〈日本人のルーツ再考〉

●日本人のルーツ再考 (4.29/97)

 学生時代、私はずっと歴史が嫌いでした。ですから日本の昔のことについて若いころはよく知りませんでした。20歳のころ、忠臣蔵の好きな友人と話をしていて、話がかみ合わずに困惑しました。赤穂浪士という名前は聞いたことがあるように思いましたが、「殿中でござる」とか「刃傷でござる」という言葉は聞いたこともありませんでした(ニンジョウという言葉を聞いて私はそれを人情だと思った)。これでは話がかみ合うはずがありません。そのころの恋人にそのことを話すと大笑いされました。日本人で赤穂浪士を知らない人がいるなんて信じられないと言われました。
 私はかなりのショックを受け、忠臣蔵好きの友人を誘って「赤穂城断絶」という映画を鑑にいきました。ところがこの映画は確か浅野の殿様が吉良に切りつける刃傷事件からいきなり始まったのです。浅野の殿様がなぜ吉良を切ったのかさえ私はわからず、なんだかよくわからないまま映画は終わってしまいました。終わってから私は「あの殿様がなぜ切りつけたのか説明してなかったからストーリーがよくわからなかったよ」と友人に言いました。彼は天を見上げて言いました。「そんなこと日本人ならみんな知ってんだよ」と。
 私は劇画ばりに「ガーン」と衝撃を受け、友人に勧められて大佛次郎の「赤穂浪士」を読みました。私が歴史に興味を持つようになったのはそれからです。
 私が歴史と接するようになったのは小説においてです。司馬遼太郎の歴史小説に出会ってから私は歴史がおもしろくて仕方なく思えるようになりました。司馬さんの小説の中に登場する人々は私の眼前で生身の人間のように動き、そして話し、そして笑っては泣きました。歴史の教科書では決して感じることのできない昔の人々の息づかいや匂いがそこにはあったのです。(司馬さんが亡くなったのは残念で仕方ありません)
 ある日、ひとつの歴史小説を読んでいた私は、そこに登場した人物に妙に惹きつけられました。理由がわからないまま読み進んでいくうちに、その人物が私とよく似ていることに気づきました。その後、ほかの歴史小説を読んでいて同じようなことを何度か感じました。
 まだ若かった私は自分が何者なのか探りつづけていました。その答えが、ひょっとすると歴史上の人物から得られるのではないか。そう思った私はますます歴史小説にのめり込んでいきました。
 このことが、私が日本人のルーツに興味を持つようになったキッカケになったと思います。日本人の成り立ちを探り出せば自分という人間の成り立ちがはっきりするのではないかと考えたのでしょう。以後は自分個人のルーツを考えるよりも日本人という集団のルーツを探ることに興味が移っていきました。
 「日本人はどこから来たか!?」は、そのひとつの結論として書いたものです。しかし、その出来にはあまり満足していませんでした。なぜなら、書き残していることがたくさんあるように感じていましたし、中には自分でも十分には納得できないまま書いた部分があったからです。いつか書き直さなくてはならないと思っていました。
 折しも私は、何冊かの本で得た新しい知識から日本人のルーツについて考え直そうとしていました。私の頭の中でそれらの知識はまだまとまった形にはなっていません。しかし、今ここに改めて稿を設けて日本人のルーツについて一から考え直してみようと思います。頭の中で悶々と考えているより文章という形で吐き出すことにより、自分の考えをまとめていこうと思うのです。
 なかなか終着駅に着かない長い旅になるかもしれません。私のこのおかしな旅に付き合ってくださる方がいれば、どうぞご一緒ください。
 このページを公開してから、古代史、または考古学か言語学の専門家(と思われる方々)お2人からお叱りのメールをいただきました。どちらも、「大した根拠もなく勝手なこと書くな」「素人のくせに何様のつもりだ!」「削除すべきだ」という強い調子のメールでした。さらには内容についての批判だけでなく、私に対する罵詈雑言まで付け加えられていました。素人の趣味で公開した文章に対してどうしてそこまでヒステリックになるのか理解に苦しみました。学者の世界というのは、素人が土足で入り込むのを喜ばないのかもしれません。あるいは、学者の世界には自分と違う説を唱える学者を仇敵のように攻撃する人がいるので、私が紹介した説の提唱者に批判的な学者の方々が私の文章を目障りと感じ、「削除すべきだ」ということになったのでしょうか。しかし、おひとりは「茶飲み話としてなら許せる」と書いておられました。ありがたいお言葉です。お断りするまでもなく私は古代史や考古学、言語学の専門家でも学者でもないのですから、これはまさしく茶飲み話です。ということで、専門家の皆様、見逃してくださいね。素人の文章を批判している暇があったら自分の研究を進めましょうよ。〈4.2/04〉


天皇家のルーツを探る

●“スメラミコト”という言葉

 スメラミコトという言葉をご存じでしょうか。年輩の方はご存じだと思います。天皇のことです。古代の日本の支配者はスメラミコトと呼ばれました。後に表意文字である漢字から天と皇を取って“天皇”という言葉を作り、それをスメラミコトの意で使いました。以後はそれを音読してテンノウと呼んだのです。
 ところで、かつての騎馬民族を主流とするアルタイ諸民族の多くは高い山を信仰の対象にしていて、その山々の中でも最高の山のことを、例えばモンゴルやブリヤートなどの民族の神話ではスンブルとかスメルと呼んでいるそうです。スメラミコトはスメラとミコトの複合語です。このスメラとスメルと、発音がよく似ています。言語学者によると語源は同一ということです。
 一方、血中でウィルスなどから体を守る免疫グロブリンGに含まれる遺伝子の型を調べると、アジア大陸北部のバイカル湖周辺に住むブリヤート人のそれが現在の日本人に最も近いそうです。以前、テレビでバイカル湖畔に住む人たちが紹介されていました。彼らの顔は日本人そっくりで、私はずいぶん驚きました。外見からして現在の日本人によく似ています。
 騎馬民族というとモンゴル高原で遊牧を営んでいたモンゴル民族が有名ですが、ブリヤートもまた騎馬民族のひとつです。彼らはバイカル湖畔で遊牧を営み、騎馬民族としてそこで栄えました。
 以上のことなどから、日本人の祖先は大陸の騎馬民族だと考える人が大勢います。

●天皇家のルーツは大陸にある

 私は、天皇に代表される支配階級はアジア大陸から渡ってきた騎馬民族だったと考えています。少なくとも、その後裔だと思います。その証拠があります。
 証拠のひとつは前記のスメラミコトという言葉にあります。騎馬民族の言葉がルーツになっていると思われるこの言葉が天皇を意味しているのです。天皇家が騎馬民族と無縁だとはとうてい言えないでしょう。
 もうひとつ、同じく言葉の上でその証拠となるものがあります。
 日本書紀や古事記が成立したのは8世紀といわれています。そのころ、わが日本列島にも文字による記録がようやくあらわれはじめました。つまり、それ以前のことは、口伝えの伝説とか伝承でしか残っていなかったわけです。ですから日本書紀にしろ古事記にしろそれほど正確なことは書けなかったに違いありません。例えば大古墳で有名な応神天皇や仁徳天皇は4、5世紀の人ですから、当時からするとすでに300年も昔のことになります。そんな昔の天皇の事績はおろか名前さえも正しく伝わっていたとは思えません。
 このことは現代に置き換えて考えてみるとわかりやすいでしょう。現在から300年前といえば江戸時代中期です。そのころのことは文字による記録でずいぶんわかっているでしょうが、例えば人の名前などは字は残っていても何と読んだかについてはわからないことが多いのではないでしょうか。幕末に活躍した新撰組の土方歳三の名前はトシゾウと読みますが、それはトシサンと呼ばれていたことがわかってはじめてはっきりしたことです。それまではサイゾウとも読まれていたのです。ほんの百数十年前の人名でさえこうですから、数百年も前のこととなればはっきりわかるほうが不思議です。文字による記録がないとしたらなおさらです。
 とはいえ、自分の先祖のことなら、名前はもちろん、どういう素性の人かくらいは何代も遡れると思います。昔の人は先祖を大切にしていたので、昔の人であればあるほど、先祖についての知識はしっかりしていたように思います。日本書紀や古事記は、天皇家に縁の深い人物による先祖伝説を参考にして書かれたような気がします。とすれば、天皇たちの名前もあながち不正確だとは言えないかもしれません。少なくとも、その名前には先祖たちの素性や功績などをあらわす言葉が使われたのではないでしょうか。
 このことを前提にして歴代の天皇の名前を見ていくと、天皇家のルーツが大陸の騎馬民族にあったようだということがわかってくるのです。
 古代の天皇たちが生存中にどのような名で呼ばれていたかはよくわかりませんが、後に付けられた彼らのおくり名(死んでから付けられる名前)は日本書紀や古事記によって知ることができます。それらのおくり名は、どの氏族でどこで生まれたかということなどを主にあらわしていると見られています。
 やたらと長いし発音しにくくて現代の日本語とはどこか違うという印象を受けますが、それらのおくり名を見てみましょう。まず初代といわれる神武天皇はカムヤマトイワレヒコ、第6代の孝安はオオヤマトタラシヒコクニオシヒト、第9代の開化はワカヤマトネコヒコオオヒヒと書かれています。また第10代の崇神はミマキイリヒコイニエ、第11代の垂仁はイクメイリビコイサチです。さらに第15代の応神はホムダワケ、第16代の仁徳はオオササギ、第17代の履中はオオエノイザホワケ、第18代の反正はタジヒノミズハワケ、第21代の雄略はオオハツセワカタケ、第25代の武烈はオハツセノワカササギです。
 このうち崇神のミマキイリヒコイニエと垂仁のイクメイリビコイサチには同じ“イリ”という言葉が含まれています。このイリは朝鮮語のイルと同じ語源を持つと考える人がいます。キムイルソン(金日成)のイルです。そのイルの語源は騎馬民族の言葉にあるようです。中国と闘った騎馬民族にはアブツシリキイルキンという名前の人物がいたと記録に残っています。イリやイルという言葉は人名だけでなく土地の名にも残っていて、バイカル湖畔にはイルクーツクというまちがあります。そして、その近くにはイリというまちがあるのです。
 これらのことから、“イリ”という言葉が騎馬民族と無関係だとは言えないでしょう。無関係どころか、逆に深い関係があるはずです。おそらく語源は騎馬民族の言葉にあるのでしょう。
 朝鮮民族には北方騎馬民族の血がずいぶん混じっているといいます。騎馬民族の活動地域と陸続きなのですから、それはごく当然のことだったでしょう。百済、新羅、高句麗といった朝鮮半島の古代国家はすべて騎馬民族によって支配されていたようです。“イル”という言葉が現在の朝鮮語に残っているのはそのために違いありません。
 それが日本列島の大昔の天皇の名前にも残っているのです。これは昔の天皇たちが大陸からやってきたことを示しているのではないでしょうか。朝鮮から渡ってきたにしても、もとをたどればそのルーツは大陸にあると言ってよいと思います。
 また、崇神から武烈に至るこれらの天皇の時代は後に古墳時代と呼ばれる時代にあたります。この日本列島に忽然と巨大古墳が現れるようになった時代なのです。騎馬民族の墓は一般に大きくて土饅頭の形をしています。列島の巨大古墳は前方後円墳ですが、そのルーツは大陸の騎馬民族の墓にあると見ていいようです。また発掘調査によって、それらの巨大古墳からは馬具などの副葬品が見つかることがあります。それらは当時のことであれば騎馬民族のみが使用していた道具です。
 それまでこの日本列島にはそんな巨大な古墳は存在していませんでした。それが突如として出現したのは、そういう埋葬習慣を持つ民族がやってきたからだと考えるのが自然です。その墓の形と大きさ、そして副葬品から見る限り、その民族は大陸の騎馬民族そのものか、またはその後裔だったと思われます。
 大陸から直接この列島へ、あるいは朝鮮半島をつたってやってきたと私は考えます。そして地元の豪族たちを滅ぼして、あるいは恭順させて支配者となったのでしょう。彼らはスメラミコト、もしくはオオキミと呼ばれました。

大王(おおきみ)たちの正体

●王朝は何度も交替した

 初代神武から第9代開化までの天皇は実在したか疑われています。それ以後の天皇の名前を見てみると、第10代から第14代まではイリのつく名前が多く、第15代から第25代まではワケのつく名前が目立ちます。このことから第10代から第14代までをイリ王朝、第15代から第25代までをワケ王朝と呼ぶ人もいます。
 天皇家は万世一系といわれますが、現在ではそのことを信じている人はあまりいません。王朝は何度も交替したとみるのが一般的です。日本列島の原住民はそのままで、その上に乗っかる支配者は何度も入れ替わったということです。
 ずっと後の戦国時代にも、同じようなことがこの国の各地で起きました。武田信玄にしても織田信長にしても各地の豪族と闘って勝ってはその領地を没収し、自分の直轄領にしたり家来の領国にしました。領民にしてみれば殿様が替わるわけですが、新しい殿様がとんでもない搾取をしたりしない限り反抗したりはせず以前と同じように生活していました。外国でも、例えばイギリスは、海の向こうのフランスの王様に支配されてその後の大英帝国ができています。支配者が入れ替わることは昔はよくあったのです。(現代でも首相や大統領はときどき替わります←これを蛇足という)
 前記の天皇のうち“神”の字を持つ者が3人います。神武、崇神、応神です。この3人のほかに“神”の名を持つ皇族は神宮皇后だけです。カミはカムイから来ている言葉といわれ、カムイはカミナリと語源をひとつにしているそうです。天上にあって地を支配する者という意味が込められている言葉、それがカミ、すなわち神なのです。この神という字が冠せられているのは、それなりに理由のあることだと思います。
 つまり、神武、崇神、応神の3人の天皇は特に大きな支配者だったと考えられていたのでしょう。神武は架空として、崇神、応神はイリ、ワケ王朝のそれぞれの始祖と考えられていたのだと思います。天皇家は万世一系などではなく、ときに王朝は交替し、それらの始祖はイリ族やワケ族という人たちだったというような伝承が残っていたのだと思います。そして、彼らは大陸からやってきたのだという伝承も残っていたかもしれません。
 昔は海の向こうから幾度となく大きな武力集団がやってきて、この島国の王朝を倒して新しい支配者として君臨した……それが天皇なのだということは、昔の人にとって言うまでもない常識的なことだったのではないでしょうか。

●ルーツを隠した大王たち

 13世紀から14世紀に生きた北畠親房という人物が書いた「神皇正統記」に、「昔日本は三韓と同種也と云事のありし。かの書をば桓武の御代にやきすてられしなり」とあります。三韓は朝鮮半島の国々を指します。昔はこの列島の民族と朝鮮半島の人たちは同族だったという伝承があったということです。しかしその伝承を記す書物は桓武天皇のとき、つまり平安時代に焼かれて伝承は抹殺されてしまった……。
 ほんの数十年前、この国の政治家は朝鮮半島の人々を卑しみ、彼らの国を植民地化して実に勝手なことをしました。その後、朝鮮民族を見下げる空気がこの国に流れ、一般の人でさえ朝鮮の人たちを蔑視するという風潮が生まれました。
 私が子供のころ、確か催さんという名前の朝鮮系の人が近所に住んでいました。その家には私より2つか3つ上の男の子がいて、私はよく遊んでもらいました。彼は体操がうまく、バック転などをして私たちをよく驚かせました。ある日、彼の家に遊びにいったことがあります。非常階段のような階段を上がると一枚のドアがあり、それを開くと暗い部屋が見えました。床は畳ではなく板張りか何かで、冷たそうに光っていました。その上には蚊帳かハンモックのようなものがいくつも並んでいたことを今でも覚えています。そのとき私は異様なものを見た気がしました。たぶん、自分たちと違う習慣をそこに感じたせいだと思います。
 彼が在日朝鮮人だと知ったのは後年のことです。教えてくれたのは母でした。母は、戦争中に満州(現在の中国東北部)で暮らしていて朝鮮人の友達もいたという人だけに朝鮮人にはあまり偏見を持っていませんでした。しかしそんな母でも、私が片足で膝を立てて座ったりしていると、「朝鮮人みたいなことするんじゃないよ」と叱ってきました。また友達は街で柄の悪い若者を見つけると「チョンコが来た」と言って逃げました。チョンコとは朝鮮学校に通う在日朝鮮人たちの蔑称です。アメリカ人が日本人のことをときにジャップと呼ぶようなものです。
 このような朝鮮蔑視は、もしかすると昔から少しはあったのかもしれません。この島国が国らしい形を整えるまで、人々は朝鮮の人たちをむしろ尊敬していたようです。多くの新しい文化を朝鮮から輸入していたのですから当然です。それがいつのころからか朝鮮に対して冷淡になり、ついには見下すようになったのです。
 この列島の民族と朝鮮半島の人たちは同族だったという伝承を記した書が平安時代に焼き捨てられたのも、そうした背景があったせいなのではないでしょうか。
 ところで、日本列島の人々はなぜ朝鮮半島の人々を一段下に見るようになったのでしょうか。
 朝鮮民族を見下すようになったのは半島からの文化や技術の輸入が一段落して後とみられます。そのころ中国は隋か唐の時代です。このころになると日本は半島を経由することなく直接、隋や唐に使節を送るようになりました。いわゆる遣隋使や遣唐使です。これによって日本は新しい文明を仕入れました。日本にとって朝鮮半島はもはや用済みの存在になっていたのです。朝鮮蔑視の風潮が生まれるのはこのときに始まるのかもしれません。ずいぶん勝手な民族だと言うしかありませんが、それは後の日本人にも遺伝したようです。現代の日本人も新しもの好きで、しかもすぐ飽きるではありませんか。
 朝鮮民族を蔑視しはじめたことについては、このほかにも理由があるように私は思います。
 当時の東アジア諸国の多くは、中国を宗主と仰いでいました。そうすれば中国の属国として安泰でいられました。朝鮮半島や列島の王たちも中国に貢ぎ物を贈って自分たちの権威を認めてもらい、それぞれの国を治めていました。しかし騎馬民族だけは例外で、彼らはいつの時代も中国の王朝の敵でした。ときに貢ぎ物を贈って従属することもありましたが、すぐまた反抗して長城の内側へと攻め入りました。剽悍で馬鹿強い騎馬民族は中国の歴代王朝にとって最大の脅威で、だから中国にとって騎馬民族は憎むべき存在以外の何物でもありませんでした。
 日本の天皇家のルーツは、その騎馬民族にあります。古代の天皇たちは、そのことを中国に知られると国交上、不利だと考えたのではないでしょうか。朝鮮半島の王たちも騎馬民族出身ですから、その朝鮮半島と深い関わりがあることを知られてもまずいと考えたのではないでしょうか。
 考えすぎのような気もしてきましたが、天皇たちのこのような配慮があったために、この国の権力者たちは中国との関係が深まるにつれて朝鮮半島との関係を意図的に消したとも考えられるのです。そのことが朝鮮民族を見下す風潮につながっていく一因になったのだと思います。
 どういう理由にしろ、昔の権力者が天皇家の素性、すなわち朝鮮半島との関わりについて隠したのは事実のようです。似た話が実は現代にも存在します。
 それは、天皇陵と呼ばれる古墳に関しての噂です。天皇陵というのは天皇の墓とされる古墳のことです。これらの天皇陵は現在、発掘調査はおろか立ち入ることさえできない状況にあります(このため、それらが本当に天皇陵なのかさえ怪しいものもたくさんある)。宮内庁が立ち入りを禁止しているためです。なぜ立入禁止にするかというと、それは発掘調査をされると現在の天皇の素性がばれてしまうからだというのです。具体的には皇族の祖先が朝鮮系だということがはっきりすると困るからではないかというのがこの噂の主旨です。
 この噂は勘ぐりすぎかもしれません。しかし、この噂を生んだ背景を考えると無視できません。朝鮮半島と天皇家との関係を隠したことがこんな噂を生むことになったと考えられるからです。
 しかし、関係があるのに関係ないと言い出した当時の日本に対して、朝鮮半島の人々は何も文句を言ってこなかったのでしょうか。さらに、その後は見下されるようになったのですから何か言ってきてもよさそうです。日本の権力者たちも、朝鮮半島に対して気まずい思いはしなかったのでしょうか。
 実は、ある時期から日本側はそんな心配をする必要がなくなっていました。日本の天皇家にとって幸いだったことに、その後、朝鮮半島を統一した新羅が中国一辺倒に傾き、その後の朝鮮は独自の文化をほとんど捨て去ってしまったのです。いつの時期かはっきりしませんが、朝鮮は人名をすべて中国式に変え、自国の歴史書さえ抹殺しました。徹底した中国化が行われたわけです。こうして古代朝鮮の記録は地上からほとんど消えてなくなりました。もちろん、日本列島との関係を示す記録も消え去ったのです。
 こうなれば日本は言い放題です。朝鮮とは何の関係もないと言うだけでは足らず、昔は朝鮮は日本の属国だったと、そんな意味合いのことさえ言いはじめました。こうして朝鮮を蔑視する風潮が生まれ、何の根拠もないその風潮が一般の人々にまで広がっていったのではないでしょうか。

●天皇は朝鮮王と同族だった

 このように考えてくると、天皇家のルーツが騎馬民族にあるにしても、その祖先は大陸から直接この列島へと渡ってきたのではなく、まず朝鮮半島を支配してから列島にやってきたと見たほうがいいでしょう。
 そのことを裏付ける説があります。古代、日本列島と朝鮮半島は同じ国だと認識されていたというのです。
 当時、朝鮮半島には後に高句麗、新羅、百済に発展する辰韓、馬韓、弁韓などの国がありました。また南部には加羅とか伽耶とか、もしくは任那(みまな)と呼ばれていた国があったようです。日本は倭と呼ばれていたと考えられています。これらの国々がそれぞれを外国だとは見ていなかったということです。少なくとも支配者たちはそう思っていたという考えです。
 さらにこの説は驚くべき結論を導き出しています。日本列島の古代の大王たちの多くは朝鮮の大王たちそのもので、ときにふたつの国の大王を兼ねていたというのです。例えば継体天皇は新羅の王・智証、宣化天皇は同じく新羅の真興王、また欽明天皇は百済の聖王だったといいます。さらに天武天皇は新羅の大臣・泉蓋蘇文だというのです。なんだか突拍子もない話で面食らいます。話はこれでは終わらず、なんとあの聖徳太子までが海を渡ってやってきたというのです。彼の場合は朝鮮半島出身ではなくエフタルと呼ばれる騎馬民族のタルドウという王だったというのですから、もうアッケにとられてしまいます。
 聖徳太子の話はさておいて、朝鮮半島の王や王族たちがこの列島の大王でもあったというのは、それほど奇異なことではないかもしれません。もし彼らの行動範囲が私たちの想像からかけはなれるほど広かったとしたら、半島の人にとって日本列島は、例えば日本の江戸時代でいえば隣のそのまた隣の藩くらいにしか感じていなかったかもしれないでしょう。
 はるか後年、騎馬民族のモンゴルは、西はヨーロッパから東は極東まで遠征しては戦いつづけて空前の大帝国を打ち立てました。その行動範囲は実に広大です。その先祖の騎馬民族たちも、馬という足を存分に使ってかなりの距離を平気で移動していたと考えられます。馬を船に乗せて海を渡るのは難しいでしょうが、大軍でなければ可能だったでしょう。とすれば、日本海や玄界灘程度の海はさして苦もなく渡っていたのかもしれません。
 とすれば、彼ら大王が認識していた“国”という版図は相当に広かったと考えられます。昔は王と王が闘えば負けた王は領国を追い出され、それに替わって勝った王がその地を治めました。ちょっと隣の国を取ってくるよと、軽い気持ちで日本海や玄界灘を往来していたことは十分に考えられます。あるいは、王族たちが互いに縁戚関係にあって、交替で各国の王位に就いていたなどという想像も可能です。ヨーロッパ各国の貴族たちが昔から互いに縁戚関係にあるのとかなり似た状況が当時の半島と列島にもあったのかもしれないのです。
 実際、日本書紀などを読んでみると、日本と半島の国々とは密接につながっていたことがわかります。高句麗と闘うから兵を送れと百済の王が日本の天皇に言ってきて、天皇はすぐさま出兵したりしています。また、天皇が百済に対して任那を守れとか、そんなことを言ったりしています。任那は日本の出先機関が置かれていたところと普通は考えられていますが、あるいはそこに天皇家のルーツのひとつがあったのかもしれません。
 これらのことから、日本の天皇家が半島の王族と深いつながりがあったのは疑う余地のないことだと思います。種族的にはたぶん同じだったのではないでしょうか。この列島の民族と朝鮮半島の人たちは同族だったという伝承が残っていたのは、事実そうだったからだと思います。ここに紹介した説のように、もしかすると日本の天皇家は朝鮮の王そのものだったのかもしれません。

●倭の五王は朝鮮王かもしれない

 5世紀ころ、倭の国の大王たちが中国に使者を送っています。そのことが中国の記録に残っています。彼らは讃、珍、済、興、武という名で記録されていて、そのうち珍は中国皇帝にこんなことを願い出ています。すなわち、倭だけでなく朝鮮半島の新羅、秦韓、慕韓、任那、加羅の諸軍事(軍事権)をいただきたい、と。新羅、秦韓、慕韓、任那、加羅というのは朝鮮半島南部にあった当時の国々です。珍の使者はこの願いを突っぱねられて帰国しますが、珍の次の代の大王といわれる済がまた使者を派遣して同じことを願い出ると今度は許されました。5代目と見られる武も同様に願い出て許されています。
 このことについて多くの歴史家は、彼ら倭の大王たちが権威欲しさに要求しただけで、諸軍事という称号は単に飾りだったと見ています。しかし、もし彼ら大王たちが倭のみならず朝鮮半島へも実質的に勢力を拡げていた、あるいは拡げようとしていたと考えるならばどうでしょうか。諸軍事というこの称号は彼らにとって実質的な意味を持っていたでしょう。
 これら大王たちは「倭の五王」としてよく知られています。普通、歴史家たちは彼らを、讃は応神か仁徳か履中、珍は仁徳か履中か反正、済は允恭、興は安康、武は雄略の各天皇なのではないかと推測しています。
 近年、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣から“ワカタケル大王”という文字が見つかって大騒ぎになりました。ワカタケル大王は雄略天皇のことだといわれています。このことから雄略の実在が裏付けられ、さらにその権力が遠く関東にまで及んでいたことがはっきりしたからです。
 ワカタケルオオキミ……いかにも日本的な名前です。雄略というのは死後に付けられた名前であって、生前はこのようにヤマト言葉で呼ばれていたはずです。ただし、それは本名ではありません。ワカタケルオオキミであれば、例えば若くて勇ましい王というような意味だったでしょう(違うかな?)
 昔の日本人は本名を呼ばれることを嫌いました。だから本名を隠して、いわゆる通称で呼び合いました。ずっと時代が下ってもこの習慣は消えず、例えば源義経は義経という本名で呼ばれることはなく、九郎という通称か官職の判官という言葉で呼ばれました。もっと時代が下っても、例えば西郷隆盛も隆盛とは呼ばれず通称の吉之助で呼ばれました。日本人はつい最近まで本名を呼ばれると不吉なことが起こると考えていたようです。まして国の最高権力者である天皇が本名で呼ばれることなどありませんでした。おそらくほとんどの人はその本名を知らなかったでしょう(現在でも天皇や首相を本名で呼ぶ日本人はいません。本名を知っている人は多くないでしょう)
 有名な卑弥呼は、魏志(倭人伝)に記録されている2世紀後半から3世紀にかけての倭の女王です。この卑弥呼は人名ではなかったと私は思います。魏に使いした人も本名は知らず、お前の国の王はなんという名前なのかと中国人に聞かれ、おそらく官職か何かで自分たちの王の名を告げたのだ思います。それはヒメミコという言葉ではなかったでしょうか。ヒメミコは高貴な女性のことを指す言葉として後年まで残りました。姫という言葉はその名残りでしょう。それはともかく、当時は女王のことをヒメミコと呼んだように私は思います。このヒメミコという発音を聞いた中国人が卑弥呼という漢字でそれを記したのではないでしょうか。
 このように、魏志に記録されている倭人の名前は中国風ではありません。魏志には卑弥呼の使者の名前も記されていますが、それもナシメ(難升米)とかエキヤク(掖邪狗)とかで中国風ではありません。それなのに、少し時代が下った5世紀の記録で突然、讃だの珍だの済だのと一字名の中国風になるのはなぜでしょうか。
 当時の列島の大王たちは文明国である中国に対して劣等感を持っていて、そのため和風の名前を中国風に直して使者を送ったのではないか、とも考えられます。中国は周辺の民族を蔑視していて、そのことは彼らが付けた周辺民族の名からもうかがえます。例えば蛋民(たんみん)とか蠕蠕(ぜんぜん)とか、虫や動物に関する字を当てたりしています。また卑弥呼の卑はそのまま卑しいの意だし、倭という字にもいい意味はありません。中国人が周辺民族を蛮族として蔑視していたこうした事実があったので、倭の大王たちは自分たちのもともとの名前さえ捨てて中国に右習えをしたことは十分にありえます。
 私もそう思っていましたが、最近はどうもそのせいだけではないように思っています。彼らは事実、そういう名前だったのではないかと考えているのです。
 このころの百済、新羅のことを記した中国の記録には、そこには百済、新羅の人だけでなく高句麗や倭の人もたくさん住んでいて、その習俗はみな似ていたとあります。一緒に住んでいたとしたら、言葉も同じか、少なくともかなり似通っていたと見るべきです。そうであれば名前も似ていたと考えてよいでしょう。
 ここで当時の朝鮮半島諸国の王族たちの名前(姓)を見てみると、聖とか真興とか蓋とか、一字名の中国風のものが多く、二字名のものでも漢字で書いてちっとも不自然でない名前が多いのです。騎馬民族をルーツとする彼らがもともとそういう名前だったとは思えないので(昔の騎馬民族には姓さえなかった)、中国にならって中国風の名前にしはじめていたのでしょう。朝鮮半島のその王たちが列島の王でもあったと考えるのなら、倭の五王たちが中国風の名前だったことも当然だと思うのです。
 もしかすると「倭の五王」は列島の大王たちのことではなく、朝鮮半島の大王たちのことだったのかもしれません。古代は朝鮮半島南部から列島にかけての地域全体が倭と呼ばれていたようなので、この想像はそれほど突飛ではないと思います。朝鮮と列島が別の国だと思うのは後世の人々だけで、玄界灘に国境線などなかった当時は互いに同じ国だと認識していたかもしれません。だとすると朝鮮の王が倭の王とも呼ばれていたと考えることもできるのです。
 日本書紀や古事記に記されている天皇たちの名前は、讃や珍といった中国風ではありません。それは倭の五王が朝鮮半島の王だったからかもしれません。そうでないとしたら、それはたぶん、これらの史書が編纂されたころにはこの国が対外的に認められはじめていて、中国風の名前でなければ馬鹿にされるとか、そういった感覚がなくなっていたからだと思います。
 ちなみに、日本で天皇が中国風の名前で呼ばれるようになるのは、日本書紀や古事記ができた数十年後に中国風のおくり名、つまり神武とか崇神といった名前が付けられてからです。それまでは天皇が中国風の名で呼ばれることはなかったのかもしれません。列島の王たちはそこの習慣にならって和風の名前を名乗り、一方、半島の王たちは当時の半島の習慣として中国風の名前を名乗ったのではないでしょうか。

日本人の原型となった人々

●縄文人のルーツのひとつは北にある

 しかし、彼ら征服者たちがそれほど多くの人や馬を連れてきたとは考えられません。もし何万もの大軍で押し寄せてきたのだとしたら、肉食などの騎馬民族特有の習慣が今の日本にもっと多く残っているはずです。それがないのは、彼ら征服者の数が少なかったことを示していると思います。
 騎馬民族と農業は相性が悪いらしく、純粋な騎馬民族が農耕に手を染めることはまずないそうです。米が食べたくなったら近くの農村に行って奪ってくればいいと昔の騎馬民族は考えていました。農民にしてみればいい迷惑ですが、重税を課して彼らの上に重くのしかかる国という存在よりはまだましだったかもしれません。なぜなら騎馬民族たちは欲しい物を手に入れれば風のように去っていったからです。彼らの国をあげての侵略もそのパターンと変わりません。他民族を征服した場合、彼らはその地に自分たちの文化を浸透させるといったことはほとんどなく、行政は旧政権の実務家たちに任せました。そのため農民などの下層民の生活にはそれほど影響はなかったようです。
 この列島を征服した騎馬民族も、そのような国の治め方をしたと私は思います。彼らの習慣が後の日本にあまり残らなかったのは、彼らの数が少なかったためだけではなく、騎馬民族特有の政治の仕方にも理由があったのではないでしょうか。
 とすれば、列島の先住民と彼ら騎馬民族との混血はあまりなかったとも考えられます。勢力を持った豪族たちとは、統一事業を効果的に進める上で彼らはむしろ積極的に姻戚関係を結んだでしょうが、彼らと在地豪族を合わせても、その人口は列島全体の中ではほんのひと握りでしかなかったに違いありません。彼らひと握りの支配者階級を支えたのは、この列島の人口のおそらくほとんどを占めていた農民や漁民たちだったでしょう。彼ら農民や漁民には騎馬民族の血はほとんど入らなかったと思います。
 そう考えれば、騎馬民族の血は、後の貴族階級にしか流れ込まなかったとみておおむね当たっていると思います。
 では、この稿の冒頭で紹介したように、現在の日本人が大陸のブリヤート人とよく似ているのはなぜでしょうか。
 ブリヤートも騎馬民族の一派なので混乱しがちですが、弥生、古墳時代にこの列島にやってきた騎馬民族と彼らは関係ないと私は考えています。ブリヤート人がこの列島にやってきたのはもっと昔のことで、それもかなりの数の人々がやってきたと考えています。それが列島の原住民の主流になったと考えているのです。
 騎馬民族の成立は西アジアでは紀元前6世紀、東アジアでは紀元前4世紀といわれています。日本列島の歴史でいえば、だいだい弥生時代初期にあたります。騎馬民族というのは遊牧民のことです。遊牧という生産様式が誕生することによって生じた戦闘集団なのです。ブリヤート人が日本列島に渡ってきたのが弥生時代以前だとすると、彼らはまだ遊牧を知らない狩猟民族だったはずです。
 その民族移動は縄文以前の石器時代にあったと私は考えます。それがこの列島に定着して、後の縄文人になったと考えるのです。なぜなら、今から1万年以上前、日本列島は大陸と陸続きだったからです。そのころ、大陸から多くの人々が渡ってきたことは間違いありません。その後にも渡ってきたと思いますが、以後は大陸と離れてしまったので渡ってくるとしたら船で来るしかありません。船ではそう多くの人々がやってきたとは考えにくいのです。
 いずれにしても、大陸のブリヤート人はこうして列島へと住み着き、その後のいわゆる縄文人の主流になったと考えます。日本人の源流ともいうべきこの縄文人に、さきに考察したように後の騎馬民族の血はごく少数しか入らなかったわけです。現在の日本人がブリヤートと似ているのはそのためだと思います。  

●黒潮に乗ってやってきた人々

 これまでの推理では、最初にこの列島にやってきたのは大陸の北方に住んでいたブリヤート人だったということになりました。それが縄文人になり、その上にかぶさるようにして北方騎馬民族が支配者として君臨したということになります。
 とすると、日本人のルーツはすべて北方系の民族だったということになります。しかし、縄文時代の次の弥生時代を築いた人たちは稲という南方系の植物を伝えた人たちですし、また日本の風習や言葉には南方系の色彩が色濃く残っています。これらのことから、日本人のルーツは北にのみあるとは言えないのです。
 稲は南方系の植物なので、稲作も南方で始まりました。それがこの列島に渡来したということは、南方の民族がやってきたことを意味しています。だから弥生人は南方系の民族だったと思います。この弥生人が、後の日本の南方的な要素を形作ったのでしょうか。
 たぶん彼ら弥生人の影響は大きかったでしょう。しかし、その後の日本にもっと大きな影響を与えた南方系の人々がいたと私は考えます。それは縄文時代にはすでにこの列島にやってきていたと思います。
 それは南太平洋からはるばるやってきた人々です。そんな遠いところから来るものかと思わないでください。黒潮という強い流れに乗れば、その移動は十分に可能だったらしいのです。九州南部や四国、紀伊半島南部などの浜には、よくヤシの実が漂着するそうです。ヤシの実はフィリピンなど比較的近い島から流れてくる例もありますが、中には赤道に近い南太平洋の島々から流れてくるものも少なくないといいます。
 ヤシの実のように人間が漂流してきたと言いたいのではありません。彼らはちゃんと船に乗ってやってきたのだと思います。何千年も昔にそんな船などなかったという説もありますが、とすれば、南太平洋に散らばる島々にそれぞれ似たような民族が存在することを説明できなくなります。彼らは大昔から遠洋に漕ぎ出ることのできる船を持ち、はるかな海路を旅する知恵も持っていたと考えるべきです。
 その一部は、間違いなくこの列島にもやってきたと私は思います。なぜなら、南太平洋の島々と同じような風習が後の日本にも存在したからです。例えばフンドシがそうです。夜這いもそうです。刺身に代表される生食も南方由来の習慣です。また、結婚しても夫婦が一緒に住むことなく夫が妻の家に通うだけという通い婚もそうです。さらに、日本列島の西南に近年まで残っていた、成年に達するまで男子が共同生活するという若衆宿や若衆制と呼ばれた制度も南方系のものです。これらの風習だけでなく、言葉にもその痕跡がありありと残っています。
 よく私たちは、ポコポコとかパラパラとかビロビロとか、そんなふうに同じ音を繰り返す言葉を使います。これは北方系の言語にはあまり見られない南方系言語の特徴だそうです。言語についてはそれだけでなく、単語がずばり共通している例が少なくありません。日本語の起源を南太平洋だと考える言語学者が多いのも当然だと思えるほど、日本語と南太平洋の島々の言葉とは共通点が多いのです。
 これが単なる偶然だとはとても考えられません。南太平洋と日本列島は離れすぎていますが、だからこそそんな偶然が起きるとは考えられないのです。考えられることはひとつ、それは南太平洋の島々からやってきた人たちがいたということです。それもわずかではなく、かなりの人数です。でなければ、この列島に南太平洋と同じ言葉が残るはずはありません。
 この列島には、おそらく太古から多くの南方人が黒潮に乗ってやってきたのだと思います。南太平洋の島々と同じ風習が九州南部や四国、紀伊半島南部に多く残ったのは、それらの地域が黒潮の洗う海岸線を持っていたからでしょう。
 こうして南方系の民族がこの列島に入り込み、ひとつの勢力になっていったと思います。それが後の縄文人の一派になっていくと私は考えます。この稿では彼らを南方系縄文人と呼ぶことにします。さらに後の時代に、ハヤト(隼人)と呼ばれた種族が九州南部に存在しました。彼らはおそらくこの南方系縄文人の一派だと思います。沖縄に残る琉球民族もその一派だと私は考えています。またアイヌ民族もそうだと思います。
 アイヌ民族は後に北海道を中心とする地域に住んだため北方系と思われがちですが、身体的特徴から見ると彼らはむしろ南方系なのです。おそらく彼らは後の渡来人による征服事業に追われて北へ北へと移り住んでいったのでしょう。
 この南方系縄文人と前記の北方系縄文人は、この列島の中でおおむねうまく共存していたのだと思います。というより、住み分けていたと思います。南方系縄文人は寒冷な気候を嫌い、後のアイヌ民族を例外として列島南部から北へはそれほど移動しなかったように思うのです。一方、北方系縄文人たちも、それほど南下しなかったと考えます。
 というのも、つい百数十年前まで、この列島の住人たちは地域によって顔形も体型も言葉もかなり違っていたからです。それは、大雑把に分けると関西型と関東型になります。たぶん彼ら2系統の縄文人は東海地方あたりを境界にして住み分けていたのでしょう。
 縄文時代の遺跡から出土する土器の模様などから推測すると、北と南の交流は案外活発だったとも考えられます。とすれば混血もあったはずですが、もし活発な混血が行われていたとしたら、東と西のその後の地域差はもっと小さくなっていたはずです。交流は一部の人々によって行われていたにすぎなかったのかもしれません。
 とすれば、北方系縄文人の祖先と考えられるブリヤート人と現在の日本人がよく似ているのはなぜでしょうか。考えられるのは、南方系縄文人の数が意外に少なかったからだということです。
 考えてみればそれは当然のことです。南方系縄文人の祖先は海を渡って遠い島々からやってきたのです。そんなに多くの人々がやってきたとは考えにくいでしょう。それに対して北方系縄文人の祖先は陸地を渡ってきたわけですから、相当数がこの列島に入り込んで定着したと見ることができます。ですから、北方系縄文人のほうの人口が圧倒的に多かったと考えられます。現在の日本人がブリヤート人とよく似ているのはそのせいだと思います。
 ともあれ、多少の混血により関東以北の人々にも南方の習慣が少しは入り、関西以西の人には北方の習慣が多少は混じったとはいえ、彼ら2系統の縄文人はおおむね住む地域を別にしてそれぞれ独自の文化を築いていったと考えます。

●王朝文化は弥生人が築いた

 弥生人の渡来はそれ以後です。「日本人はどこから来たか!?」で書いたように、彼らは主に中国大陸南部からやってきたのだと思います。
 古代中国人が倭人と呼んだのはおそらくこの弥生人たちです。魏志などの中国の記録を見る限り、倭人は南方の海洋性民族そのものです。そこには北方の血を臭わせるような記述は見当たりません。中国南部には今も蛋民と呼ばれる水上生活者がいます。彼らは海に浮かべた船を住居に、海に潜って魚介類を採ったりして暮らしています。その習俗は、魏志東夷伝倭人条(いわゆる魏志倭人伝)にある「倭人、帯方の東南の大海中にありて(中略)男子は老若の別なく、みな鯨面・文身(入れ墨)、断髪し(中略)好んで潜水して魚や蛤を捕る」(一部意訳)という有名な一文が示すものとそっくりです。
 弥生人たちの主流は、おそらく現在の蛋民たちと同じルーツを持つ人々だったでしょう。「日本人はどこから来たか!?」で書いたように、私の想像ではそれら弥生人たちの最も大きな集団は南インドのタミル人の後裔たちだったはずです。タミル語が日本語の主な源流になったのはこのときだと思います。
 コンピュータによるシミュレーションによると、弥生時代から7世紀ころまでにこの列島にやってきた人は少なくとも数十万人にのぼるそうです。その中にはいわゆる弥生人も騎馬民族も含まれます。騎馬民族の数はそれほど多くないと考えられるので、数十万人のおそらく大部分は弥生人だと思います。
 でなければ、その後の日本列島の低地が水田で埋まるほど稲作が浸透したことが説明できません。またタミル語が日本語の主な源流になることもありえなかったと思います。
 しかし、ブリヤートを祖先にする北方系縄文人の数は新しい渡来人の数倍も、もしかすると数十倍もあったと思います。弥生人は稲作技術を携えて相当広い範囲に入り込んでいます。このため先住の縄文人とはだいぶ混血したはずです。それなのに後の日本人の血にブリヤートの血が色濃く残ったのは、弥生人の数が北方系縄文人に比べて少なかったからだと思うのです。
 稲作というのは、当時の列島において、いや世界的にも画期的な生産技術でした。狩猟や遊牧に比べて、同じ面積の土地で数倍の人口が養えるほどすごい生産技術だからです。この技術は、弥生人が特に勧めなくても先住民の間に広まったのではないでしょうか。弥生人の数が北方系縄文人よりはるかに少なくても稲作が短期間に列島の中で広まったのは、稲作という生産技術それ自体に大きな力があったからだと思います。
 あるいは、彼ら弥生人はこの優れた生産技術をもとに縄文人たちを支配したかもしれません。弥生人は鉄器も持っていました。鉄器は農具だけでなく武器としても使われたはずです。鉄器を知らない縄文人たちは弥生人の敵ではなかったと思います。
 弥生人の言葉が後の日本語の主流を形作ったのは、彼らが支配者としてこの列島の各地で君臨したからかもしれません。もしかすると、この列島に今も息づく南方由来の習俗は、南方系縄文人よりも弥生人のほうが多く残したのかもしれません。弥生人になったと考えられる東南アジアの種族は南太平洋の島々の種族と深い関係があると見られているので、南太平洋の習俗の多くはあるいは弥生人経由で列島へともたらされたとも考えられます。
 ところで、騎馬民族が支配者となってもその習俗は下層民にまでは浸透しませんでした。それに対して弥生人の習俗はどうして下層民にまで入り込んだのでしょうか。
 農耕民族は、騎馬民族とは違って征服した後は被支配者に自分たちの文化を押しつけます。弥生人の場合はまったく稲作を知らない人々に稲作をさせる必要がありました。この必要から、少なくとも初期のころは支配者側の人間が直接指揮して下層民たちに日々の仕事をさせたに違いありません。とすれば下層民にも弥生人の言葉は入り込んだはずです。多くの習俗が入り込んだことも十分にありえます。
 同様に、騎馬民族が支配する世になっても弥生人の習俗は残ったと思います。新支配者である騎馬民族は、その伝統から実務の多くを旧支配者の弥生人にやらせたはずです。たぶん弥生人の多くは滅び去ったのではなく、騎馬民族の下で新支配者側の貴族となって生き残ったのでしょう。
 後の天皇家に代表される皇族の習慣などを見ると、そこには南方的な色彩がたくさんあります。それは騎馬民族が残したものではないでしょう。おそらく、弥生人たちがもたらしたのだと思います。後の王朝文化は弥生人が築いたと言ってもよいかもしれません。

●ニニギは弥生人だった

 騎馬民族の前に弥生人がこの列島の覇権を握ったことを示す伝説があります。日本書紀や古事記に記されている日本神話がそれです。
 日本神話で初代の天皇とされる神武の祖父はニニギノミコトという名前です。この“ニニ”という言葉は、イネの語源と関係していると考える人が少なくありません。つまりニニギノミコトというのは稲作民族を象徴していて、そのニニギノミコトが九州に降臨してその孫が東征し、そして建国したという日本神話は、朝鮮半島からやってきた稲作民族による征服事業を示しているのかもしれないのです。神武は架空の天皇だとしても、稲作を携えた一団が征服者としてこの列島へと渡り(天尊降臨)、その一団が東進(神武東征)してヤマトに国を造った(日本建国)という話はまんざら根拠のないことではないかもしれません。
 彼ら弥生人は海を越えて、もしくは陸づたいにまず朝鮮半島にやってきて、そこで暮らしたかもしれません。朝鮮半島の北部は雨が少なく気候も寒冷なので稲作には適しませんが、南部は日本列島と似た気候風土にあり、そこでは水稲栽培が十分に可能だったのです。事実、日本の縄文時代後期から弥生時代に当たる当地の遺跡から水田の跡が発見されています。それらの遺跡調査から、日本のものよりも古い例が見つかっています。このことから、弥生人たちはまず朝鮮半島にやってきて、そこからこの列島に入ってきたと考えたほうがいいと思います。
 ニニギはその一群の王で、彼は列島にすぐには渡らずに朝鮮半島南部で力を蓄え、その後に征服者として列島に渡ったのかもしれません。
 いずれにしても、こうして稲作民族がこの列島へとやってきました。弥生人たちはおそらく北九州に渡来し、そこからあまり南下せずに東へと広がっていきました。彼ら稲作民族にとって第一に重要なことは、水稲栽培のしやすい土地を探してそこに住むことだったと思います。九州南部は水稲栽培に適さないシラス台地が多く、したがって弥生人たちはそこを避けて東進したのでしょう。このため彼ら弥生人は先住していた南方系の縄文人たち、すなわちハヤトとはあまり混血しなかったと思います。後々までハヤトに南方要素がしっかりと残っていたのはそのせいでしょう。
 弥生人たちは水稲栽培の適地である河内平野と大和盆地に至り、そこで勢力を安定させたと思います。ただし北九州には同じ稲作民族の別派が残っていて勢力を蓄えていたでしょうし、周辺には先住の縄文人たちがわんさかといたことでしょう。畿内の弥生人たちの勢力範囲は、だからそれほど広がらなかったと考えたほうがいいと思います。むしろ、残った北九州勢力のほうが力を伸ばしたかもしれません。魏志などに見える邪馬台国の所在地は今でもはっきりしませんが、さまざまな資料を冷静に見ればそれは北九州にあったと考えるのが自然です。そうした大国が北九州で勢力をさらに蓄えてヤマトに侵攻し、不完全ながら統一政権を打ち立てたとも考えられます。
 その大王は第10代とされる崇神天皇だったかもしれません。崇神はイリ王朝の始祖なので騎馬民族出身のはずです。ところが、彼の本拠地だったとされる大和地方(現在の奈良県三輪山付近)からは騎馬民族に関係する遺跡があまり発見されていません。崇神の墓とされるものはこの列島でもっとも古い前方後円墳なので彼が騎馬民族出身であることはたぶん間違いないのですが、この大和地方に残る騎馬民族関係の痕跡はほかにあまりないのです。彼は、この列島に渡ってきて数代経た騎馬民族の王だったのでしょうか。2世、3世だったとすれば、この列島の習俗に染まり、騎馬民族としての特徴がだいぶ薄れていたことは十分に考えられます。こうして彼は、騎馬民族出身とはいえ見かけは弥生人の覇者としてヤマトに攻め入ったのかもしれません。
 このことについては、次のように考える人もいます。すなわちヤマトには在来の王がいて、騎馬民族出身の崇神はその王の娘に入り婿して王朝を継いだという考えです。当時は母系社会でした。古代の母系社会では、その家で生まれた子供は嫁の家の名前を名乗り、嫁の家の職業と住居、財産を継ぎました(けれども先祖の神は婿の家のものを継ぐ)。崇神が入り婿した王だとすれば、その子孫は嫁の家の名前を継いだはずなので、ミマキイリヒコイニエという彼の後の名前は嫁の家系の名前と関係がありそうです。そうだとすると、ヤマトにもとからいた王も騎馬民族のイリ族という種族と関係のある人々だったことになります。
 ヤマトを最初に治めた王も騎馬民族だったのでしょうか。それはありえることです。ただし、彼らは朝鮮半島、北九州と移動する間に騎馬民族の猛々しさを忘れていったのでしょう。ヤマトにたどり着いたとき、彼らはほとんど農耕民族になりきっていたのではないでしょうか。崇神もその一派だったかもしれません。
 やがて、海の向こうから新しい征服者がやってきました。言うまでもなくそれは大陸の現役の騎馬民族たちです。彼らは優秀な武器と勇敢な戦闘者、そして何よりも馬という道具によりこの列島の豪族たちをまたたく間に滅ぼし、ついにはヤマトに隣り合う河内平野へと達しました。そして、そこに巨大な古墳群を築きはじめたのです(古墳は王の生存中から作られたとみられている)
 彼ら騎馬民族の大王たちがヤマト政権を倒してこの国の覇者になるのに、それほどの時間と労力はかからなかったと思います。彼ら騎馬民族の侵攻を食い止めるのは、おとなしい農耕民族には困難でした。
 騎馬民族としての猛々しさを忘れたイリ王朝はこうして滅び、それに替わって騎馬民族による強力政権、すなわちワケ王朝が誕生したのです。
 この巨大権力によって統一事業が推し進められました。騎馬民族の大きな戦闘能力は反抗勢力を次々とつぶしていったことでしょう。この列島にはじめて国と呼べる体制ができるのは時間の問題でした。

日本人という民族の成立

●繰り返された侵略と征服

 昨年10月、古代出雲の地・島根県で大発見がありました。銅鐸が40個近くもまとめて出土したのです。それらの銅鐸を調べてみると、近畿地方から出土したものと同じ鋳型からできたものが何個かありました。銅鐸は、石や粘土で作った鋳型に青銅を流し込んで作ります。だから同じ鋳型から作られたものは同じ大きさで、鋳型に傷があればそれも複製されます。そのキズから、兄弟だと判明したのです。
 銅鐸は謎に包まれていて、いったいどういう用途で使われていたのかよくわかっていません。用途がわからないのは、この道具についての記録が一切残っていないからです。証拠はないながら、多くの学者は銅鐸を祭器だったと考えています。
 銅鐸は主に畿内で出土している青銅器で、そのことから畿内には銅鐸をシンボルとする政権があったと考えられています。その銅鐸が出雲の地から出土したことで、当時の出雲が畿内と何らかの形で交流を持っていたことがわかってきました。
 一方、同じ場所から銅矛も出土しています。さらに、数キロ離れた場所からは銅剣が何と358本もまとまって出土したのです。銅矛や銅剣は主に九州で出土する青銅器で、銅鐸と同様に祭器の道具として用いられていたと考えられています。このことから銅矛と銅剣は九州政権のひとつのシンボルだったと考えられています。
 銅鐸が九州から出土した例は皆無に近く、銅矛や銅剣が畿内で出土した例もあまりありません。当時の日本列島は、銅鐸文化圏と銅矛・銅剣文化圏にほぼきっちりと分かれていたのです。
 その銅鐸と銅矛と銅剣が揃って出雲から出土したのです。これは何を示しているのでしょうか。
 さらに不可解なのは、これら銅鐸と銅剣がどちらもきれいに並べられて埋められていたことです。遺跡だから埋まっていて当然ですが、これらは自然に“埋まった”のではなく、人為的に“埋められていた”のです。それら銅鐸の多くの取っ手部分にはバツ印が刻まれ、銅剣にも同じ印が刻まれていました。
 古代出雲の人々は、なぜゆえに銅鐸と銅剣に傷をつけて埋めたのでしょうか。
 私は、銅鐸は弥生人、つまり稲作集団の祭器、銅矛や銅剣は騎馬民族集団の祭器だったと考えています。
 北九州に上陸した弥生人たちは稲作の好適地を求めて東へと向かい、河内・大和という最適地を発見してそこに定着しました。大雑把に言えばそうなります。列島各地には先住者である縄文人たちがいましたが、生活する場所が違うので争うことは少なく、混血を重ねることも少なかったでしょう。彼ら弥生人は朝鮮半島から渡ってきた青銅器の光と輝きに神秘的なものを感じ、それを手に入れて祭器として使ったのではないでしょうか。出土する銅鐸は青く錆びていて見た目に美しいものではありませんが、作られた当時はおそらく金ピカに輝いていたはずです。
 こうして銅鐸は弥生人にとって重要な祭器となり、その集団の東進とともに近畿へと伝わっていきました。こうして銅鐸は、近畿で政権を打ち立てた大王たちのシンボルになったと思うのです。
 近畿政権が力を蓄えつつあったころ、しかし北九州には騎馬民族、あるいは騎馬民族系の集団が続々と渡来し、そこで地元の勢力を平らげてみるみる巨大に成長していました。彼らは戦闘集団らしく銅剣と銅矛を崇めました。すでに鉄器を持っていた彼らにとって、銅剣や銅矛は実用品ではありませんでした。祭器として用いていたのでしょう。
 その騎馬民族集団が、ときを得て東進し、近畿政権を打ち倒しました。そのとき以来、この列島で銅鐸が作られることはなくなったのではないでしょうか。
 銅鐸を祭器に使っていた近畿以外の勢力は、中央の政変を知って慌てたはずです。出雲の地で銅鐸が大量に埋められたのは、政変を知った出雲の豪族が新政権への配慮から行ったことだったと私は思います。他の地域から出土する銅鐸も、その多くは意図的に埋められたものなのです。中にはわざわざ割って埋めた例もあります。こんなことをしたのは、たぶん銅鐸をシンボルとしていた上部政権が銅鐸とは何の関係もない別の政権に取ってかわられたためだった思うのです。
 銅鐸が祭器の一種だったとすれば、祭りは支配者の仕事なので支配者側の記録に残っていないはずがありません。それがないのは、この道具が祭器ではないか、あるいは支配者とは無縁のものだったからでしょう。
 銅鐸のルーツとみられるものは朝鮮半島や北九州で出土しています。それらはみな小さいもので、見た目にはカウベルのようです。もしかすると馬の首にでもぶら下げて使われていたのかもしれません。それが弥生人によって東に伝えられていくうちに巨大でしかも派手な装飾のあるものに変化しました。畿内で出土したものには人の背丈ほどもある大きなものがあります。これを馬の首に下げることは不可能です。それは冗談としても、こんな大きなものとなると、櫓の上に吊して叩くとか、そんな用途くらいしか考えられません。かなり重いでしょうから吊して使うことも難しかったかもしれません。やはり銅鐸は祭器として使われたと考えるのが最も妥当でしょう。
 とすれば、銅鐸が記録に残っていないのは、それが後の日本国政権につながる支配者とは無縁のものだったからと考えるしかありません。このことからも、この列島の中心ともいうべき近畿に最初の政権を立てた王朝は、新しい侵略者によって滅んだと考えていいと思います。滅んだのは弥生人の王、滅ぼしたのは騎馬民族の王です。
 では、出雲の地で銅剣までもが埋められたのはなぜでしょうか。
 これについては明確な回答をまだ得ていません。もしかすると銅剣や銅矛は騎馬民族の祭器ではなく、騎馬民族以前に渡来した別の種族の祭器だったかもしれません。弥生人の後、騎馬民族の前に渡来して勢力を蓄えた彼らが近畿政権を打ち倒したという考えです。
 あるいは、こういう考えはどうでしょうか。すなわち、当時この列島には近畿と北九州に大きな勢力がありました。それぞれ銅鐸、銅矛・銅剣を崇めていて、列島の勢力を二分していました。出雲はそのどちらにも属さない第三勢力ともいうべき存在でしたが、争う不利を知っていたので銅鐸も銅矛・銅剣も持って、どちらの勢力ともうまくやっていました。こうして一応の均衡を保っていた列島に、突如として巨大な武力集団がやってきました。彼らは列島の在来二大勢力をあっとう間に滅ぼし、新しい大王となりました。出雲は慌て、滅んだ政権のシンボルである銅鐸も銅剣も土中に埋めた……。
 突如として出現した巨大な武力集団とは、言うまでもなく大陸の騎馬民族です。後のモンゴル帝国などの侵略をみると騎馬民族の行動はどうやら伝統的に素早いので、私のこの推理は案外当たっているかもしれません。
 こうして騎馬民族がこの列島の覇権を握ったのち、列島内部はまたたく間に統一されていきました。統一とは言いようで内実は血塗られた侵略と征服だったと思います。反抗勢力は容赦なく滅ぼされ、あくまで反抗した一群は南、あるいは北へと逃れたでしょう。巨大権力といえども列島の隅々まで完全に支配することは難しかったのに違いありません。その結果、九州南部と沖縄、それに東北、北海道にそれぞれハヤトやアイヌといった人々が後々まで残ったのだと思います。  

●王朝貴族は日本人の原型ではない

 大和朝廷という統一政権ができた7世紀ころから、この列島は日本と呼ばれるようになりました。そして貴族の間でいわゆる王朝文化が花開きました。王朝文化はこののち数百年続き、日本という国の文化のひとつの源流を作ったといわれています。
 しかし、この王朝文化がはたして後の日本文化のもとになったと言えるでしょうか。私はそうは思いません。
 そういう部分は確かにたくさんあると思います。五七五七七の歌、カルタ、羽子板などはその名残りだと思います。正月番組ともなれば必ず聞くあのピ〜ピロロロ〜ンというような音曲は、何とも日本的なものです。おそらく多くの日本人はあの優雅な音色をいかにも日本的だと感じると思います。
 しかし、それは自分たちの直接の源流が王朝貴族にあるからではないと思うのです。その事実とは関係なく、私たちが無意識のうちで自分たちのルーツが王朝貴族にあると感じているせいだと思います。
 皇族の御成婚となれば現代の私たちは国をあげて大喜びします。成婚パレードの通る沿道で旗を振る人々の笑顔をテレビで見るたびに、この国の人々は皇族に対して実に素直な憧れを持っていると感じます。人が何かに憧れるのは、それが手の届かない存在ではないからでしょう。遠い存在だと感じていたら、少なくとも沿道で旗を振ったりはしないと思うのです。たぶん私たちは無意識のうちで天皇家に自分たちのルーツを見ているのだと思います。
 今でさえそうですから、昔の日本人が自分たちのルーツを天皇家に見ていたのは想像に難くありません。事実は違いますが、支配者によるいわば洗脳によって人々はいつのころからかそう思うようになったのでしょう。もしかすると洗脳などはなく、人々は自らの感覚で天皇家を自分たちのルーツだと感じていたかもしれません。天皇家を頂点とする貴族たちのいかにも典雅な装いや振る舞いは、下層の人々にとって天上世界の夢物語そのものであり、そこに神々しい何かを感じ取ったとも思うのです。
 それは、けがれなき自分たちのルーツだったかもしれません。それは神という存在に近いものだったと思いますが、といってもそこに自分たちのルーツがあるのですから、天皇家に対して人々はある種の一体感を感じていたのではないでしょうか。
 昔の日本には貴種崇拝の考えがありました。例えば大田舎の農家に何かの事情で貴族が宿を求めてきたとします。するとその家の主は喜んで自分の娘を夜伽に差し出しました。貴族の種をもらおうというのです。儒教が入る前のこの国の性文化はいかにも開けっ広げで貞操観念などはありませんでした。それにしても自分の娘を簡単に差し出したのは、あわよくば貴族の血を引く子供を得て貴族の一員になろうと考えたからでしょう。貴族たちと自分たちはまったく違う人種で、しかも彼らが征服者の後裔だと知っていたら、多くの父親はこうも簡単に娘を差し出さなかったのではないでしょうか。やはり昔の人々は天皇家に対してある種の一体感というか、もしくは同種性を感じていたのだと思います。
 現在の私たちが王朝音楽を聴いて日本的な調べだと感じたりするのは、無意識のうちに自分たちのルーツがそこにあると感じているせいだと思います。
 しかし、当時の王朝貴族と現代の私たちとは、意識の面は別として血の上でのつながりはほとんどないと思います。意識の上でつながっているため当時の貴族の習俗は今の時代にも残っていますが、それはあくまで習俗に限られると思います。おそらく大多数の日本人の血に王朝貴族の血はほとんど流れ込んでいないでしょう。
 では、血の上で現代の私たちにつながるのは、当時の農民や漁民など、支配されていた側の下層民なのでしょうか。そうだとすれば、大雑把に言って関東以北の人々は北方系縄文人、関西以西の人々は南方系縄文人と弥生人との混血種族にそのルーツがあるということになります。
 その考えに間違いはないと私は思います。ただし、彼らがそのまま現代の私たちにつながっているのではなく、彼らと私たちとの間にはまた別の民族の血が流れ込んでいて、その結果として今の私たちが存在していると私は考えます。

●台頭してきた武士とは何者か

 平安時代も終わりに近づくころから、関東地方を中心とした地域に武士という存在があらわれてきます。当時の武士は実質的には農民でした。農民の中で力を持つ者が多くの農民をまとめ、ひとつの勢力を作りました。そうした勢力が関東地方のいたるところで発生しました。彼らは自分たちの土地を守るために武力を持ちました。そこから彼らが戦闘集団としての姿を見せはじめ、後に武士と呼ばれるようになったのです。
 一方、京都を中心とする関西の貴族階級は昔ながらの優雅な生活を送っていました。男でも白粉を塗って女はお歯黒をして歌をうたって蹴鞠をしたりしていました。これに比べると武士たちはまるで異民族です。貴族と農民という差があったのですから習俗が違うのは当然としても、あまりに違いすぎます。関西地方の農民はそれほど荒々しくなかったようなので、やはり関東に誕生した武士という集団は当時の日本の中では異様な存在だったのではないでしょうか。
 実際、京都の貴族たちは武士たちに異常な何かを感じていたらしく、彼らを恐れること尋常ではありませんでした。怠惰な王朝文化の中に浸りきっていたので武士たちの荒々しさがよけいに異質に感じられ、それが身震いするほどの恐怖にまでつながったのでしょう。
 それにしても、それまでの日本には見られなかった武士という集団がこの時代に関東という土地に限って突然出現したのはなぜでしょうか。
 私は、彼ら武士たちはもともとそこに住んでいた日本人ではなかったと考えています。具体的には、朝鮮半島からの渡来人だと思っています。その子孫が関東平野を開拓する中で後の武士を形作っていったと考えているのです。
 大和朝廷による日本統一の後も、この国には朝鮮半島から多くの人々がやってきました。日本書紀には「何年何月に百済の何氏が何千人来たので下野に移住させた」といった記述があちこちに見られます。朝鮮半島では、新羅が唐の後ろ盾を得て高句麗と百済を滅ぼしたことによって統一政権が生まれました。この争乱によって朝鮮半島からかなりの数の人々が日本へやってきたのです。彼らは日本各地に移住しましたが、特に関東地方に多く住み着きました。当時、未開拓の関東の開拓を彼ら渡来人にさせようという思惑が日本側にはあったのかもしれません。
 こうして関東には多くの朝鮮民族が移住しました。彼らが後の坂東武者につながり、それが武士と呼ばれるようになっていくと私は考えています。
 ここに興味深い話があります。それはサムライの語源が古代朝鮮語にあるという説です。この説では、サム・レンイという古代朝鮮語が日本語のサムライになったといいます。サムは戦い、レンイは何々する者という意味だそうです。つまりサムライは戦士ということになります。日本語の侍の本来の意味が戦士だったとしたら、またこのサムライが後に武士と呼ばれるようになった存在だとしたら、この説は傾聴に値します。
 前述したように新羅の統一後、朝鮮は徹底的な中国化を進め、その結果、半島のそれまでの記録はほとんど捨て去られました。このため古代朝鮮でどのような言語が使われていたのかよくわかりません。ある程度の想像はできるようですが、それを裏付ける資料はまったくないと言ってよいのです。このため日本語の語源のひとつが古代朝鮮語にあるとは断言できません。そうなるとサムライに関するこの説の信憑性が疑われます。
 朝鮮というとハングル文字を思い浮かべる人は多いでしょう。しかしハングルは15世紀に作られたもので、古代から存在していたものではありません。もっと以前には吏読(イト)という、日本の万葉仮名のような文字も存在しましたが、それも半島の中国化によって消滅してしまったのです。ちなみに当時の日本(の知識階級)でどのような言葉が使われていたのかがある程度わかるのは、わが国には古事記や万葉集という記録が残っているためです。古事記も万葉集も文字はすべて漢字ですが、しかし内実は漢文ではありません(古事記は一部が漢文)。表意文字の漢字の意味ではなく音を利用して読むのです。つまり当時のいわゆるヤマト言葉の各音を、漢字を使って表現しているわけです。今の暴走族が漢字をフル活用して自分たちのグループ名を書くようなものです。
 朝鮮半島にも昔は古事記や万葉集のようなものが存在していたと思います。しかし、それは古代のある時期になくなってしまったのです。残念ですが、このため古代朝鮮の言葉のことはよくわかりません。
 しかし古代朝鮮の言葉が列島の言葉とかなり似ていただろうことは、当時の両地域の交流の活発さを考慮に入れれば十分に推察できます。現代の朝鮮の言葉と日本語は文法的にはほぼ同種で、共通する単語も少なくありません。このことからも古代の列島の言語の語源のひとつが半島にあったと考えるのはごく自然です。サムライの語源が古代朝鮮語にあるという説も、それを証明する資料がないからといって無視できないと私は思います。
 この説では、後の日本の三郎という名もサムレンイという言葉から生まれたと見ています。この名前は単に三男の意味で付けられたのではなく、昔は勇者というような意味合いの言葉として名前に用いられたというのでしょう。源頼義の息子には新羅三郎義光という武将がいます。この三郎もそうした意味を持っていたのでしょうか。ところでこの新羅三郎という名前は、この説によれば「新羅の戦士」を意味します。このことから、源氏は新羅系渡来人の後裔だったのではないかとまでこの説では見ています。
 源氏が朝鮮系だったことは十分にありえると私は考えます。なぜなら源氏は関東で起こった武士集団だからです。朝鮮半島からの渡来人が後の武士になったと考えるのなら、武士の棟梁となる源氏もまた渡来人の後裔だったと考えて無理はありません。
 いずれにしても、関東を中心とする地域に朝鮮からの渡来人が大量に住み着いたことは歴史的事実です。彼らは後の日本に重大な影響を与えたと私は考えています。

●半島の血が日本人の一典型を作った

 朝鮮半島からの渡来人が関東地方(現在の行政区画の関東地方ではない。昔は東日本一帯をこう呼んでいた)の開拓に当たったことにより、先住民との間で混血が進んだと思われます。こうして現代の東日本人が形作られていったと私は見ています。 
 東日本の人の発音には、西日本人のそれに比べて荒々しいとも感じる強さがあります。これは子音をはっきりと発音するせいです。この傾向は大陸北方の言語において顕著です。現在の韓国の人々の話し方を聞けばよくわかります。彼らは子音をはっきりと発音するので、彼らの声を聞いているとずいぶん強い調子で話しているように感じます。この発音のクセは朝鮮半島から渡来した人々がもたらしたものではないでしょうか。
 子音について説明しましょう。例えば英語のnightという言葉を日本人が日本語的に発音するとnaitoになります。つまり日本語になると“t”が“to”になってしまうのです。日本人は“t”や“s”などの子音を発音するとき、それでは落ち着かないと感じるらしく“a”や“i”“u”などの母音をくっつけてしまいます。特に西日本人がそうです。これに対して東日本人は西日本人よりは子音をうまく発音します。関西弁に比べて上州方言などの関東の言葉が歯切れのよい強さを感じさせるのはこのせいだと思います。
 関東に代表されるこの発音の傾向を見ても、そこに朝鮮系渡来人の匂いを強く感じます。
 発音だけでなく、彼らはこの日本に別のものももたらしました。それは猛々しさともいうべき直線的な性向です。それまでの日本の歴史を見るかぎりでは、この国の人々はどちらかというと穏やかな民族だったようです。王朝貴族などは穏やかどころかフニャフニャの軟弱です。当時の記録はほとんど支配者側の記録であって下層民のことについて書かれているものはほとんどありません。そのため下層民の習俗や性向についてはよくわかりませんが、軟弱な支配者に治められていた人々が猛々しかったとは思えません。それに比べて関東に起こった武士たちはまさしく戦士そのもので直線的な荒々しさを持っていました。この性向は半島の渡来人がもたらしたのではないでしょうか。
 直線的なこの性向は、彼らの生き方によくあらわれています。彼らは名を惜しみ、誇り高く生きました。「名こそ惜しけれ」という後の武士たちの倫理感覚は彼らから生まれたと思います。その倫理感は後には一般民衆にまで浸透し、一本筋の通った後の日本人を形作っていきます。武家政権が誕生することで、そのような倫理感は関東だけでなく関西にも広まりました。
 そのように考えれば、現在の日本人の直接のルーツは朝鮮半島にあるとも言えます。彼ら朝鮮半島の人々は、その使っていたであろう言語から推測して大陸系だったでしょう。
 一方、先住していた人々は、さきの考察から北方系縄文人たちだったと思われます。とすれば、大陸の血の上にまたさらに大陸の血が重ねられたことになります。
 以上のことから、現在の多くの日本人につながるもともとのルーツは大陸にあると私は考えます。

●猛々しさと誇りを忘れた日本人

 しかし、いつのころからか日本人はこの猛々しさを忘れました。それはまた別の民族がこの列島にやってきたためではありません。たぶん、ぬるま湯のような環境で長く暮らした結果だと思います。
 源氏の棟梁だった源頼朝はどちらかという軟弱な武将でした。それは彼が京都で生まれてそこで育ったせいだと思います。人間は育つ環境に大きく影響されるのでしょう。猛々しい血を引いていても、ぬるま湯にどっぷりと浸ってしまえば軟弱な人間にしかならないのかもしれません。この列島を征服した騎馬民族たちも、支配者として君臨してしまった後は怠惰で情けない人々になってしまいました。中国の清王朝は騎馬民族による征服王朝ですが、その後裔はその面影などまったく感じられないあのラストエンペラーです。かつての騎馬民族の誇りなどは完全に忘れ、信じられないくらい軟弱になってしまったのです。
 日本においては、その後の鎖国政策により外敵のことなど考えなくてもよい平和な環境が長く続きました。そのような環境の中で人々はかつての荒々しさを失っていったのだと思います。また、この鎖国は排他的で独善的な性向を作ったと思います。自分も日本人なのでこんなことを書くのははばかられるのですが、今の多くの日本人は表面的には穏やかなお人好し、しかし内面は排他的で利己的と言っておおむね当たっていると思います。このような性質は、江戸時代の300年近い鎖国によってできたのではないでしょうか。
 排他的な性質は古代からありました。日本列島の西南方面に近年まで残っていた若衆宿や若衆制と呼ばれた制度下では、若者たちは他のムラの連中を異常なほどに排斥しました。若者たちはムラの娘を大切にしていたのか、他のムラの男たちが自分たちのムラの娘のところに夜這おうものなら、集団でこれを痛めつけて追い出しました。ムラとムラの若者たちは集団でよく喧嘩したそうです。
 そんなことを聞くと、現在の日本人が外国と一線を画してウチに閉じこもりがちなはそのへんにルーツがあるのかなとも思います。若衆制は南太平洋の島々を中心とした南方で発達した習俗なので、もしかするとその習俗を携えて日本列島へやってきた南方系縄文人の祖先は意外に多かったのかもしれません。「鬼はソト、福はウチ」という節分のかけ声もウチを大切にする考え方から出たものだと思います。節分のこのかけ声はかなり昔から存在するようなので、日本人が古代から排他的だったことは確かだと思います。
 排他的な性向は稲作が始まってから強まったようです。稲作には土地と水と人手が欠かせませんでした。このため土地をめぐる争い、水利に関する争いが頻発しました。そのような争いはムラの中でも起きましたが、他のムラとの間でもよく起こったようです。他のムラとの闘いが起きればムラが一丸となってこれに当たりました。このためムラの人々は運命共同体であるという意識で強く結ばれていて、その一方で他のムラとのことになると冷淡だったり、ときには敵対視もしたのでしょう。
 これらの歴史が日本人を排他的な民族に仕立て上げたのだと思います。その排他性は江戸時代の鎖国によってさらに強まったと見たほうがいいのかもしれません。
 ところで、この稲作はその後の日本人のもうひとつの特殊性を作り出しました。それは調和を重んじ、調和を乱す者を排除しようとする性向です。土木機械などのない昔、稲作はひとつのムラの人間の共同作業がなくては成り立ちませんでした。共同作業に参加しない者は疎まれ、排除されたに違いありません。現在の日本の一面を特徴づけている調和第一主義は、そのような習慣から生まれたと考えていいと思います。
 この稲作は、驚くべきことに北海道を除く日本列島の南から北までのほとんどの地域に広まりました。これはみんなが米を食べたかったからではないと思います。稲作という生産技術が渡来する以前は、この列島の人々は別のものを食べて生活していました。今さら米なんて食べなくていいよという人たちはいたでしょう。米は膨大な手間をかけないと手に入らない作物でしたから、そう考える人たちは多かったと思います。それなのに稲作が日本列島のほぼ全域に広がったのは、おそらく支配者たちの半ば強引な奨励があったからのように思います。古代の征服事業は、各地への稲作の強制事業という一面もあったのではないでしょうか。
 そして江戸時代にいたり、その強制事業はさらに強まりました。徳川政権下の各大名は、領民に対して税金をすべて米で納めさせました。唯一の例外は北海道の松前藩のみです。これは当時の稲が北海道で栽培できなかったためです。キララのような耐寒冷型の品種があったとしたら、間違いなく松前藩も米で租税を納めさせたでしょう。
 南北に長いこの日本列島のすべての地域で稲作をするのは困難を通り越して不可能でした。東北地方ではかろうじて稲作が可能でしたが、稲はもともと南方の植物なので寒気が入ればたちまち枯れていわゆる冷害が頻発しました。それでもこの国の人々は米に執着し、田を畑に変えて他の作物を作るといったことをあまり考えなかったようです。冷害が起こるたびに飢饉となり、土地によっては食べるものがなくて死人の肉さえ食べました。そんなことを繰り返しても、この国の人々は稲作を捨てませんでした。
 もっと年貢を出せと殿様に言われれば、この狭い国に生きた人々は低地だけでなく高台にまで田を拡げ、あげくは山の斜面を階段状に削ってそこに一枚一枚と田を作っていきました。昔は殿様が怖くて仕方なくそうしたのかもしれません。しかし段々畑に象徴されるこのような稲作の仕方は、ほんの近年まで各地で当たり前のように行われていました。また腰まで体が沈む湿地帯をも日本人は水田に仕立て上げてきました。腰まで泥にはまりこんでする田植えは過酷としか言いようがないほどの重労働でした。このような重労働も、ほんの近年まで行われていたのです。日本人の血の中には、稲作をかけがえのないものとする意識が今も根強く流れているのでしょうか。
 それほどまでに稲作に執着したのが日本人という民族です。稲作による習慣が根強く残ったのは当然でしょう。それが現在の日本人の考え方を形作っている面が非常に大きいと私は思います。ソトには排他的でウチでは調和第一主義というものの考え方はその最たるものだと思うのです。
  それらの考え方は、おそらく稲作が伝わった弥生時代にはすでに形を見せていたと思います。それから10世紀を経て、この国のほとんどの地域に稲作が広く浸透し、稲作民族特有の性向が根付きました。
 そこに、半島から誇り高き一団がやってきました。彼らは「名こそ惜しけれ」という強烈で爽やかな倫理感を日本人に植え付けはじめました。彼らサムライはその後の日本人の一典型を作ったと思います。
 しかし、千年の歴史を重ねてきた先住の稲作民族の底辺に流れる性向までを変えることはできなかったのでしょう。今でも日本人がしつこく調和を重んじるのは、サムライ以前の長い歴史の重みを私たちが感じているからかもしれません。
 つまり現在の日本人の血のルーツは、大雑把に言って北方の大陸にあると思います。しかし、その精神的ルーツは南方系縄文人や弥生人、つまり南方にあるようです。精神的ルーツが南方にあるのは、後の日本人が主食と崇めた(としか言いようがない)米が南から来たものだったからだと思います。その影響は血の濃さをも凌いで日本人の心の底に深々と浸透したのだと思います。

《参考文献》
「日本語をさかのぼる」(大野晋)・「日本語の起源-新版」(大野晋)・「二つの顔の大王」(小林惠子)・「聖徳太子の正体」(小林惠子)・「天武と持統」(李寧煕)・「日本の古代1」(森浩一編)・「古事記物語」(太田善麿)・「原・日本人の謎」(邦光史郎)・「新釈日本史-この国のはじめ」(邦光史郎)・「古代天皇の秘密」(高木彬光)・「歴史の舞台」(司馬遼太郎)・「逆説の日本史1」(井沢元彦)・他  


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