゆっくりとしゃがみ込み、ケースの中のロッドをしげしげと見つめた。
「バンブーだわ」
色褪せた赤のビロードの床の中央に、コルク製のグリップが置かれている。細い紡錘形のグリップは上に行くにしたがって次第にすぼまり、そこから黄土色の輝きが上へと一直線に伸びている。あまり明るくないショップの照明を吸い込むように、ロッドは柔らかな光を放っている。いくつかの金属製のガイドとそれを止める緑のスレッドの帯が、本体のつつましやかな色彩に少しばかりの色を与えている。
ショーケースの中にはこのロッドしかない。このバンブーロッド一本のために、このショーケースが存在している。
バンブーロッド。フライフィッシング専用のロッド。素材は竹。よく見ると断面が円くない。六角形をしている。竹を縦に割いて断面を三角形にした細長い三角柱を六本、張り合わせて作られているのだ。
どうしてこんな作り方をしたのかしら、と康美は思った。きっと、昔の人が試行錯誤してたどり着いたのが、この六角形のロッドなのだろう。その形には、フライフィッシングの歴史が刻み込まれているように思える。
ショーケースの中のビロードの床には、かすかに埃が積もっている。その中央、グリップが接する部分に、名刺大の紙が置かれていた。紙はやや黄ばみ、縁は緩やかに波打っている。薄い埃を通して、二本継ぎ、七・五フィート、四番指定という手書きの丁寧な文字が読み取れる。
「渓流のドライフライ用ね…」
康美は手に取って振ってみたくなった。しかし、ショーケースの扉には鍵がかかっていた。長さや番手表示とともに記されている値段は二十三万円。康美は身震いし、手に取ることをあきらめた。
ケースの前にしゃがみ込んだ康美の後ろ姿は、ショップの景色の中に溶け込んだ。
ショップの中には音がなかった。BGMもなければ客の話し声もない。時折、すぐ近くの私鉄の駅から、電車の発着の音が響いてきた。しかし、康美の耳には何の音も入らなかった。
■
釣具店は、どうしてこうも静寂に包まれているのだろうか。景色も無機的で殺風景だ。客はこれまたダサイ男たちばかりで話にならない。
だから康美は釣具店に行くのをいつもためらう。やっとの思いで店内に入って、ああ来なきゃよかったといつも思う。
そんな康美を、無言で釣り具を物色している男たちが必ず一瞥する。彼らは、目をそらすと何事もなかったかのようにまた釣り具を見る。その一瞥も気に入らない。康美が男だったら、彼らは一顧だにしないに違いない。女だから、見る。
(女だって釣りをするのよ)
康美は、そうつぶやきながらフライフィッシングのコーナーに急ぐ。フライフィッシングのコーナーだけは、ほかの釣り具のコーナーに比べて雰囲気がほんの少しだけ明るい。フライフィッシングが西洋の釣りだからかもしれない。いわゆるオジン臭さがないのだ。
そこで康美は必要なものだけを買う。そして、そそくさと帰ってくる。
店員は男が多く、選んだ商品をレジに持っていくとまたそこで一瞥をくらう。「ほう、フライをやるんですか」などと聞いてくる店員もいる。やって悪いか、と康美は思い、ろくな返事もせずに店を出る。
そんな康美に、最近、やっと行きつけのショップができた。フライフィッシングのプロショップである。そこだけは康美を一人のフライフィッシャーとして、性別抜きで遇してくれる。ショップのオーナーや常連たちとの釣りの話も楽しい。
特に買うものがなくても、つい足が向いてしまうほど康美はそのショップが気に入ってしまった。
人見知りの激しい康美にとっては珍しいことである。
■
この日は、仕事でやってきた小さな駅の裏にあった釣具店に入ってみた。
六月の初めというのにひどく暑い昼下がりで、電車を何本も乗り継いできた康美は少し疲れていた。一息つきたくて喫茶店を探していると、このショップが目に付いた。
古びた小さな店で、入口の上の壁に、“ADAMS”という文字を彫り込んだ円い木の板が打ち付けられている。これが店の名前らしかった。アルファベットを読んだとき、フライフィッシングの専門店ね、と康美にはすぐわかった。フライには、アダムスというグレー系のパターンがある。最も有名なパターンの一つなので、康美も当然知っていた。
フックをバイスにとめる。シャンクに黒系のスレッドを巻き、ブラウン系のミンクテールやムースヘアーなどでテールを作る。グレーのマスクラットファーをスレッドに絡めてテールのほうからアイに向かってボディーを巻く。グリズリーヘンハックルから適当なチップを二本選びウィングを取り付ける。それを囲むようにグリズリーとブラウンのハックルを巻いて完成。全体に冴えない色をしたフライだが、どんな条件下でも平均以上の効果が期待できる堅実なフライである。康美のフライボックスにもこのパターンがいくつか収められている。
急ぐ仕事ではなかったので、康美はちょっと店を覗いてみることにした。
思った通り、店のドアの左右のウィンドウにはフライフィッシング関係のメーカーのステッカーが貼られている。オービス、セージ、ハーデイ、コートランド、ミッチェル、スミス、マーチン、ウィンストン、リーガル、UFM…。
木造の厚手のドアを押して中に入ってみると、暑さが外とあまり変わらないので康美は後悔した。クーラーがない上に窓らしい窓がなく、蒸した空気が店内によどんでいた。
狭い間口にやや奥行きのある店内にはいくつもの陳列棚が置かれ、奧がどうなっているか見通せない。奧のほうから話し声が聞こえた。背伸びして陳列棚の頭越しに奧を見ると、白髪頭とスポーツ刈りの頭が並んで見えた。店の主人は初老らしい。若いフライフィッシャーが何かをレジに持ち込んだのだろう。
ほかに客はいないので、康美は気楽になって近くの陳列棚をながめた。フライフィッシングのタックルやマテリアルが所狭しと置かれ、吊り下げられている。壁は天井までびっしりとマテリアルの数々で覆われている。
天井に数本ばかり吊られている蛍光灯の淡い光が、色とりどりのマテリアルを柔らかく照らしている。
奧に、光を反射するガラスがあった。康美はそのショーケースが気になり、マテリアルで埋め尽くされた陳列棚と壁の間の狭い狭い通路に足を踏み入れた。
まさかそこにバンブーロッドが収められていようとは康美は予想もしていなかった。
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